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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.274 (2005/04/11)
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 □ 川上弘美『ゆっくりさよならをとなえる』
 □ 阿部和重「グランド・フィナーレ」
 □ 松本清張『黒い画集』
 □ 白洲正子『おとこ友達との会話』
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日々の読書日記、その1。古書店でエチエンヌ・ジルソンの『神と哲学』を発見。
ジルソンの本は一度は読んでおきたかった。序文に「天才とはこういう人をいうの
であろうか、かれの講義を聞くとそれだけ自分の頭が作り変えられるような気がし
た」と讃えられているのはベルクソンである。ジルソンは「ベルグソンによって聖
トマス・アクィナスの哲学的方法に導かれた者は、いまだかつてだれもいない」と
書いている。ということは、ジルソンこそベルクソンによってトマス・アクィナス
の哲学的方法に導かれた最初の人だということなのだろうか。訳文を読むだけでは
よく判らないが、そう解する方が面白い。トマス・アクィナスの研究を通じてジル
ソンは「デカルトの形而上学の諸帰結は聖トマス・アクィナスの形而上学との関係
においてのみ意味をなすこと」に気づいた。話が佳境に入っていく。

その2。ちくま学芸文庫から古東哲明さんの『現代思想としてのギリシア哲学』が
刊行された。この本は以前講談社の選書メチエ版で読み、とても興奮した。永井均
さんが解説を書いているので、選書メチエから同日(4月10日)付けで出たばかり
の『他界からのまなざし──臨生の思想』とあわせて速攻で買った。古東さんの本
では『ハイデガー=存在神秘の哲学』も素晴らしかった。そのあまりの濃度に圧倒
され序章だけ読んで中断している『〈在る〉ことの不思議』ともども、しばらく古
東さんの骨太の叙述に浸ってみよう。「骨太の叙述」は永井均の言葉。「私の哲学
上の仕事は、いわば古東哲学の内部にあって、その細部を穿り返しては埋めなおす
ような作業にすぎない」と永井さんは書いている。
 

●948●川上弘美『ゆっくりさよならをとなえる』(新潮文庫:2004.12.1)

 川上弘美さんは短い期間、明石に住んでいたことがある。「明石」と「明石ふた
たび」という2000年の3月(朝日新聞)と7月(「本」)に発表された二つの短い
文章を読むと、川上さんが明石に住んでいたのは「神様」でデビューする数年前、
昭和が平成に変わったほんの少し後だったことがわかる。「海に近い土地である。
空気が、明るい。人も、明るい。」「いくばくかの時間その土地に住めば、人は知
らず知らずと土地の空気に染まる。その土地が明るい空気を持っていたなら、人は
自然に明るいほうへと寄っていくのではないか。」私はもうかれこれ二十年近く隣
町の垂水というところに住んでいるから、川上さんと同じ「明るい」空気をすって
いたことになる。「明石に住んだ短い期間、私の血は澄んでいたように思う。胸は
いつも新しい空気に満たされていたように思う。」この一文だけで『ゆっくりさよ
ならをとなえる』は私にとって特別な本になった。どこから読み始めても、どこで
読み終えても、「しょうがパン」のような忘れがたい味わいが残る(「しょうがパ
ンのこと」)。「生きる歓び」がしんじつ実感できる(「爪切りも蠅も」)。でも
「しょうがパン」て、いったいどんな味なんだろう。

●949●阿部和重「グランド・フィナーレ」(『文藝春秋』2005年3月号)

 文藝春秋誌に掲載された芥川賞受賞作は、これまで辻仁成の「海峡の光」(第11
6回・平成8年度)と平野啓一郎の「日蝕」(第120回・平成10年度)を読んだこと
があったが、いずれも途中で挫折した。作品が私にあわなかったのか、それとも雑
誌掲載のかたちがあわなかったのか。たぶんその両方がたまたま合致していたのだ
と思う。「グランド・フィナーレ」も最後まで読み切れないのではないかと思って
いた。その予感はほぼ的中した。なんとか読了できたのは分量がさほどでなかった
ことと、読み進めていくうち先に読んでおいた村上龍の選評が実に的確であること
が分かってきて(それなのになぜ推したのか納得がいかない)、そのことを最後ま
で読んで確認しておきたかったことと、幕切れに「問題」ありとウワサをきいてい
たからだ。読み終えて、この作品は私にあわない、というか手に負えないと思った。
雑誌掲載のかたちで読むと、なぜか作品のキモがつかめないような気がする。単行
本で読みなおすほどの衝撃とか感銘とかこだわりを感じなかったので、斎藤環さん
の解説がついた新潮文庫の『ニッポニアニッポン』を読んでみることにした。阿部
和重という書き手をこの程度の作品で「見切る」のは惜しいように思ったからだ。

●950●松本清張『黒い画集』(新潮文庫:1971.10.30)

 もうかれこれ3年前のことになるが、博多と門司に一泊ずつしたことがある。そ
の時、小倉の松本清張記念館をのぞいた。小倉には時間調整のため立ち寄り、記念
館のことも小倉城を見物した際、偶然に見つけた。(ぜひ見たいと思っていたわけ
ではない。そもそも文学館があまり好きではなかった。)『黒い画集』はその時「
記念」に買った。3年かけて一篇ずつ惜しみながら読んだ。松本清張は学生の頃、
長編小説を読みあさったことがある。はじめて読んだ短編には、懐かしい味わいが
あった。小説を読む愉しさの原点のような味わいがあった。

●951●白洲正子『おとこ友達との会話』(新潮文庫:2005.4.1)

 昨年『いまなぜ青山二郎なのか』を読み『遊鬼』に圧倒されて私の白洲正子体験
は始まった。裂帛の気合いで他者の人品骨柄と向かい合う真剣勝負のなかから白洲
正子の文章は綴られる。そこにこそ真正の批評が立ち上がる。この人の文章は生き
ている。白洲正子自身は鬼籍に入っているが、その魂は文章が読まれるたび、いま
ここに立ちあがる。書かれた文章だけではない。記録された言葉だけでもない。か
つて白洲正子の口から発せられた言葉は精神の律動として、ひとつの出来事として
いまなお響いているに違いない。

 『おとこ友達との会話』はとてもよかった。対談でも討論でもなく会話、テーマ
や決まり事があるわけではない会話。この本を読んで何かためになる知識や情報、
気の利いた思想の手掛かりなどが得られるわけではない。得られないわけでもない
が、この本を読むことの意味はそういうところにあるのではない。ここに収められ
ているのは良質のワインの香りや最高級の料理の匂いの記憶のようなもので、その
残り香をたよりに白洲正子と九人の「おとこ友達」との会話をいまここに立ち上げ、
そこに流れていた贅沢で創造的な時間を反芻し追体験すること、そして読み終えて
何も残らないことそのものを味わうのでなければこの本を読む意味はない。

 たとえば多田富雄との対話「お能と臨死体験」に次のやりとりが出てくる(282-
3頁)。多田「匂いだけで、すごい物語のある情景が思い浮かぶことがあります」。
白洲「あります、すごく。私、お香だなんてきっとそういうもんだと思う。反魂香
[はんごんこう]だなんて、幽霊をほんとに見てしまうんですから」。多田「反魂
香というのは、お香の匂いで死者と過した情景、その上性的なことまで思い浮かべ
させるんでしょうね」。

 良いソムリエは、素人の客との会話の中で「客に合わせてそれまでにないワイン
についての語り方を生み出すことができる」(114頁)。茂木健一郎さんが『脳と
創造性』の第4章「コミュニケーションと他者」でそう書いている。つまり「よい
ソムリエというのは、客が何かを言った時に、その場で口から出任せを発すること
ができるクリエーターなのである」(113頁)。この「口から出任せ」こそ会話が
もつ創造性の基点であって、「私たちは脳から外に言葉を出力してはじめて、自分
が何を喋りたかったのかが判るのである」(135頁)。──白洲正子の文章を読み、
白洲正子の会話録を繙くことは、そのような創造、発見の現場に立ち会うことだ。

 いま文庫版で『両性具有の美』を再読している。白洲正子はかつて青山二郎に「
おまえは、俺と小林[秀雄]のおかまの子なんだからしっかりしろ」と言われたこ
とがある(河合隼雄との会話「魂には形がある」にその話題が出てくる)。だから
この本はけっして読み終えることができない。

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