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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.273 (2005/04/01)
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 □ 小島寛之『文系のための数学教室』
 □ 森岡正博『感じない男』
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●946●小島寛之『文系のための数学教室』(講談社現代新書:2004.11.20)

 If you move, you shall die. と Don't move, or you shall die. は違う。前
者は日本人の英語で、後者はネイティブの表現。数理論理の「ならば」(「Aばら
ばB」の文は、Aが偽のとき常に真)と日常論理の「ならば」(A→原因、B→結
果)は異なる。この違いがもたらす違和感は、セマンティックな立場(文を真偽だ
けから見る立場)から論理を扱うことから生まれるのであって、だからこそシンタ
ックス(文の真偽と無関係な推論としての手続)から論理を理解することが肝要で
ある(第1章「日常の論理と数学の論理」)。

 スピノザの方法(『エチカ』の幾何学的証明)は、シンタックスとしては全くも
って正しい。しかしスピノザによる神の証明は、森嶋通夫が言ったように、アロー
らによる一般均衡定理の証明と形式的には全く合同である。「神の存在さえ証明で
きるのだから、存在することが証明された均衡解にどれだけの意味があろうか」(
『思想としての近代経済学』)。網野善彦によると、お金や金融と神や汚れとは深
い関係にあった。神の数学から金融の数学への展開は、数学の世俗化の歴史を描い
ているのである(第4章「神の数学から世俗の数学へ」)。

 数学はどのようにあるか、ということが神秘的なのではない。数学がある、とい
うことが神秘的なのである。ハイデガーは「言葉こそ存在の住居である」と言った。
人間は、存在すると同時にその存在を言葉によって体現する。そして数学もまた言
葉であり、学校で教わる前から私の中に実在しているインネイトなものである。《
ですから、筆者にとっての数学は、「能力テスター」でも「コンビニエントなテク
ノロジー」でもなく、ましてや「神との対話の道具」でもありません。自分という
尊い〈存在〉の証し、「私がここにこうしている証し」、そういうものだと感じる
のです。》(終章「数学は〈私〉の中にある」)

 ──違和感を覚えた箇所(たとえばスピノザに対する評価とか、「文系こそ数学
の本籍地だったのではなかったか」とか)はあったけれど、本書を読んで、「〈私
〉の中に数学がある」という著者の驚きを私もまた共有できた(と根っからの文系
人間である私は思った)。

●947●森岡正博『感じない男』(ちくま新書:2005.2.10)

 かつてフロイトは幼児の性欲を語って良識ある世人の顰蹙をかったというが、森
岡正博は男の不感症を語って男たちの失笑をかうのかもしれない。それはたとえば
本書のキモともいえる次の文章を読んで、「『あなた』とはおまえ自身のことだろ
う」と思わずつっこみをいれたくなるときに意図して浮かべられるもの(思わず洩
らされるものではないし、冷笑でもない)のことだ。森岡が期待しているような不
快感を持つ読者は、あんがい少ないのではないか。むしろ不必要にパセティックで
生真面目な口吻のうちに意図されざるユーモアを感じとり、ついからかってみたく
なるのではないか。(それが「不快感」のもうひとつの表現なのだといわれればそ
れまでだが。)

《男の読者に聞いてみたいのだが、あなたは自分の父親がマスターベーションして
射精するところを想像することができるだろうか。おそらく、多くの読者はそうい
う想像をしようとすると、何か気持ち悪くなるのではないか。吐き気をもよおす人
もいるかもしれない。父親がおいしそうに蕎麦をすすっているところは容易に想像
できるのに、どうしてマスターベーションはダメなのか。それは、あなた自身が、
マスターベーションというものを心底から肯定できていないからだ。(略)男はよ
く、自分が母親の胎内から生まれたということを感慨深く語るが、自分の父親の射
精から生まれたということに関しては、徹底的にそれを隠蔽する傾向があるように
思われる。その背後には、やはり、射精にまつわる不感症の問題と、男の体が汚い
という問題が潜んでいるのではないか。》(170-1頁)

 森岡は「男の不感症」と「感じない男」を区別している。前者は、射精がそれほ
どたいした快感ではない(一種の排泄の快感でしかない)こと、そして(こちらの
方が核心なのだが)射精後、一気に興奮が醒め全身が脱力し暗く空虚な気持ちに襲
われるということだ(32頁)。後者は、自分が不感症であることを素直に受け入れ
ず、どこかにもっとすごい快感があるんじゃないかと思い、快感では女に勝てない
と思い、だから女の快感を支配したいと思い、自分の体を汚いと思い(「だって男
の体は汚いじゃないですか!」(143頁))、だから自分の体を愛することができ
ず、制服フェチやロリコンに走ったりする男のことだ(158-9頁)。

 いや、「セクシャリティの問題に、一般的な解答はない」(176頁)のだから、
制服フェチやロリコンに走るのは男一般ではない。「制服フェチとは、少女の体に
なりたいということだ」(91頁)とか、「ロリコンの男は、自分がその中へと乗り
移るに値する少女の体を求めて」(133頁)いるといった、「不感症で汚い自分の
体からの脱出願望」という仮説で説明できるのは、森岡自身のセクシャリティであ
る(161頁)。だから、「「不感症なのだけれども、やさしくなりたい」という道
を探してみるのも、ひとつの男の生き方ではないだろうか」(167頁)といわれる
とき、それは森岡が進む道であって、男一般の道ではない。少なくとも私が進む道
ではないように思う。

《不感症なのだけれども、射精してよかったと心から思えるようになること、射精
したあとの墜落感や疎外感を味わいながらも、やさしい気持ちが心に広がり、人間
や世界をいつくしみたくなること。私が求めているのは、このようなことだと思う。
》(167頁)

 ここでもまた失笑を浮かべるしかない。だってそれだと、(森岡自身がもう一つ
の道と認めている)「真の快楽」の追求と変わらないじゃないか。森岡が彼らと別
の道を歩もうと思うのは、「彼らのように真のオーガズムを追求する方向に行って
しまうと、自分のセクシャリティのねじれや、対人関係のねじれを維持したまま、
「性の快楽への欲望」だけが肥大することになりかねないからである」(165頁)。
ここで「真のオーガズム」や「性の快楽への欲望」を「やさしさ」に置きかえれば、
それはそのまま森岡の進もうとする道についてもあてはまるじゃないか。

 本書に代々木忠の『プラトニック・アニマル』(1992)の名がでてくる。私はか
つてこの本を読んでいたく刺激を受けた。(刺激といっても、代々木忠監督のビデ
オを観てえられる刺激とは異なる種類のものだ。)森岡の「やさしさ」より代々木
の「オーガズム」の方が私には具体的でわかりやすい。しかし、森岡によって次の
ようにまとめられた代々木の道は、その前半部分はともかく、後半部分はとても危
険だと思う。それは「やさしさ」の道がかろうじて踏みとどまっている「エゴ」を、
いともやすやすと放棄していることからくるものだ。

《代々木忠もまた、「射精」と「オーガズム」を区別したうえで、男が男の鎧を取
りはずし、自分のエゴを崩壊させたときに、真のオーガズムを体験できると言う。
そして、地球上の人々がみんなオーガズムを体験すれば、世の中はずいぶん住みや
すくなるはずだと述べる。》(164-5頁)

 「やさしさ」への欲望だけを肥大させないかたちで森岡の道を進んでいくことは、
はたして可能か。可能であるとすれば、それは「禁欲」の道なのではないか。「セ
クシャリティのねじれ」を矯正しようとすることが、「正しい(ねじれていない)
セクシャリティ」という妄想(=もう一つのねじれたセクシャリティ)を生み出す
ことになる。だとすると、「セクシャリティ」を超えること、いや、そこから不断
に抜け出そうとすることでしか「ねじれ」はただせない。禁欲、あるいは究極の禁
欲としてのオナニストへの道? あるいは性愛を通りこした友愛(友情の表現とし
ての性愛)、友情への道?

 こうして、私もまた失笑をかうことになる。失笑をかうことでしかセクシャリテ
ィは語れない。なぜなら、セクシャリティとは「自分に染みついた、性についての
感じ方や考え方のこと」(12頁)だからである。セクシャリティ(のねじれ)は語
りえない。それは一種の無意識だからである。語りえないセクシャリティ(のねじ
れ)をめぐって、森岡のように語るのではない、もっと豊かで多様な語り方はない
のか。

 本書を読み終えて、ジョン・ケージが『小鳥たちのために』で語った「キノコの
性」の話を思い出した。うろ覚えだが、一つの種類のキノコに八十の雄と百八十の
雌のタイプがあって、ある組み合わせ(たとえば雄のX番と雌のY番)では繁殖で
きるが他の組み合わせではできない、云々。それは最後に書かれた次の文書を読ん
で思い出した。

《性には確かに豊かな面がある。だが私は、それを語る前に、ぜひともやっておく
べき作業があると思うのである。ふだんは語られることの少ないそのような作業に、
私は集中してみたのである。その作業をやり遂げてはじめて、他人を欲望の単なる
踏み台にしないような多様なセックスのあり方が開かれてくるように思うのだ。そ
こには、実に様々なあり方が含まれてくることになるだろう。》(175頁)

 私としては性の多様性、というよりは複数性(n個の性?)へと開かれた文章を
森岡に書いてほしいと思う。「他人を欲望の単なる踏み台にしないような多様なセ
ックスのあり方」という森岡の(もう一つの)性幻想の実質をこそ自ら問うてほし
かった。(そういう意味では、このようにくさしているのか擁護しているのか分か
らない評言をだらだら並べるよりも、bk1のレビューで栗山光司さんが書いてい
るように、「不快感を抱くとしたら、内容でなく、その人の振る舞いだと思います
」と突き放してしまう方がいっそ潔かったかもしれない。)

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