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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.271 (2005/03/26)
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 □ 川田順造『聲』
 □ 田中優子『江戸の音』
 □ 田中優子『連』
 □ 田中優子『江戸はネットワーク』
 □ 網野善彦『無縁・公界・楽』
 □ 網野善彦『異形の王権』
 □ 大岡信『うたげと孤心 大和歌篇』
 □ 松岡心平編『世阿弥を語れば』
 □ 松岡心平『宴の身体』
 □ 松岡心平『中世芸能を読む』
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ここ二月ほど「読書日記」を書く時間と気持ちの余裕がまるでなく、それに本の読
み方(というか、書物に対する態度のようなもの)がこれまでとかなり変わったこ
ともあって、このMMもとどこおりがちでした。最後まで読まなくても、その本に
ついて書くことはいくらでもあるし、一度取り上げた本でも、再読するとまた何か
書きたくなる。そろそろスタイルを変えて、ブログにでも移行しようかと思い初め
ているところです。(でもまあ、300号、1000冊くらいまでは続けよう。)

──昨年の暮れ、二日にわたって神戸で開催された「場と縁の継承・再生国際会議
」(ISSN)[http://issn2004.jp/]を傍聴して、「宴」というキーワードが
浮かんだ。かつて心躍らせて読んだ川田本一冊、田中本三冊、網野本二冊、鶴見本
一冊(鶴見和子『南方熊楠・萃点の思想』)を読み返し、大岡本一冊、松岡本三冊
を読んで、感想をまとめた。以下はその抜粋。(初読の松岡本にはとても刺激を受
けた。いずれあらためて取り上げることにしよう。)──なお、この会議の成果は
7月頃昭和堂から出版される予定(私の感想文も掲載される予定)。
 

●932●川田順造『聲』(ちくま学芸文庫:1988/1998)
●933●田中優子『江戸の音』(河出書房新社:1988.3.15)
●934●田中優子『連』(河出書房新社:1991.5.28)
●935●田中優子『江戸はネットワーク』(平凡社:1993.2)
●936●網野善彦『無縁・公界・楽──日本中世の自由と平和』
                           (平凡社:1978.6.21)
●937●網野善彦『異形の王権』(平凡社ライブラリー:1993.6/1986.8)
●938●大岡信『うたげと孤心 大和歌篇』
                (岩波同時代ライブラリー:1990.8.16/1978)
●939●松岡心平編『世阿弥を語れば』(岩波書店:2003.12.5)
●940●松岡心平『宴の身体──バサラから世阿弥へ』
                     (岩波現代文庫:2004.9.16/1991)
●941●松岡心平『中世芸能を読む』(岩波セミナーブックス:2002.2.25)

 ISSNに参加して、いくつかのキーワードを拾った。
 その一つに「声の力」がある。二日目のワークショップE「語り継ぐ─県立舞子
高校生の震災体験に学ぶ」での発表を聴いていて、その言葉が浮かんだ。パンフレ
ットに掲載された作文「忘れられない思い出」に、発表者の八田原納苗さんは書い
ている。
《阪神・淡路大震災についての記憶が薄い私でも今でもよく覚えていることがある。
地震発生からどれだけ経っただろう…。当時6軒先の家に住んでいた高木のおっち
ゃんが「地震やぁ〜!!! 心配せんでええ〜っ!!!」と近所中に響く声で叫んでくれ
て、その声のおかげで自分が恐怖感から少し救われたということだ。(略)震災の
ことを専門的に学んでいる今、思う。あの時高木のおっちゃんがいなかったら私た
ち舞子台一丁目はバラバラだっただろうと。災害の専門家でも、地震研究者でも高
木のおっちゃんには勝てない。(略)私は高木のおっちゃんから学んだ一番大切な
ことを小学2年生にしてもうすでに知っていたように思う。頼れる近所のおばちゃ
んになる方法を…。》
 八田原さんはまた、被害者数や被害総額といった数字では伝えることができない
震災の記憶の大切さについて書いている。
《災害の大きさ、という輪郭だけにこだわっていては前には進めないだろう。重要
なのは、ある自然現象から人間が受けた被害を繰り返さないよう、当然残すべきで
ある教訓だ。日本において災害を無視して暮らせるところは少ない。どうしても災
害とは共存しなくてはいけない私たちに必要なのは数字ではなく、教訓というメッ
セージであると私は思う。》
 八田原さんがいう「教訓」は、災害の専門家や地震研究者、そして行政担当者が
体系だてて整理整頓した教訓のことではない。数字や活字ではけっして伝わらない
「ある自然現象から人間が受けた」生の記憶、もっと具体的にいうと、小学2年生
だった彼女に「一番大切なこと」を直に教えてくれた、高木のおっちゃんの声がも
つ「メッセージ」としての力のことだったのだと思う。
 声が伝えるのは単なる意味ではない。身体的・情動的なものと精神的・理知的な
ものとの中間から発せられる声は、何よりもまず他者からの応答を求める個人的な
呼びかけ・叫びであり、時として目に見えないものに対する祈りである。声が伝え
ようとするのは、一般的概念や法則には還元されない、いまここにある「私」のリ
アリティであり、それが絶えず発せられるのは、いかなる統計数字をもってしても
表現できない、他者や死者との親密な「人格」(ペルソナ)的な結びつきを求めて
やまないからだ。
 声は人を動かし、人と人をつなぐ。そこに新しい関係(共同性)を創り、もしく
は既存の関係を更新する。そして、それらの出来事の総体を「忘れられない思い出
」として人々の心に刻印する。声は、あたかも貨幣のように機能する。交換(コミ
ュニケーション)の媒介として、価値(共同性)の尺度もしくはその貯蔵(記憶)
の手段として、そして価値の創造へと人を動かす力をもったメッセージとして。

 ISSNは、そのような声の力が輻輳する「宴」だった。
 「最低限二人以上の心的な出合いの形式」(大岡信『うたげと孤心』)と定義さ
れる宴は、肩書きや地位といった裃を脱いだ人々が寄り合う「無縁」の共同世界で
あり、この自由な場に集う人々は「連」と呼ばれるダイナミックなコミュニケーシ
ョンのネットワークを形成する。初日のキーノートレクチャー2で、桑子敏雄さん
が提示したキーワード「出合い・寄り合い・話し合い」は、まさに宴という協働の
場の成り立ちと、空間・時間の両面にわたるその稼働原理をいいあてている。
 そこで何より大切なのは、一つの価値や意味のもとに群れるのではなく、開かれ
た世界へと自在に連なっていくこと、すなわち出合い、寄り合い、話し合うプロセ
スそのものを愉しむことである。桑子さんのレジュメを参照していいかえるならば、
社会的な立場や借り物の理屈に固執する批評・批判型の「つらい合意形成」ではな
くて、立場の呪縛から自らを解放し、自由な思考をもって問題そのものの解決へ迫
る提案型の「たのしい合意形成」へと態度を変更することだ。
 パネルディスカッション1「空間の継承と再生」では、立花が設えられた象徴的
な場の中で、桑子さんを宗匠とする連歌(花の下連歌)が営まれた。それは、弁証
法的なダイアローグを通じて言葉の概念や物事の本質を糾明していく(同一性・一
貫性の硬い殻をまとった「私」たちによる)シンポジウムとは異なる、日本流の(
多層・多様で変幻自在な「私」たちが連なっていく)宴の原形を再現しようとする
試みだった。(連衆の皆さんがそんなことを考えていたわけではないだろう。連歌
は芸能であって、理屈ではないのだから。)
 松岡心平さんによると、連歌は「言葉のまわし飲み」であり、連歌が張行される
場は「文芸における「一揆」的場」であった(『宴の身体』)。ここで「一揆」は、
武装・戦闘集団のことではない。中世的な新しい人間結合のあり方を示す本来の意
味、「人々が、一味神水という神前の儀式により一切の社会的関係(有縁)を断ち、
なんらかのシンボルのもとに平等の支配する自律的な無縁の共同体を形成すること
」をさして使われている。
 また、連歌は『新古今和歌集』で言語的実験のピークに達した和歌の「本歌取り
」から生まれた。松岡さんはそこに「役者的想像力」のはたらきを見てとる。本歌
取りを支えるのは、虚構の主体に転位し、その身になってその経験の中で歌を詠む
という役者的想像力である。この想像力による「古典変形の連続という和歌の詠作
法をより集団的に、よりダイナミックに味わえる場が連歌の場」なのであって、「
そこでの大きな位相の変化は、連歌が集団的であるということ」だ(『中世芸能を
読む』)。

 政策もまた、集団的な営みの中から生まれ、育ち、相互に連なっていく。こうし
た「政策連歌」が巻かれる場は、「官」や「学」や「民」や「産」に属するそれぞ
れの主体が「役者的想像力」のはたらきをもって互いに付けあう「自律的な無縁の
共同体」(一期一会の結縁)であるだろう。
 そこには全体を一望し、細部を制御する「中心」はない。あるのは南方熊楠が「
萃点」(萃とは集めるの意)と命名した、移動する交差点だろう。鶴見和子さんに
よると、萃点とは「真言密教曼陀羅図では大日如来にあたるところ」だという。
《さまざまな因果系列、必然と偶然の交わりが一番多く通過する地点、それが一番
黒くなる。それがまん中です。そこから調べていくと、ものごとの筋道は分かりや
すい。すべてのものはすべてのものにつながっている。》(『南方熊楠・萃点の思
想』)
 ISSNの会場には、いたるところで萃点が明滅していた。それらが、粘菌的と
でもいうべき論理(役者的想像力)にのっとって縦横無尽に移動し、躍動しながら
連なっていくとき、その道のりこそが「縁」というネットワークであり、またそこ
に出現しているのがプロセスの全体を畳み込んだ「場」であるだろう。

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