〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 ■ 不連続な読書日記                ■ No.270 (2005/03/23)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
□ 諸星大二郎自選短編集『汝、神になれ鬼になれ』
□ 諸星大二郎自選短編集『彼方より』
□ グレッグ・イーガン『祈りの海』
□ グレッグ・イーガン『しあわせの理由』
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

日々の読書日記、その1。内田樹さんの『他者と死者』を読んでラカン熱に罹り、
永井均さんの『私・今・そして神』の79頁に、ラカン的「鏡像」をめぐって新宮一
成さんが「どこかで書いておられたと思う。どこだったか忘れてしまった」と書い
てあったので、以前に読んでことのほか感銘を受けた三冊の本(私にとっての新宮
三部作『ラカンの精神分析』『無意識の組曲』『夢分析』)を再読した。

かつての興奮が蘇った。『私・今・そして神』との関係の深さに驚いた。とりわけ
『夢分析』など、ほとんど重ね合わせて読むことができる。(ウィトゲンシュタイ
ン=永井とフロイト=ラカン=新宮がカントを基軸にして拮抗している?──以下、
余談ながら、内田樹の「大人(おじさん)の思想」と永井均の「〈子ども〉の哲学
」の対比は面白い。ついでに書いておくと、中島義道の「怒れるおやじ(「イカれ
たおやじ」ではない)の思想・哲学」や大森荘蔵の「ブッ飛んだ爺(「じじい」と
読んでください)の哲学」と永井哲学(神学)との対比も面白い。)

『無意識の組曲』の副題は「精神分析的夢幻論」。ここに出てくる「夢幻」という
言葉は蠱惑的だ。松岡心平さんの『宴の身体』に、世阿弥によって亡霊供養型の能
が複式夢幻能へとしたてられるプロセスをめぐる記述があった。《そのプロセスは
今は詳述できないが、結論から言うと、世阿弥は夢の形式を導入し(例えば「通小
町」には夢の設定はなかった)、過去と現在が同一人物において交錯する、より高
度に構造化された複式夢幻能をつくり上げた。》(118頁)

その2。訳あって『私・今・そして神』を繰り返し読んでいる。しだいに永井均の
思考の息遣いというか生理のようなものに馴染んできて、これは果たして永井の思
考なのか私の思考なのか判然としない境地に入ってきた。ここで語られているのは
なにか「理論」か「思想」のように見えるかもしれないが(とくに第2章)、それ
はいわば思考の残滓、思考の死体である。そもそも言葉で書かれた段階で、思考は
死体になる。

──死体を見て生きた人間のなにがわかるか。養老孟司は言い放つ。「死体は歴然
とした身体である。」「死体から身体へ、身体から人間へ、それが私の思考の履歴
である。」(『日本人の身体観』)

おかしなもので、永井均の思考の死体に慣れるにつれて、本書と三部作をなす『マ
ンガは哲学する』『転校生とブラック・ジャック』まで見通しがよくなってきた。
『転校生』など以前読んだときにはあまり心が動かされなかった。ここに出てくる
十三人の永井(先生N=イエスとAからLまで十二人の学生=使徒)のうちどれが「
本物」の永井の「本心」を体現しているのかが分からず、それで興を殺がれていた。
今度読み直すと、このような手法でしか語れない「問題」の奥行きがあったのだと
いうことが分かってきた。(ここに出てこない学生Mもしくは先生Mは、やっぱり三
浦俊彦ではないか。出てくる必要のない先生Oは大森荘蔵ではないか。)

『マンガは哲学する』も以前はただ読み流していた。それでも十分に面白かったの
だが、再読してみてこの本を書いていたときの永井の悦び(ドライブ感)のような
もの、あるいは筆触のようなものが体感できて、もっとずっと愉しめた。

その3。私的言語とは祈りである。これは何度目かの『私・今・そして神』の通読
の途中でふと思いついたことだが、その直後に『〈子ども〉のための哲学』を眺め
ていて「哲学をすることは、ある点でやはり、祈ることに似ているだろう」(あと
がき)という言葉を再発見して興奮した。

その『〈子ども〉のための哲学』の120頁にデリダの名が出てくる。『私・今・そ
して神』の135頁と152頁と219頁にデリダの名か文章か著書名(『声と現象』)が
出てくる。そしてデリダの「〈私〉の宣言には私の死が構造的に必然的である」
(邦訳182頁)というテーゼが、「本書以前と以後では、私の哲学は大きく変わっ
た」と『マンガは哲学する』の文庫版あとがきで永井が書いていることの実質に
かかわっているのではないかと思い当たった。──で、『声と現象』を読んでい
る。ラカンとデリダ、二人のジャック。
 

●928●諸星大二郎自選短編集『汝、神になれ鬼になれ』
                    (集英社文庫:2004.11.23)
●929●諸星大二郎自選短編集『彼方より』(集英社文庫:2004.11.23)

 『マンガは哲学する』を読むと無性にマンガが読みたくなる。前回(4年前)は、
星野之宣の『ブルー・ワールド』と藤子・F・不二雄の短編集と坂口尚の『VER
SION』(『功殻機動隊』をとりあげた節で言及されている:73頁)を読んだ。

 諸星大二郎でほんとうに好きな作品、と永井均があとがきに書いている『夢の木
の下で』も読みたかったが、近くの書店に見当たらなかった。「私が個人的に最も
愛する漫画家」(95頁)という佐々木淳子の作品も、マンガという表現形式の特徴
(「絵はいわば神の視点から世界の客観的な事実を描き、文はその中のひとりの人
物の視点から内面的な真実を描きだす」(56頁))を生かして「小説などではけっ
して表現できない世界を見事に描きだしているという点で、芸術表現という点から
見ても画期的な傑作とみなされるべきもの」(57頁)と絶賛する萩尾望都の『半神
』も見つけられなかった。

 ──新宮一成さんは『夢分析』で「ある種のマンガには、通常の成人が表現でき
ないような太古の感覚の残滓が描き出されることがある」(7頁)と書いている(
その例としてあげられたのが森下裕美の『少年アシベ』)。諸星大二郎の短編には
まぎれもなく「太古の感覚の残滓」が色濃く漂っていた。

●930●グレッグ・イーガン『祈りの海』
            (山岸真編・訳,ハヤカワ文庫:2000.12.31)
●931●グレッグ・イーガン『しあわせの理由』
           (山岸真編訳,ハヤカワ文庫SF:2003.7.31)

 『しあわせの理由』の解説で坂村健が「イーガンの小説をあえてラベル付けする
ならば「Science Fiction:科学小説」ならぬ「Philosophy Fiction:哲学小
説」だろうか。いわば「イーガン哲学」とでもいうようなものがあり、それがすべ
ての作品のベースにある。逆に言えば、まず哲学があって、それを小説の形で書い
たのがイーガンの作品ではないか」と書いている。

 「マンガ」ならぬSF「という形でしか表現できない哲学的問題」(『マンガは
哲学する』4頁)があるかどうかが問題で、まず哲学があるのならそれを小説の形
で書く必要などない。憎まれ口をきく前に、イーガンの作品にSFという形でしか
表現できない哲学的問題があるかどうかを探索してみることだ。

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 ■ メールマガジン「不連続な読書日記」/不定期刊
 ■ 発 行 者:中原紀生〔norio-n@sanynet.ne.jp〕
 ■ 配信先の変更、配信の中止/バックナンバー
       : http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html
 ■ 関連HP: http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
 ■ このメールマガジンは、インターネットの本屋さん『まぐまぐ』 を利用し
  て発行しています。http://www.mag2.com/ (マガジンID: 0000046266)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓