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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.268 (2005/01/28)
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 □ 漆原友紀『蟲師』
 □ 丸谷才一『輝く日の宮』
 □ マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』
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●923●漆原友紀『蟲師』1〜5(講談社:2000.11.22〜2004.10.22)

 年末から年始にかけてひたすら読み続けた。各巻に5編ずつ収められた計25の
短編に夢中になって読み耽った。気に入った作品は何度も読みかえした。繰り返し
見ていたはずなのにすっかり忘れてしまい、忘れていたことさえとうに忘れていた
夢の体感が蘇ったかのような懐かしさ。時代設定について、第1巻のあとがきに「
鎖国し続けている日本」とか「江戸と明治の間にもうひと時代ある感じ」というイ
メージだろうかと書かれている。この作品がもたらした懐かしい体感は「世界と直
接結びついたままの幼児」とか「子どもと大人の間にもうひとつの生がある感じ」
と形容できるだろうか。

 「蟲」あるいは「みどりもの」。生命の原生体[そのもの]に近いもの達。「お
よそ遠しと されしもの 下等で奇怪 見慣れた動植物とは まるで違うと おぼ
しきモノ達 それら異形の一群を ヒトは古くから 畏れを含み いつしか 総じ
て「蟲」と呼んだ」。──ここに南方熊楠が「原形体」と呼んだ、流動体としての
粘菌のイメージを重ねることはたやすい。なぜ粘菌などに興味をもったのかと尋ね
られた熊楠は、動物状の流動体(活物)と茸状の固形物(死物)との間で変身を繰
り返す粘菌の生態が「輪廻」そのものを現しているからだと答えた。これは白洲正
子の文章で知ったことだが、この文章(「粘菌について」)を収めた書物のタイト
ルが『両性具有の美』。まさしく「蟲」とは、老若男女、貴賤生死の中間、境界上
にあるものなのである。あるいはそれらをつなぐコミュニケーションの媒介。

 松岡正剛氏は「蠱術と姫君」(『分母の消息(三)──景色と景気』所収)で、「
古代においては、「ここ」と「むこう」の景色をつなげるにあたっては、ひょっと
したら鳥や虫たちによるコミュニケーション・ルートを活用する方法があったよう
におもえてきた」(38頁)と書いている。そして「蠱」をあやつる者について次の
ように書いている。《きっと昆虫の行動や変態、あるいは猛毒や啓蟄に異常な関心
をもった者がいて、かれらが虫にまつわる神異の力に気がついたのが蠱道蠱術の最
初であったろう。ファーブル先生くらいなら、古代中国にはいくらでも出現できた
はずである。それがいわゆる「虫遣い」と呼ばれた者だった。あるいは道士や方士
などのタオイストが蠱をつかっていたとおもわれるのだが、はっきりしたことはわ
からない。》(44-45頁)

 『蟲師』はこうした生死、雌雄分岐以前の生命の根源的な記憶と彼此両界にわた
るコミュニケーション・ルートにアクセスしつつ、あまつさえエンターテインメン
トしての結構を備えた稀にみる傑作。この作品を「解読」するうえで、新宮一成氏
の『夢分析』はとても参考になる。(解毒、いや解読しようなどとは思わず、ただ
蟲の毒にあてられ、味わい尽くせばいいのに。)

 新宮氏はそこで、「虫にたかられる」類型夢をめぐって次のように書いている。
幼児は「人間はどこから来るのか、どのようにして作るのか」という問いに自ら体
験的に答えようとする。

《パストゥール以前に生命の「自然発生説」があったように、子どもはここで、人
間の自然発生説を組み立ててみるだろう。何らかの物質の配合によって、生命は発
生する。この自然発生説がとくに虫の発生を基本にして論じられたことからも、幼
児による人間の自然発生説は、培地に微生物が湧くように、母の体から虫が湧き、
母の体が虫に覆われるという感覚と結びつくことが推察される。そして母にそれが
起こったように、自分にもそれが起こらないことがあろうか。/成人の「虫にたか
られる夢」が妊娠の観念に対応しているというはっきりした事実は、このように幼
児のたてた生命起源理論を我々が記憶のどこかに保存していることから来ているの
である。》(62-63頁)

 新宮氏によると、妊娠が「虫にたかられる」ことで表現されるとすれば、それに
引き続く分娩・出産を表わす類型夢は「水に入る、もしくは水から出る」夢である
(71頁)。そして「フロイトが述べたように、幼年期に形成された、人生の重要な
部分──性、生、死──についての一つの古語、それが類型夢である」(87頁)。

 これは余談だが、村上春樹の「かえるくん、東京を救う」(『神の子どもたちは
みな踊る』)で、「かえるくん」の身体にできた瘤がはじけた後の穴からうじゃう
じゃと這い出てきた「様々な種類の暗黒の虫」たちのことを思い出した。

●924●丸谷才一『輝く日の宮』(講談社:2003.6.10)

 一年半遅れで読んだ。このタイム・ラグがちょうど頃合いの熟成期間となった。
熟したのはもちろんこの作品に対する読み手(私)の思いの方なのだが、作品その
ものも一晩寝かした饂飩かなにかのように微妙だがくっきりとした旨味を醸しだし
ていた。読み始めたらやめられない。どうしてこれほど面白いのかよくわからない。
ヒロインの日本文学研究者・杉安佐子や安佐子がつきあっている長良豊(水のアク
ア社長)のキャラクターが魅力的だからか。作者がしかける文学談義の数々(御霊
信仰とかアジール論とか泉鏡花などをめぐる)や仮説の数々(「芭蕉はなぜ東北へ
行ったのか」とか「春水=秋声的時間」論とか『源氏物語』の「輝く日の宮」の帖
はなぜ散逸したのかとか)が鮮やかだからか。はたまた逆さまの枠入り形式のよう
に冒頭末尾に添えられた作中作や変幻自在の文体の見本帳のような趣向ゆえか。も
ちろん小説の愉しみはその小説を読む時間のうちにしかない(保坂和志)のだから、
読み終え閉じた書物を前に後知恵めいた思考をしぼって何かでてくるはずはない。
ただこの作品の醍醐味がその文章の「割れ方」にあっただろうとはおぼろげに気づ
いている。それはまさに藝と呼ぶしかない。

(表現が「割れる」とは内田樹さんの言葉。『死と身体』の一○九頁に出てくる例
でいうと、一流のピアニストが指一本でポンと弾く音と素人が同じように弾く音で
は「音の厚み」が違う。プロのピアニストはキーに触れてからキーが止まるまでの
指の動きをたとえば一○に割ってその一つひとつの動作単位に緩急濃淡をつけるこ
とができる。「ぼくたちが人の身体表現を見て、『厚みがある、深みがある、美的
な感動を受ける』というときには、たいていはその動きの『割れ方』が緻密だから
なのです」。丸谷才一のプロの業が紡ぎ出す文章は内田がいう意味で割れている。)

●925●L・ザッヘル=マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』
               (種村季弘訳,河出文庫:2004.6.20[新装版])

 セヴェリーン宅を訪問する前、本書の語り手が大理石の肉体を大きな毛皮のなか
にくるんだヴィーナスの夢を見る。そのとき語り手が手にしていた読みかけの本は
ヘーゲルだった。ジル・ドゥルーズは『マゾッホとサド』に「弁証法的精神がマゾ
ッホの言動の活力になっている」と書いている。「だが、わけても重要なのはプラ
トンである。サドにスピノザ思想が、推論的理性があるとするなら、マゾッホには
プラトン主義が、弁証法的想像力があるのだ」(蓮實重彦訳,31頁)。また「冒頭
の夢の出発点となっているのは、ヘーゲルもさることながら、バッハオーフェンを
読んだことのうちにあるのではないか」(67頁)とも。──そうした哲学的意匠と
は一切かかわりもなく、何十年ぶりかに読んだ本書には陶然とさせられた。

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