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■ 不連続な読書日記 ■ No.267 (2005/01/23)
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□ 永井均『私・今・そして神』
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えよう」とか「生きる態度を改めよう」と思い立ってあれこれ算段したあげく、い
つのまにか、挫折というのもはばかられるほどにひっそりと、そうした心構えを雲
散霧消させてきたことはある。今回のはそうした大げさなものではない。たかだか本の読み方、書物にのぞむ態度をめぐるものでしかないし、それも知らぬ
うちにそうなっていたというだけのことだ。具体的には、永井均さんの『私・今・
そして神』と内田樹さんの『他者と死者』を読んでいて、そのどちらもとても面白
く刺激的で、ほとんど夢中になって読み耽ったものの、どういうわけかその面白さ
が心に染み入ってこなくなったのである。だから、読み終えてはまた最初から読み直し、それでも納得がいかなくて(ちょう
ど、おいしい料理を食べて栄養がからだの隅々にまで行きわたっていくのは実感で
きるものの、おいしい料理を食べることの醍醐味、旨味がこころのなかに染み入っ
てこない、そんな感じ)、だからこれまでのようにその書物をめぐる感想、抜き書
き、寸評などを気楽に書いておくことができなくなった。『書物の未来へ』で第3回毎日書評賞を受賞した富山太佳夫さんが、インタビュー
で「自分にとって書評とは」と問われ、こう答えている。「読書の一部ですね。一
番楽しいのは本を読むこと自体ですが、その喜びを引きずっていては、次の本を読
めません。だから書評を書くことで、自分なりにその本にけりをつけるんです。大
好きですね。本当は毎日書きたいんですよ」。私がここで書いているのは、書評めいてはいるけれど書評ではない。少なくとも、
書評を意識して書いている文章ばかりではない。でも、「書評を書くことで、自分
なりにその本にけりをつける」という富山さんの言葉は、私がこれまで読書日記を
書いてきた理由とぴったり重なりあうもののように思った。たくさんの本をできるだけ速く読む。その理由は、読書の最高の喜びである再読、
三読本をみつけるためだ。そのためにこそ、いい本を読んだ喜びを引きずることな
く、次の本を読むために、自分なりにその本にけりをつける。でも、そういうこと
を繰り返しているうち、いい本を読む喜びそのものをじっくりと時間をかけて享受
することを忘れてしまったように思う。そして、本を読むことのもうひとつの最高
の喜び、本を読んで自分の頭で考えることをないがしろにしてきたように思う。最高の喜びが二つもあるのはおかしいけれど、面白い本にめぐりあった時、その喜
びをじっくりと噛みしめ反芻することは、実は自分の頭で何かを考えていることと
同じなのだと思う。再読、三読の喜びとは、かつてと同じ感動を繰り返すことにあ
るのではなくて、自分の中で知らぬ間に継続していた「問題」を思い出すことにあ
る。そして、同じ「問題」を一から考え直すことにある。人は「さあ、今から考えよう」と意識して考えることはほとんどできない。考えよ
うと思って考えるのではなくて、いつの間にか考えている。考えていることは常に
後からふりかえって分かる。私はそう思う。
●922●永井均『私・今・そして神──開闢の哲学』(講談社現代新書:2004.10.20)
この本の論述の趣向、というか概念の道具立てはとても分かりやすい。それは(
意図されたものかどうかは別として)形式美にかなっている。まず、本書は初心者
向けの第1章と玄人筋を想定した第3章、それらにはさまれて中心をなす第2章の
三つの章からなる。そして、そのそれぞれの章うちに相互に関連する三組みの道具
立てが設えられている。第1章に出てくるそれは「神の三つの位階」である。土木工事(世界の物的創造
)や福祉事業(心の慰め)を行う低次の神(49頁)。世界に人間には識別できない
が理解はできる変化(ロボットに心を与えるなど)を与える高階の神(49頁)。世
界のうちに〈私〉や〈今〉や実在の過去を着脱する能力をもったより高階の神、す
なわち開闢の神(66頁)。第2章には、神の位階に対応するかたちで三つの原理が出てくる。弱いライプニ
ッツ原理とカント原理と強いライプニッツ原理(=デカルト原理)。(それらは『
転校生とブラック・ジャック』(98頁)に出てくる三つの原理、すなわち人格同一
性の原理、統覚原理、独在性原理に対応している。)ここでライプニッツ原理とは「何が起ころうとそれが起こるのは現実世界だ」と
いう原理であり、カント原理とは「起こることの内容的なつながりによって何が現
実であるかが決まる」というもの(105頁)。そして弱いライプニッツ原理は、カ
ント原理の内部でカント的に可能なものの中からの選択(そのうち一つの現実化)
としてはたらくもので、強いライプニッツ原理は、カント的な可能性の空間をはじ
めてつくりだすものをいう(126-127頁)。最後に、第3章に出てくる私的言語の三段階。それが神の三つの位階や私と今と
現実に関する三つの原理に対応しているだろうことは見やすい。でも、ここではそ
のことには触れない。というか、対応関係が私にはまだよく見えていない。永井氏がこれらの道具立てを駆使して取り組んでいるのは、「独在性の〈私〉」
(現に今在る端的な〈私〉)をめぐるメタフィジックスそのものではない(それも
あることはある)。自己利益の主体(人)である『私』をめぐる倫理学でも、生物
(ヒト)としての“私”をめぐる人間学でもない。私たちの世界の共同プレーヤーたる「単独性の《私》」(概念的に把握された〈
私〉)をめぐる論理学──「独在性の〈私〉」の語り方、そしてその語りのなかに
見え隠れする「独在性の〈他者〉」とでも呼ぶべき存在者の語り方の問題。もしく
は「開闢の〈私〉」と開闢された世界のうちに持続的に位置づけられる「かけがえ
のない《私》」との関係をめぐる「神学」の問題──である。そういうことだったらよく分かる。でもそれが分かったからといって何がわかっ
たことになるのかが分からない。あるいは『私・今・そして神』は、「存在」(現実存在=実存)と「概念」(本
質)との断絶をめぐって、そしてそこに言語がどう関与するかをめぐって、言語に
よってなされた思考の記録である。たとえばそんなふうに要約してもいい。でもそれだとちっとも面白くないし、そんなことを「お勉強」するためだったら
永井均の著書を読む意味がない。(木田元氏のハイデガー本、最近のものだと『ハ
イデガー拾い読み』などを読む方がもっとずっと面白い。)で、いま『私・今・そして神』の三度目の通読に入っている。それは、本書と三
部作をなす『マンガは哲学する』や『転校生とブラック・ジャック』までひっぱり
だしての大がかりな(?)作業になりかけているのだが、その顛末はここでは触れ
ない。というか、私にはいまだにこの書で永井氏が何を議論しているのか言葉にで
きない。何度読んでも十分に読み込んだ気がしない。本書の平易で丁寧で率直な語り口は、
これで分からなければそもそも「分かる」とはどういうことかと問いたださなけれ
ばならないほどに分かりやすい。それなのに、肝心なところでいまひとつ分かった
気がしない。分かったと思ったとたん、何が分かったのだったかが分からなくなる。それが、そういう経験を「思い出す」ことが、永井均の本を読むということの意
味だと思う。〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
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