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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.265 (2004/12/12)
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 □ 八木雄二『「ただ一人」生きる思想』
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同時進行的に読み進めてきた本が、あるとき突然一つに結びつく。これほど興奮さ
せられることはない。それは再読、三読の愉悦とともに、読書がもたらしてくれる
醍醐味の一つである。

たとえば、今回とりあげた『「ただ一人」生きる思想』は、永井均が『私・今・そ
して神──開闢の哲学』で展開した「神の位階」の議論と、さらに内田樹の『他者
と死者──ラカンによるレヴィナス』を経てラカンの想像界・象徴界・現実界に、
そして『パースの生涯』を通してパースの三つ組みのカテゴリー論へと結びついて
いった。

このあたりのことは、いずれじっくりと腰をすえて書いておきたいと思っている。
以上、個人的な覚書として。
 

●920●八木雄二『「ただ一人」生きる思想──ヨーロッパ思想の源流から』
                        (ちくま書房:2004.11.10)

 事実として「ただ一人」生きることなど世にありふれている。独身者、独学者、
独吟者、単独旅行者は言うに及ばず、孤高の人、孤立者、敗者、被差別者、疎外さ
れ追放された人など枚挙にいとまがない。しかし「ただ一人」生きることを支える
思想となると話の次元が違ってくる。明治以後の日本のような集団的統制のきつい
社会で孤立を恐れずに生きるためには「その孤立の意義を基礎付けてくれる思想、
つまり個人主義が必要になる」(27頁)からだ。

 個人主義も多様である。十九世紀に論じられたそれは「社会のために個人がある
のではなく、むしろ個人のために社会がある」(82頁)という観念に代表されるも
のだが、しかし現実の社会で自己実現できる個人、社会に対して希望をもって進ん
でいくことのできる個人はかぎられている。社会の仕組みにむりやり自分を合わせ
てようやく生きている人間にとって個人主義は「他人がもつ思想」(84頁)でしか
ない。

 著者が本書で論じる「社会から離脱できる個の思想」(113頁)とは「社会に適
合した者の思想」(84頁)のことではない。「個の思想」すなわち「社会との不適
合を前提として、それでも自己個人に生きる価値を見いだす思想」(89頁)。著者
によるとこのような意味での個人主義はキリスト教の伝統に由来する。中世スコラ
哲学こそがその思想的源流である。

 キリスト教はある一つの事実がもたらしたメッセージ(福音)と二つの背理をめ
ぐる弁明(神学)をもって成立する。一つの事実とはイエス・キリストという一個
の人間の出現とその死である。この事実が告げるメッセージは「個人は集団に埋没
してしまう取るに足りないものではなく、神に通じる入り口であり、世界を超える
意味をもつ」(48頁)というものであった。

 二つの背理とはイエス・キリストが人間であると同時に神であること、そして一
つの神が三つのペルソナ(顔)をもつことである(二つの背理に対する独自の解釈、
すなわちキリスト論と三位一体論の確立が同じ聖書にもとづくイスラム教とキリス
ト教とを分かつ)。この第二のアポリアをめぐって、とりわけペルソナという語を
めぐる神学的議論を通して、人間イエスが教え聖フランシスコが実践した隣人愛(
顔が見えるものへの愛)の思想に発する「個の思想」が考察されたのである。

 哲学は普遍的なものを追求する。科学は種を普遍的に説明する。いずれも質料形
相論という普遍的原理による説明でしかない。これに対して神学は個や個物を対象
とする。「なぜなら、個々のものは…神が創造する対象だからである」(141頁)。
ドゥンス・スコトゥスが導入した「個別化原理」こそ霊魂の個人性を含めた「かけ
がえのない個」を説明する神学の原理であった。しかしこの原理をもってしても人
間がもつ「ペルソナ性」(精神的個の自律性)を説明することはできない。

 スコトゥスによれば、神の本性をもつ子のペルソナ(キリスト)の十字架上の死
にならい、孤絶(ぎりぎりのところまで一人であること)のうちに思惟の自由を貫
徹することを通して人間の個はペルソナとなる。この「自律する能力をもつ個人の
精神性」(175頁)にとって、己を律する規準は自己の思惟にしかない。信仰の否
定によるペルソナでさえそこでは許容されるのである。「それゆえ、スコトゥスの
ペルソナ論は、神なしの自律という、近代個人主義の根拠ともなった」(166頁)。

 質料と形相、個別化原理、そしてペルソナ。この第四のものに根ざしたスコトゥ
スの思想──「信仰を持とうと持つまいと、世界や社会に相対してぎりぎりのとこ
ろで一人で居ることは、知性をもった人間が引き受けなければならない真実だ、と
いう思想」(179-180頁)──は「異様」(86頁)かつ「特殊」(129頁)なもので
ある。日本にはこのような「個の思想」はない。

《かつてラオスの人たちを見たフランス人は、かれらを「稲が育つ音を聴く人々」
と呼んだという。日本人も、かつては稲穂をゆらす風に神の足音を聞いていた。だ
からこそ日本人にとって、沈黙のなかでの「思いやり」は捨てるに捨てきれない基
本道徳なのである。
 ところが、論争を通して思想的実力を養ってきたヨーロッパ文明が世界を席巻し
ている。もはや沈黙で済ますことはできない。今や、言葉が必要である。しかもス
ローガンではなく、個の思想を精神のなかに彫塑できる思想が必要になっている。
》(181-182頁)

 著者は冒頭で「すっかり信仰のにおいまで払拭された現代哲学も、キリスト教信
仰を払拭しようとする近代意識に反発するかたちで、じつはスコラ哲学の復権を企
てている。実存主義も現象学もその一つである」(11頁)と書いている。これは現
代における神学的思考の重要性を指摘する言葉であると同時に、その専門家が世界
でも数えるほどしかいないスコトゥスの煩瑣で精妙な論述のうちに隠された「危険
思想」(176頁)をとりあげた本書への、そして西洋とは精神史をまったく異にす
る日本において中世スコラ哲学(西洋の基礎哲学)を学び研究することへの弁明の
辞である。

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