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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.263 (2004/11/21)
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 □ W.ジェイムズ『プラグマティズム』
 □ W.ジェイムズ『純粋経験の哲学』
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●916●W.ジェイムズ『プラグマティズム』(桝田啓三郎訳,岩波文庫)
●917●W.ジェイムズ『純粋経験の哲学』(伊藤邦武編訳,岩波文庫:2004.7.16)

 プラグマティズムの眼目は「行為」にある。ジェイムズは本書で、チャールズ・
サンダース・パースの原理──「およそ一つの思想の意義を明らかにするには、そ
の思想がいかなる行為を生み出すに適しているかを決定しさえすればよい。その行
為こそわれわれにとってはその思想の唯一の意義である」(39頁)──を紹介し、
プラグマティックな方法について、「最初のもの、原理、「範疇」、仮想的必然性
から顔をそむけて、最後のもの、結実、帰結、事実に向おうとする態度なのである
」(46頁)と規定している。

《プラグマティズムはまったく親切である。それはどんな仮説でも受け入れ、どん
なわかりきったことでも考慮に入れるだろう。それだからプラグマティズムは宗教
の領域においては、反神学的な偏執を有する実証主義的経験論と、幽遠なもの、高
貴なもの、単純なもの、抽象的な概念にもっぱら興味をよせる宗教的合理論とのど
ちらよりもはるかに有利な地歩をしめることになる。(略)プラグマティズムが真
理の公算を定める唯一の根拠は、われわれを導く上に最もよく働くもの、生活のど
の部分にも一番よく適合して、経験の諸要素をどれ一つ残さずにその全体と結びつ
くものということである。もし神学上の諸観念がこれを果たすとすれば、もしとく
に神の観念がそれを果たすことが事実として証明されるとすれば、どうしてプラグ
マティズムは神の存在を否定しえよう。》(65頁)

 その仮説から将来の経験や行為が導き出せないとすれば、もしくは過去回顧的な
見地からは、唯物論も有神論も、つまり物質(盲目的なアトムの目的なき結び合わ
せ)も神(摂理)も同一物である。絶対者、神、自由意志、設計といった神学上の
諸概念は、主知主義的には暗闇である。

 ただ未来展望的な見地、プラグマティズムの見地からのみ、それらは「救済の説
」としての意義をもつ。たとえば自由意志。それは「この世界に新しいものが出現
するということ、すなわち、世界のもっとも深い諸要素においても、また表面にあ
らわれる現象においても、未来は過去と同一的に繰りかえすものでも模倣するもの
でもないことを期待する権利」(91頁)という意義をもつ。──ジェイムズは本書
の最終講で、われわれの行為こそが世界の救済を創造するのではないかと問いかけ
ている。

《私はあえてたずねる、なぜそうではないのか? われわれの行為、われわれの転
換の場、そこでわれわれはみずからわれわれ自身を作りそして生長して行くのであ
るから、それはわれわれにもっとも近い世界の部分なのである。この部分について
こそわれわれの知識はもっともよく通じており完全なのである。なぜわれわれはそ
れを額面どおりに受け取ってはならないのか? なぜそれがそう見えるとおりに世
界の現実的な転換の場、生長の場でありえないのか──なぜ存在の工場であること
ができないのか。この工場においてこそ、われわれは事実をその生成過程において
捉えるのであり、したがって、世界はそれ以外の仕方では、どこにも生長しえない
のではいか。》(211頁)

 しかし、それは非合理ではないか。新しい存在が局所的に現われてくるはずがな
い。事物の存在理由は全自然界の物質的圧力ないしはその論理的強制のほかはない。
だとすれば世界は万遍なく生長すべきであって、単なる部分がそれだけで生長する
などは非合理である。このありうべき非難に対してジェイムズは答える。

《論理、必然性、範疇、絶対者、そのほか哲学工場全部の製造品をお気に召すまま
に持ち出されて結構であるが、およそ何ものかが存在しなければならぬという現実
的な理由としては、誰かがそれのここにあることを欲するというただ一つの理由し
か私には考えられないのである。それは要求されてあるのである。──どれほど小
さい世界の部分であろうとそれをいわば救助するために要求されてあるのである。
これが生きた理由なのであって、この理由にくらべると、物質的原因とか論理的必
然性とかは幽霊みたいなものである。》(211-212頁)

 ──プラグマティズムは「神学」の異称である。私はおぼろげにそう考えている。

 それは、たとえばパースの「プラグマティシズム」とジェイムズの「プラグマテ
ィズム」のうちにスコラ的実在論と唯名論を重ね合わせてみるといったよくある比
較論にはじまって、パース(伊藤邦武編訳『連続性の哲学』,岩波文庫)のいう「
仮説についての科学」(71頁)としての純粋数学もしくは「数学的形而上学」(27
5頁)、前田英樹氏がいう──形而上学の体系的思考(「からごころ」)を批判す
る共通の立脚点としての、あるいは「今、ここにしかじかの身体を持つ」というと
ころから世界を捉える(身ひとつで「学問の実義」を生きる)こととしての──「
深い意味でのプラグマティズム」(インタビュー「『感想』とは何か」,文藝別冊
『小林秀雄』74-75頁)、そしてジル・ドゥルーズの「生命論」などをブレンドし
た新しい神学のことである。

 ジェイムズは、本書に収められた「変化しつつある実在という考えについて」の
なかで次のように書き、「ベルクソンの研究者たちがパース氏の思想をベルクソン
の思想と比較してみるよう、心から勧める」と結んでいる。新しい神学をめぐる(
私の)作業はこの比較論から始まるだろう。

《パース氏の思想はベルクソンとはまったく別の仕方で形成されたのであるが、ふ
たりの思想は完全に重なり合うものである。どちらの哲学者も、事物における新し
さの出現は純然たる本物の出来事であると信じている。新しさは、それを生じさせ
る原因の外に立って観察する者にとっては、多大な「偶然」の関与ということでし
かありえないが、その内部に立つ者にとっては、それは「自由な創造的活動性」で
ある。》(165-166頁)

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