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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.260 (2004/10/17)
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 □ 高安秀樹『経済物理学の発見』
 □ 斎藤槙『社会起業家』
 □ 三浦展『「家族」と「幸福」の戦後史』
 □ 三浦展『ファスト風土化する日本』
 □ 森嶋通夫『なぜ日本は行き詰ったか』
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大澤真幸さんが「家族の排除──若者犯罪の背景」(『ESP』9月号)で、昨年、
大阪河内長野市で起きた男子大学生による家族殺傷事件をめぐって次のように書い
ています。『「家族」と「幸福」の戦後史』や『ファスト風土化する日本』の議論
との関係で興味深いと思うので、引用しておきます。

《現在、若者たちの間で人気の、恋愛物のアニメやゲームは、物語的な展開の豊か
さを徐々に削ぎ落としつつ、きわめて高い確率で、一つの設定を共有している。恋
愛する若い男女は、しばしば幼馴染みなのである。現実に、幼馴染みの恋愛や結婚
が増えているとは思えない。たとえば、地縁的な共同体の中に深く組み込まれてい
た「家」があった時代の方が、幼馴染みは結びつくことは多かっただろう。なぜ、
今、幼馴染みなのか? そこに投影されているのは、親子の関係よりも原初的で直
接的だと感受されるような関係だからではないだろうか。無論、現実の幼馴染みの
関係は、親子関係よりも後に成立する。だが、なぜか理由もわからず、生まれたと
きから近くに住み、仲良くしているという設定は、家族の関係にさらに先立って作
用している、不可避の宿命の作用を、人に感じさせるものがないだろうか。

 こうして、われわれは、冒頭に掲げた、河内長野市の事件の謎に迫っていくこと
ができる。彼ら、恋する「幼馴染み」が、「心中」するにあたって家族をまずは殺
害しておかなくてはならないと考えたのは、彼ら同士の関係の上に投影されている
極限の直接性に到達するためには、どうしても、家族の関係が排除され、無化され
なくてはならなかったからではないだろうか。彼らの関係の上に、あらゆる経験的
な関係を越えた原初的な直接性を感受するためには、彼らを生まれたときから捕縛
している家族の関係を、偶有的でどうでもよいものとして捉えなおし、実際に排除
してみる必要があったのであろう。》
 

●908●高安秀樹『経済物理学[エコノフィジックス]の発見』
                         (光文社新書:2004.9.20)

 著者の本は、以前『経済・情報・生命の臨界ゆらぎ』を読んだことがある。西暦
2000年に出た本で、それから4年。この間、エコノフィジックスはそうとう進化を
遂げ、ずいぶんたくさんの成果をもたらしてきたようだ。本書には、為替市場のメ
カニズムや所得変動の分析を通して発見されたいくつかの法則、金融ネットワーク
の構造をめぐる現在進行中の研究といった話題がいくつか紹介されている。また、
そうした研究成果をもとにした若干の経済予測(シニア世代が蓄えた1千兆円の金
融資産が起爆剤となるインフレと円暴落)や政策提言(金融資産の相続への課税強
化、複合電子通貨システムの企業やアジア債権市場への、あるいは地域通貨として
の導入)にも触れられている。

 物理学の理論や手法(たとえば、ミクロな事象のマクロなスケールへのくりこみ
変換)を取り入れた経済学ではなくて、何かをするためにエネルギーと時間を要し
エントロピーも増大する「物理的な実体のあるもの」(271頁)を対象とする経済
物理学。対象が先で学問が後なのではなく、学問の進化によってはじめて事後的に
発見されるのが対象であるとすれば、エコノフィジックスがほんとうに発見するだ
ろう「実体」とは何か。

●909●斎藤槙『社会起業家──社会責任ビジネスの新しい潮流』
                          (岩波新書:2004.7.21)

 NPOのような企業(ビジネスの社会化)、企業のようなNPO(NPOのビジ
ネス化)。営利(経済的価値・市場原理)でも非営利(社会的価値・使命感)でも
ない問題解決型の社会事業。企業(純粋な商業主義)とNPO(純粋な社会貢献)
の中間に位置するもの。社会を変えるための道具として会社を使うこと。所属組織
に対する忠誠心ではなく、目的達成に対する忠誠心。ビジネスマンや事業家である
前に市民であること。働き方と生き方とが同じ。好きなこと、楽しいことと仕事と
の一致。サラリーマンと社会起業家の二足のわらじ。

 思いつくままキーワードをいくつか並べてみた。十年前なら世迷い事だったろう。
日米の社会起業家の軌跡と志、彼/彼女らの活動を生み出した潮流とその帰趨、そ
して自らの体験を通じた理論化の試みがコンパクトに凝縮された本書を読むと、な
にかしら未知の時代への変革の扉がしっかりと開かれているように思えてくる。(
生きる歓びそのものとしての社会起業。中世的とでも仮に名づけられる宗教経済の
ネットワークを立ち上げること。あるいは「日本的経営」なるものが流産させてし
まったもの。)

●910●三浦展『「家族」と「幸福」の戦後史──郊外の夢と現実』
                      (講談社現代新書:1999.12.20)
●911●三浦展『ファスト風土化する日本──郊外化とその病理』
                        (洋泉社新書y:2004.9.20)

 郊外は「家族」という名の均質な製品を再生産しつづける工場なのである。著者
はかつて『「家族」と「幸福」の戦後史』(186頁)でそう書いた。郊外と核家族。
このかつてのアメリカン・ドリームの理想が崩れはじめた1960年代、日本ではほぼ
30年遅れで大衆消費と男女の役割分担(男は都心の会社で仕事、女は郊外の団地
で家事・育児・消費)が結びつきながら本格的な「郊外化」が始まった(日本住宅
公団が設立されたのが1955年)。──『ファスト風土化する日本』に描かれるのは
その顛末である。著者は郊外で多発する少年犯罪の現場を訪ね、総郊外化・ファス
ト風土化をもたらした政策の源流を遡り、消費天国と化した地方都市の「記憶喪失
の風土」がもたらす退廃とフェイク(虚構)化を衝く。

《だが、そこには大切なものが欠けていた。ロードサイドの商業施設には物はある
が、生活がなかった。中心市街地はシャッター通りになってしまった。古い建物や
街路が整備されて、かえって味気ないものになり、かつての都市の記憶が消えた。
都市の記憶が消えるということは、建築が消えるということだけではない。衣食住
から子育てまであらゆる生活の仕方や生活の知恵が消失するということである。/
本来、日本には小さいながらも、それなりの個性を持った多くの都市や農村が各地
方にあった。それらの都市や農村には何百年という伝統があり、そこに商人がいて、
職人がいて、農民がいて、リアルな生活があった。/しかし、いまの地方には、郊
外はあるが都市も農村も消えた。たしかに物は入ってきた。しかし、生活が消えた
のだ。》(205頁)

 しかし、ここにあるのは単なる嘆き節でも独りよがりな慷慨でもない。著者の筆
は静かな怒りとまだ残る希望への強い意志を潜めている。最終章「社会をデザイン
する地域」で示される「社会問題解決団地」(郊外の住宅地に「働く」要素を再び
持ち込むため、定年退職者によるコミュニティ・ビジネスのための会社やNPOの
立ち上げを支援するシステム)の提案は感動的ですらある。

●912●森嶋通夫『なぜ日本は行き詰ったか』
               (村田安雄・森嶋瑤子訳,岩波書店:2004.3.19)

 一冊の書物としては欠陥が眼につく。まず訳文がこなれていない。議論の理路に
ブレはないが、直訳調の文章ゆえ著者の思考の熱気と生の息遣いがダイレクトに響
かない。構成にも重複の難がある。視点・立論・方法を異にする独立した八つの論
考が相互のつなぎを欠いたまま並列され、鳥瞰と虫瞰、理論と実証の細部における
緊張と鋭い分析が全体として有機的に噛み合わない。著者は諸ディシプリンの綜合
による「交響楽的作品」を自称するが、それはついに未完成に終わっている。

 にもかかわらず本書(とりわけ第8章「21世紀の日本の前途」)は繰り返し読み
継がれるべき確かな実質と類稀なリアリティをもっている。そこに綴られた「私の
没落論」は日本の経済と政治、社会と文化の現状に対する容赦ない認識に根ざして
いる。かつて坂口安吾は「堕落論」の末尾に「堕ちる道を堕ちきることによって、
自分自身を発見し、救わなければならない」と書いた。発見すべき自分自身を失っ
た者に救いはない。そこにあるのは絶望だけだろう。本書にもし希望を見いだす者
があるとしても、それは私たちではない。

《彼らは勇気に欠け、縁故贔屓を受け入れ、相手方のおどしに容易に屈服する。彼
らは競争の結果を受け入れるのに、勇敢でもなく冷静でもない。戦後の新世代のこ
のような特性は、国家資本主義を崩壊させるのに貢献したが、競争的資本主義の基
盤を提供しないであろう。西欧資本主義(下からの資本主義)の発生に不可欠な要
素であった人々の倫理的な強さを今日の日本人に見ることはできない。》(349-35
0頁)

《子供たちに個人主義と自由主義の本質と真の意味を教えるような、意味ある教育
の改革が必要である。/しかしながら、この方法によって資格ある人々を得るには、
大体四〇年か五〇年のオーダーの長い時間がかかる。これが達成され前に、日本は
元禄時代以後にあったような非常に長い不況を経験するであろう。日本はそれに耐
えねばならない。しかしこの期間を通じて、日本は現在所属しているよりもずっと
低いと見られているクラスの国の一つとして広く知られるであろう。しかし日本は
ついに民主主義を築き上げることに成功すると期待してもよい。このようにして日
本は、国家資本主義を競争的資本主義に転換するのに必要な、時間がかかり、手間
のかかる仕事を成し遂げるのである。最後に、東アジア共同体の加盟国は身体的に
も文化的にも似ているので、共同体関係の仕事にたずさわる日本人はその歴史的親
密感のある雰囲気のなかでより自由に働くだろうということを付け加えておかねば
ならない。彼らはその環境に十分適応するであろう。それゆえ、すでに述べたよう
に、日本人は共同体の同僚たちとともにビジネスをすることによって、必要な労働
倫理を身につけるであろう。もし日本人がこのような事態に甘んじることができた
なら、生活水準は相当に高いが国際的には重要でない国であることはそれほど不幸
なことではないであろう。これが二一世紀半ばの日本についての私のイメージであ
る。》(366-367頁)

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