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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.259 (2004/10/10)
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 □ 三木成夫『海・呼吸・古代形象』
 □『露伴随筆集(下) 言語篇』
 □ 西郷信綱『古代人と夢』
 □ 蓮見重彦『監督 小津安二郎』
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前回の続き。──『脳と仮想』の書評として、養老孟司「心を科学で解き明かす真
摯な作業」(毎日新聞10月3日)と布施英利「セザンヌのリンゴが脳科学になる日
」(『波』10月号)の二編を読んだ。

養老「この本を文学だと批評する人もあるかもしれない。そんなことは、じつはど
うでもいいのである」。
布施「ぼくはなぜか、この本を読んで、静物画を描きたくなった。コップに花を挿
して、それをスケッチする。花の静物画などというものは、凡庸の極みである。し
かし、そういういっけん凡庸なものの中にこそ、いちばん大切なものがあるのかも
しれない。この本がいっているのは、そういうことだ」。
 

●904●三木成夫『海・呼吸・古代形象──生命記憶と回想』
                        (うぶすな書房:1992.8.31)

 『脳と仮想』の第七章「思い出せない記憶」は三木成夫のことを取り上げている。
ちょうどその時『胎児の世界』以来の三木成夫の文章を同時進行的に読んでいた。
(三木成夫の精神のかたちはどこか白川静を思わせる。知識=情報として読み流し
てしまうと伝わってこない「こころの声」が響いている。)──椰子の実を啜って、
臍の緒が切れる以前の、十万年から二十万の生命記憶を蘇らせ、母乳を吸って、七
千万年から一億年にわたる「原形質の奥底にまで拡がるような」衝撃を受け、羊水
のしぶきをあびて「古代海水の面影」に思いをはせる。

《われわれのからだの、原形質の中核には、生物発生以来、三十億になんなんとす
る歳月を費やして、綯い続けてきた生命記憶の縄が、あの“二重の渦巻文様”とし
て、秘められています。それは、今までに述べました、この地球との繋がり、古代
海水との交流、さらには、あの母乳の感触、そして遠い故郷の味など……。/われ
われは、こうした浅深色とりどりの生命記憶を、ある日、忽然と回想する。それは
動物たちの世界には決して見ることのできないものでしょう。「近感覚」に対する、
「遠観得」の機能と呼んでおります。/現代の世の中では、こうした「遠」の世界
は、夥しい「近」の騒音に掻き消され、もはやひとつの“まぼろし”と化した感が
あります。いいかえれば、ひとびとは、目先の出来事に、たんに“あたま”の中で
一喜一憂を繰り返すのが精一杯のように思われるのです。/しかし、ここで、いわ
ゆる「真の認識」とか「本質の把握」などと言われているものは、この生命記憶の
回想にもとづいた「遠観得」の後見なしに行なわれるものではないことを、振り返
って見なければなりません。/皆さん、いちど、この太古の潮騒の響きを伝える心
臓の鼓動、文字通り“こころ”の声に、耳を傾けてみようではありませんか。》(
「生命記憶と回想」97-98頁)

●905●『露伴随筆集(下) 言語篇』(寺田透編,岩波文庫:1993.10.18)
●906●西郷信綱『古代人と夢』(平凡社ライブラリー:1993.6.30)

 『脳と仮想』の関連本(?)としてざっと眺めた。──露伴「音幻論」の末尾の
一文。「各国諸民族の音声言語の学はこれをそのおのおのについて見ればそれぞれ
異るわけだけれども、声韵といふものの全体から大観すればすべて理は一である。
(略)各国の文法・語法の研究はされてゐるが、支那では字法、世界的には声法と
ふものが研究されねばならぬ。字法は姑く擱くが、声法といふ一科が立てられて、
人類声韵の変転推移の法則が研究され見出されて、そして古今世界の言語を横に貫
き縦に統べるに到るのではくては、人類言語の完全な了解は得られぬ。」

 ──『古代人と夢』第5章「古代人の眼」に、死者と夢との関係にふれた箇所が
ある。「私は死者の魂の遊行を正目に視たであろう古代人の□の独自性を取りだし
てみようとしたまでである。彼らに、夜寝たときみる夢が一つの「うつつ」として
受けいれられ、強い衝撃をあたえたのも、また彼らが神話という幻想的な文化形式
を作り出したのも、視覚のこの独自性と関連しあっているのであろう。そうかとい
って、たんに日常的平面にこれを還元していいわけではない。死者の魂が鳥となっ
て行きかようのを彼らが視たのは、殯宮儀礼における特殊なエクスターシィを通し
てであった。そのかなたに、それと包みあいながら、映像としての神話の世界が縹
渺とひろがっているはずである。祭式という行為は、神話的空想をはぐくみそれに
形を与える母胎であった。/祭式が行為であることをやめ、たんなる儀式になって
ゆくにつれ、神話は映像性を失い、次第にイデオロギーに近づいてゆく。(略)前
に私は夢と文化の型との相関性についてふれたが、人間の視覚もまた文化と無関係
でないといえるだろう。」

●907●蓮見重彦『監督 小津安二郎』(筑摩書房:1983.3.30)

 最近オープンした近所のレンタルショップに小津安二郎のDVDが11本揃って
いる。そのうち『東京物語』(1953)と『浮草』(59)は以前観たことがある。残
りの9本を毎週1本ずつ借りている。これまでに『秋刀魚の味』(62)と『お早よ
う』(59)と『麥秋』(51)と『彼岸花』(58)を観た。──小津的な堂々めぐり。
「そうかね、そんなものかね」「そうよ、そうなのよ」「ふーむ、やっぱりそうか
い」。

《『早春』の通勤風景がそうであるように、そのとき画面は物語に従属することを
こばみ、説話論的な秩序からすれば不自然な誇張としか思えないほどの過激さで視
線と歩調の一致性という主題をきわだたせ、作者の意識による統御にはおさまりが
つかぬ過剰な細部を形成する。そしてその過剰な細部が、説話論的な構造との偏差
を介してその持続を活気づけ、物語を分節化する変容の契機となる。小津の新鮮さ
とは、こうしたずれが視覚的に具現化する挑発的な不自然さにある。》(110頁)

 ──保坂和志の「そうみえた『秋刀魚の味』」に「小津安二郎特有の視線」とい
う言葉が出てくる。保坂は、それは「誰の視線でもなく、ただカメラの視線だとし
か言うことができない」と述べ、「無人格の記憶の視線」とか「彼ら[死んだ者た
ち]を記憶する家の視線」ともいいかえている。

《『秋刀魚の味』の人たちは、彼らを記憶する家の視線の中で、彼ら自身の時間を
家の視線として生きつづけているのだとぼくは感じている。そういう形で、消え去
った過去の人間や物やそれらの動いたことと現在という時間が関係づけられるとい
う想像力の形を与えられたように感じているのだけれど、その想像力は彼らを記憶
する家がなくなったあとのことまでには届いていないように今はまだ感じている。》
(『〈私〉という演算』42頁)

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