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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.258 (2004/10/10)
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 □ 茂木健一郎『脳と仮想』
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『世界が変わる現代物理学』に素数という概念が理解できない鼠の話が出てくる。
竹内薫はそこで「(素数がマウスの知性の限界を示しているのと同様の意味で)人
類の知性に限界があると考えるほうが自然なように思われてなりません」と書いて
いた(223頁)。

『脳と仮想』に「私たちが現実と向かい合う時にそこにインターフェイスとして浮
上してくる」仮想の「最たるもの」として数学的概念が取り上げられている(98頁
)。茂木健一郎はこう書いていた。

《…数学を成り立たせているのは、徹頭徹尾、この世界にはどこにも存在しない仮
想である。数学の歴史とは、そのような仮想の間の関係を、論理と整合性を保ちつ
つ構築することであった。/そのような仮想によって構築された数式の世界に、現
実の世界がなぜか従う。このことは、私たちの生が投げ込まれているこの世界の持
つ、きわめて不思議な性質の一つであると言わざるを得ないのである。》(102頁)

(これらの話題に触発されて『数学の夢』(黒川信重,岩波書店)を手にした。こ
の本に目を通すのはこれで何度目になるだろう。読むたびに新しい発見があり、な
にかしらかきたてられるものがある。今回のそれは、ピタゴラスとライプニッツの
「絶対数学」における符合ということだった。)

ところで、竹内・茂木のコンビにはこれまでから共著『トンデモ科学の世界』や共
訳『ペンローズの量子脳理論』などを通じて大いに触発されてきた。ペンローズを
読んだのもこの二人に導かれてのことだった。──数学といえば、ペンローズ。そ
の『心の影』に「プラトン的世界(数学的世界)」と「物理的世界」と「心的世界
」のウロボロスの蛇的三つ巴の関係図が出てくる(下巻228頁)。茂木氏は『脳と
仮想』で、「プラトン的世界」は数学的秩序に限られていたわけではないと書いて
いる。

《…およそ、私たちが意識の中で思い浮かべることができるものはすべてクオリア
であるという現代の脳科学の出発点に立てば、それが数学的な概念であれ、美や道
徳といった一見曖昧な印象を与える概念であれ、すべて、この地上の物質的世界と
は独立したプラトン的世界に属すると言ってもよい。》(121頁)

ちなみに、茂木氏の頭のなかでは「現実=物理的世界」「仮想=心の世界」「潜在
性=プラトン的世界」の三区分が立てられている。精確にいうと、「現実=物自体
」と「仮想=(脳内)現象」が対峙する世界と、潜在性の世界の二区分。そして「
クオリア」はこの三つないしは二つの世界にまたがっている。

《実際、プラトン的世界の中には、宇宙の歴史の中でまだどこでも現実化していな
いクオリアが、無限に潜んでいるに違いない。》(122頁)
 

●903●茂木健一郎『脳と仮想』(新潮社:2004.9.25)

 茂木健一郎が「仮想の系譜」のタイトルで『考える人』に連載していたエッセイ
が『脳と仮想』と書名を改めて刊行された。永井均が『本』に2年間連載していた
「ひねもすたれながす哲学」とともに出版されたら速攻で買って読もうと思ってい
たエッセイだ。(冬弓舎のホームページに‘くるぶし’さんが連載している「よい
子の社会主義」も気になる。)表紙に“The Brain and Imagination‐immersed
 in the premonition of things to come”と印刷されている。「仮想」の英訳が
“virtuality”ではないところ、そして“imagination”の和訳が「想像」ではな
いところがミソだと思う。(竹内薫の『世界が変わる現代物理学』に出てきた「S
F化」と茂木の「仮想」。この二つの概念はどこかで響き合っている。)

 この本を読んでいてしきりに保坂和志の『〈私〉という演算』のことが頭をよぎ
った。文章のジャンルや扱われているテーマからいえばエッセイ集『言葉の外へ』
の方が好対照をなすのではないかと思うが、読書中の生理的感触からいえばやはり
『演算』だろう。それは何もこの二つの書物がそれぞれ九つの章もしくは九つの文
章で構成されているからというわけではない。両著に共通して小津安二郎の作品へ
の言及があるからでもない(『仮想』の115頁と188頁で「お早よう」が、144頁で
「東京物語」が取りあげられている。『演算』には「そうみえた『秋刀魚の味』」
というそのものズバリの題名の作品がある)し、保坂の『世界を肯定する哲学』が
『仮想』(128頁)で引用されているからでもない。

 先に感触という言葉を使ったけれど、それを別の個人的表現におきかえると「哲
覚」になる。それが何であれ一つの哲学的問題が立ち上がってくる、その時その身
体的現場に生き生きとしたリアリティをもって同時に立ち上がっているある種の眩
暈に似た感覚。それを私は(小平邦彦の「数覚」にならって)哲覚と名づけている
のだが、保坂和志が「思考の生の形」(『演算』あとがき)といい茂木健一郎が「
生成の現場」(『仮想』199頁)と呼ぶものといかほどかは相通じているのだと思
う。『仮想』を読みながらしきりに『演算』を想起したのはたぶんそこに似た感触
を、つまり哲覚の共振を感じたからだ。

 ある種の眩暈に似た感覚とともに一つの哲学的問題が立ち上がってくる現場。そ
れはまた哲学が新たに語り直される現場でもある。だから茂木氏が本書で語ったこ
と、たとえばクオリアや仮想という概念、脳内現象説という理論が文脈に応じて融
通無碍のニュアンスや曖昧さを帯びていたり、あるいはカントやベルクソンといっ
た既成の哲学の焼き直しに見えたとしても、それは哲覚を共有していない者の取る
に足らない感想でしかないのである。哲学を新たに語り直すこと。脳科学者はそこ
から新たな概念を立ち上げ、小説家は新たな世界を立ち上げる。読者もまた生きる
態度を更新させなければならない。それが一冊の書物を読むという体験にほかなら
ない。

《様々な仮想が生み出された誕生の現場に立ち返り、日常の生活の中でのありふれ
た「慣性」を超えた、かつてそれらが生成された瞬間の躍動においてとらえること。
そのような作業をすることによって、私たちは、仮想の系譜を石版の上に書かれた
模様のような静止した状態においてとらえるのではなく、それを生み出した生成の
躍動の連続においてとらえることができるようになる。生成の連続という本来の意
味で、歴史というものを体験することができるようになるのである。》(189頁)

 これは余談だが、『仮想』との哲覚的共振の実質を確かめたくて新宮一成氏が解
説を書いた中公文庫版の『演算』を買い求めたとき、ことのついでに入手した折口
信夫の『言語情調論』は「思考の生の形」に対する「気分(感情)の生の形」とで
もいうべきものを表現する言語の「音覚情調」をめぐる論考だった。『脳と仮想』
は要するに『脳と言語』であろう。言語をより精確にいえば「言語的構造物」で、
たとえば物語、科学、哲学、さらに絵画、映画、舞踏、歌、音楽まで含めていいか
もしれない。

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