〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 ■ 不連続な読書日記                ■ No.255 (2004/09/20)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 □ 村上春樹『アフターダーク』
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 

●899●村上春樹『アフターダーク』(講談社:2004.9.7)

  1
 都市を闇が被う。あたかもスクリーンセイバーのように。いくつもの生命体がか
らみあって作り上げた巨大な生き物(3頁)を包み込む特別な皮膚(5頁)のよう
に。
 都市が纏う皮膚とは言葉だ。純粋な視点となった言葉──「肉体を離れ、実体を
あとに残し、質量を持たない観念的な視点」(153頁)となって、二つの世界(テ
レビ画面をはさんだあちら側とこちら側、無と実体、フィクションとリアリティ、
死と生)を隔てる壁を通り抜ける言葉(『アフターダーク』の語り手である「私た
ち」)──が都市の細部を覆い尽くしていく。あたかもスクリーンプレイのように。
聞こえないBGM、届かない沈黙のように。

 言葉はまた、深い海の底に住む巨大なタコ(138頁)のような異様な生き物(国
家、法律、裁判制度)となって、集合と部分、総体と部品の二義性(284頁)、虚
と実、善と悪の二つの世界を隔てる高い壁を突き抜ける。すべての人間を暗闇の中
に吸い込む。「そいつはね、僕が僕であり、君が君であるなんてことはこれっぽっ
ちも考えてくれない。そいつの前では、あらゆる人間が名前を失い、顔をなくして
しまうんだ。僕らはみんなただの記号になってしまう。ただの番号になってしまう
」(139頁)。

  2
 真夜中。深まっていく暗闇の中(94頁)で、二つの世界を結ぶ回線が繋がる。
 物語の第一の層。深夜のファミリーレストランで読書する中国語のできる女の子
(浅井マリ)と、トロンボーンと変形した耳たぶと凡庸な名前(21頁)を持った若
い男(タカハシテツヤ)が出会う。ゴダールの観念的な映画(83頁)に出てきた未
来都市と同じ名前(アルファヴィル)を持つラブホテル──情愛とアイロニーを必
要としないセックス(84頁)のための場所──の部屋の中で、知らない男(白川)
に殴られ、裸で血を流していたとてもきれいな中国人の女の子(186頁)と、背中
に鳥の足跡のような傷痕を持つ本名を捨てた女(コオロギ)が登場する。
 ここに出てくる「中国語」と「耳」と「背中」は、いずれも無意識への通路が宿
る場所だ。『アフターダーク』の第一の層の最深部(アンダーグラウンド)に棲息
するもうひとつの「わたしたち」、中国人売春組織は二つの暴力手段をもって報復
する。耳を切ること、背中を叩くこと。(コオロギの背中の傷跡は文字の発生を生
々しく想起させる。蒼頡は鳥の足跡を見て文字を造った。文字には呪術性と機能性
(71頁)が等しく備わっている。あたかもマスクのように。彼女はまた二つの暴力
の痕跡、阪神・淡路大震災の記憶とオウム真理教事件のしるしを身に刻んでいる。)

 物語の第二の層。いろんなもののアレルギーを持ち(167頁)、薬と占いとダイ
エットのマニア(175頁)だった美しい娘(浅井マリの姉エリ)が、海の底に沈ん
だ心(73頁)とともに純粋で完結的な奥深い眠り(36頁)に陥っている。深夜のオ
フィス・ビルの一室に設えられた椅子に座り、呪術性と機能性が等しく備わった精
緻な匿名の仮面(匿名的な外皮)──「それは古代の闇とともに伝えられたもので
もあるし、また未来から光とともに送り込まれてきたものでもある」(71頁)──
をかぶせられた「顔のない男」が、娘の部屋のテレビの画面を通じてその姿を凝視
(窃視)している。
 やがて眠る娘はベッドごと顔のない男がいる部屋へ移動する。「回線はどこかに
──それがどこであれ──揺らぎのない状態で繋がっている」(126頁)。「こち
ら側の部屋でも、あちら側の部屋でも、時間は同じように均一に経過している。両
者は同じ時間性の中にいる」(128頁)。

 物語の二つの層を結ぶのは、ラブホテルの防犯カメラに隠し撮られ、液晶モニタ
ーに映し出された白川の顔だ。あるいは(マリ(94頁)とともに)鏡の中に取り残
された白川(192頁)の顔。(黒いホンダのバイクに乗ったポニーテールの中国人
は、マリと高橋(145頁)、白川(200頁)とそれぞれすれ違うが、彼らの間に接点
はない。また白川が中国人娼婦から奪い、コンビニの棚に捨てたプリペイドの小さ
な折り畳み式携帯電話から、高橋と店員に二度(256頁,283頁)かかってきた「わ
たしたち」からの伝言は、違う世界の違う回線を通している(258頁)。)
 白川が一人キーボードに向かい、妻からかかってきた電話に「事態はけっこう込
み入っている」(119頁)と答え軽いジョークを飛ばしコンビニでローファット牛
乳を買って帰ると約束し、ヨガマットの上で古典音楽を聴きながらシステマチック
に腹筋運動をこなす深夜のオフィスは、浅井エリが意味のない暴力を受け、無言の
悲鳴を上げ、見えない血を流しているもうひとつの「アルファヴィル」であり(18
7頁)、顔のない男とはあちら側の世界に住むもう一人の白川その人である。

  3
 真夜中から空が白むまでの時間(254頁)。スコット・フィッツジェラルドが「
魂の暗闇」と呼んだ時刻。完全な暗闇がやってくる(165頁)。二つの世界を結ぶ
回線が揺らいでいる(219頁)。実在の奥底に深淵がぱっくりと口を開き、私たち
の原理が何ひとつ効力を持たない深い裂け目のような場所(254頁)でひとつの儀
式が行われようとしている。
 耳が痛くなるほどの深い沈黙(154頁)に支配された部屋の中で、浅井エリが目
覚める。顔のない男は姿を消し、あの純粋な視点としての「私たち」だけが彼女を
観察している。部屋の窓の外には純粋な抽象概念のような、色のない空間(158頁)
しかない。台詞以外では一切の内面表現を排除した『アフターダーク』の叙述がこ
こにきて変調をきたす。「私がここにいることを誰も知らない、と彼女は思う。私
にはそれがわかる。私がここにいることを誰も知らない」(164頁)。
 テレビの画面に映った彼女の輪郭が鮮明さを失い始める。「二つの世界を結ぶ回
線が、その接続点を激しく揺るがされている。それによって彼女の存在の輪郭もま
た損われようとしている。実体の意味が浸蝕されつつある」(219-220頁)。ブラ
ウン管の光が消滅する。「あらゆる情報は無となり、場所は撤収され、意味は解体
され、世界は隔てられ、あとには感覚のない沈黙が残る」(220頁)。

 それはひとつの「小さな死」(抽象的な死)の情景である。村上春樹はかつて「
午前三時五十分の小さな死」(『遠くの太鼓』)に書いていた。朝が訪れる前のこ
の小さな時刻に、僕はそのような死のかたまりを感じると。──長い小説を書いて
いると、よくそういうことが起こる。小説を書くことによって、少しずつ生の深み
へと降りていく。そのようにして生の中心に近づけば近づくほど、はっきりと感じ
ることになる。ほんのわずか先の暗闇の中で、死もまた同時に激しいかたまりを見
せていることを。
 白井(顔のない男)とは、シネマ・コンプレックス(135頁)のように重層的な
物語を分泌し、身代わりの暴力と死を登場人物に強いる作者(デミウルゴス)、つ
まり「長い小説」を書いている村上春樹その人の影だ。
 息を止め、まばたきもせず、すべての感覚を客体化し、意識をフラットにし、論
理を一時的に凍結し、時間の進行をくい止め、自分という存在を可能な限り背景に
溶け込ませ、すべてを中立的な静物画のように見せかけ、ひたすら気配を殺して、
「何か別のもの」(深海の生物たち?)の出現を期待する(191頁)小説家。
 論理と作用の相関関係(論理が作用を派生的にもたらすのか、あるいは作用が論
理を結果的にもたらすのか)について思考を巡らせる(221頁)小説家。──白井
は「ラブホテルで中国人の娼婦を買う男には見えない。ましてやその相手を理不尽
に殴打し、衣服をはぎ取って持っていくようなタイプには見えない。でも現実に彼
はそうしたし[=作用]、そうしないわけにはいかなったのだ[=論理]」(116-
117頁)。

  4
 明け方。二つの世界を繋いでいた回線が死ぬ(257頁)。新しい時間と古い時間
がせめぎ合い、入り混じる(262頁)。
 物語の第一の層では、高橋が音楽から足を洗い法律家を志し、マリが中国留学を
決意する。物語の第二の層では、エリの目覚め(無としての抽象的な死からの救済
)を通じて何かが覚醒しようとしている。「何か別のもの」のささやかな胎動、あ
るいはささやかな胎動の、そのまたささやかな予兆(287頁)。「意識の微かな隙
間を抜けて、何かがこちら側にしるしを送ろうとしている」。「私たちはその予兆
が、ほかの企み[小説家の企み?]に妨げられることなく、朝の光の中で時間をか
けて膨らんでいくのを、注意深くひそやかに見守ろうとする。夜はようやく明けた
ばかりだ。次の闇が訪れるまでに、まだ時間はある」(287-288頁)。

 小説家(白井=顔のない男=複数の「純粋な視点」の独占者=観念的暴力の担い
手)は、もうひとつの「わたしたち」(具体的な暴力の担い手)の報復から逃げ切
ることはできないだろう。「事態はけっこう込み入っている」のだ。だから村上春
樹は、マリによるエリ(こちらの世界では中国人の娼婦)の救済を導くため、あら
かじめ暴力の痕跡(聖痕)が刻印された二人の登場人物に導師役を割りあてる。
 変形した耳たぶを持つ高橋。「ねえ、僕らの人生は、明るいか暗いかだけで単純
に分けられているわけじゃないんだ。そのあいだには陰影という中間地帯がある。
その陰影の段階を認識し、理解するのが、健全な知性だ。そして健全な知性を獲得
するには、それなりの時間と労力が必要とされる」(267-268頁)。だから「ゆっ
くり歩け、たくさん水を飲め」(203頁)。
 背中に鳥の足跡を思わせる傷痕を持つコオロギ。「私はね、輪廻みたいなもんが
あるはずやと思てるの。とゆうか、そういうもんがないとしたら、すごく怖い。無
というもんが、私には理解できんし、想像もできん…どんなひどいもんにこの次生
まれ変わるとしても、少なくともその姿を具体的に想像することはできるやんか。
たとえば馬になった自分とか、かたつむりになった自分とかね。この次はたぶんあ
かんとしても、そのまた次のネクスト・チャンスに賭けることができる」(237-23
8頁)。「人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな。そ
の記憶が現実的に大事なものかどうかなんて、生命の維持にとってはべつにどうで
もええことみたい。ただの燃料やねん」。「もしそういう燃料が私になかったとし
たら、もし記憶の引き出しみたいなものが自分の中になかったとしたら、私はとう
の昔にぽきんと二つに折れてたと思う」(244-245頁)。

  5
 ひとつの闇が死に、次の闇が訪れるまで。村上春樹は沈黙し、読者は途方に暮れ
る。 マリに「何かを本当にクリエイトするって、具体的にいうとどういうことな
の?」と聞かれて、高橋は答える。「そうだな……音楽を深く心に届かせることに
よって、こちらの身体も物理的にいくらかすっと移動し、それと同時に、聴いてる
方の身体も物理的にいくらかすっと移動する。そういう共有的な状態を生み出すこ
とだ。たぶん」(132-133頁)。
 エリとの関係について高橋は語る。「要するにさ、僕が何を言ったところで、そ
れは彼女の意識には届かないんだよ。僕と浅井エリとのあいだには透明なスポンジ
の地層みたいなものが立ちはだかっていて、僕の口にする言葉は、そこを通り抜け
るあいだにあらかた養分を吸い取られてしまう。本当の意味では、彼女はこちらの
話なんか聞いていないんだ。話をしているうちに、そういう様子がわかってくる。
すると今度は、彼女が口にする言葉だって、うまくこちらに届かなくなってくる。
それはとても妙な感じなんだ」(178-179頁)。
 マリは思い出す。「でもそれが最後だった。それが……なんていうか、私がエリ
に対していちばん近くまで行くことができた瞬間だった。私たちが心を重ねあわせ、
隔てなくひとつになれた瞬間。それからエリと私はどんどん遠く離れていったよう
な気がする。離ればなれになって、そのうちにべつべつの世界で暮らすようになっ
た。あのエレベーターの暗闇の中で感じた一体感というか、強い心の絆のようなも
のは、私たちのあいだに二度と戻ってこなかった。何がいけなかったのか、私には
わからない。でもとにかく、私たちはもうもとには戻れなくなってしまった」(27
4-275頁)。
 マジ恐い相手から3年も逃げているコオロギが言う。「ときどきね、自分の影と
競争しているような気がすることがある。どれだけ速く走って逃げても、逃げ切れ
るわけがないねん。自分の影を振り切ることはできんもんな」。マリは言う。「で
も、ほんとはそうじゃないかもしれない。もしかしたら、それは自分の影なんかじ
ゃなくて、ぜんぜんべつのものかもしれないでしょ」。「そやな。なんとかがんば
ってやりとおすしかない」(242頁)。

 村上春樹が『アフターダーク』で描こうとした「予兆」が、「透明なスポンジの
地層」や「透明なガラスの壁」(218頁)を介さない意識の直接的な「一体感」や
身体の「共有的な状態」のようなものを指しているのだとしたら、そしてそのよう
な「何か別のもの」の胎動を「研ぎすまされた純粋な視点」(287頁)としての言
葉(「私たち」)を通じて、つまり「マジ怖い相手」(作者の影としての白川、白
川の影としての顔のない男)の露呈とその消失──より端的に言えば、ムラカミハ
ルキ的世界(物語の第一の層、第二の層)への読者の惰性的な感情移入の拒絶──
を通じて描こうとしているのだとしたら、それもまたひとつの観念(窓のない部屋
)のなかで演じられた抽象的な殺戮劇でしかない。

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 ■ メールマガジン「不連続な読書日記」/不定期刊
 ■ 発 行 者:中原紀生〔norio-n@sanynet.ne.jp〕
 ■ 配信先の変更、配信の中止/バックナンバー
       : http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html
 ■ 関連HP: http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
 ■ このメールマガジンは、インターネットの本屋さん『まぐまぐ』 を利用し
  て発行しています。http://www.mag2.com/ (マガジンID: 0000046266)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓