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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.249 (2004/07/04)
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 □ 中山元『〈ぼく〉と世界をつなぐ哲学』
 □ 加地大介『なぜ私たちは過去へ行けないのか』
 □ 酒井隆史『暴力の哲学』
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●879●中山元『〈ぼく〉と世界をつなぐ哲学』(ちくま新書:2004.6.10)

 数十本の映画の予告編もしくはハイライト・シーンをジャンル別に編集して一本
の映画にまとめあげたような作品。あるいは数十冊の哲学本のサワリ(概念)を別
の文脈とテーマに応じて数珠繋ぎにした哲学的概念の見本帳もしくは概念のテーマ
パーク。この種の本は概念移植の手捌きとその連結・並べ替えのセンスが決めてで、
ややもするとお気軽で浅薄なテツガク本に堕してしまうものだけれど、サイエンス
・ライターならぬフィロソフィー・ライターとして新境地をひらきつつある著者は
そのあたりの勘所を心得ている。

 「〈ぼく〉とは誰だろうか。〈ぼく〉はどのようにして〈ぼく〉となり、〈ぼく
〉として持続することができるのだろうか」。この「自分が宇宙の妖怪の幻ではな
いか」と本気で考えた学生の頃の問いをもちだして、可能世界・分身の問題系から
記憶、言語、他者、共同体、身体、環境、媒介と、〈ぼく〉と世界をつなぐ絆をめ
ぐる問題群に即して猛烈なスピードでもって数々の概念(思考の道具としての)を
自在に繰り出していく。

 この叙述の順序、問題と概念の配列そのものに著者の「思想」は語らずして示さ
れている。とりわけ最終章に出てくる「肉」の概念をめぐる考察──メルロ=ポン
ティの「世界の〈肉〉」をレジス・ドゥブレの「社会の〈肉〉」(象徴的な〈肉〉
)に連結し、身体・環境・媒介という「共同体の内と外」をめぐる考察に一本の線
を引いたもの──は刺激的で、今後の展開の可能性に期待できる。読み尽くすこと
のできない深みをそなえた〈ぼく〉という書物=肉。

《この本では宇宙の妖怪のような〈ぼく〉から考察を始めた。そして自己について、
他者について、共同性について考察するうちに、〈ぼく〉というものが、他者や共
同体の存在のもとでしか生まれず、存在しえないことを確認してきた。〈ぼく〉の
うちには、他者や共同体が不可視の形で畳み込まれているのである。〈ぼく〉を読
むこと、それはぼくのうちに畳み込まれた他者や共同体や風土を読むことでもある。
ぼくたちにとっても、自己はまだ読み尽くすことのできない深みをそなえているの
だ。》(212頁)

●880●加地大介『なぜ私たちは過去へ行けないのか──ほんとうの哲学入門』
                         (哲学書房:2003.11.20)

 「魂の本性[collection ψυχη]」というなんとも魅力的な叢書の第一弾。
40字×15行で200頁。ゆったりとした行間、たっぷりとした余白。厚手の紙に印刷さ
れたハードカバーで、量ってみると396グラムの重さ。新書版ならその半分にも満た
ないだろう。

 先日、NHKの「ニュース10」で片山恭一の『世界の中心で、愛をさけぶ』がベ
ストセラーになった秘密(発行部数がとうとう300万部を超えたらしい)は、独自
に開発された「かさ高紙」にあると報道していた。たかだか192頁の本に厚みをもた
せて、読後の達成感をもたらせるための策だったという。

 『なぜ私たちは過去へ行けないのか』は、哲学書房の中野幹隆から「〈本当に中
学生にも分かるような本当の哲学書〉を書いてください」と依頼されて書いたもの
だというが、編集者の戦略眼は、2400円という価格設定も含めて、中学生に「高価
で分厚い哲学書を読み切った」という充足感をもたせることにすえられていたに違
いない。これはけなしたり皮肉をきかせるために書いているのではなくて、とても
大事なことだと思うから書いている。

 著者もまたしっかりとその趣旨を汲んで、「ほんとうの哲学入門」の書を書いた。
映画『ターミネーター2』を素材に、思考実験を駆使してサイエンス・フィクショ
ンとしての哲学の醍醐味(その楽しさ、面白さ)を存分に味わわせる第一章「なぜ
私たちは過去へ行けないのか」。あまりにも当たり前すぎてふだんは意識さえしな
いこと(たとえば、私たちが重力の中で生きていること)に意図的に目を注ぐこと
から、難解な哲学的思索(たとえば、カントの空間論)を読み解く糸口をつかんで
みせる第二章「なぜ鏡は左右だけ反転させるのか」。

 山本五十六は「やってみせ いってきかせて させてみせ ほめてやらねば 人は動
かじ」と指導者の心得を説いたという。中学生に哲学への入門を勧め、「形而上学
というものを眺望できるところまで皆さんをご案内できればいいな」と意図するか
らには、口で言ってきかせるだけではだめで、師みずからがおのれの頭と身体を使
って「いって」みせなければなるまい。あの世は逝ってみなければ分からないのと
同断だ。

●881●酒井隆史『暴力の哲学』(シリーズ道徳の系譜,河出書房新社:2004.5.30)

 ドイツ語の Kritik(批評)の語源は krinein(分離)。「つまり暴力を[カン
ト的な意味で]批判するとは、(暴力の廃絶という理念に立脚しながらも)暴力そ
のもののなかに線を引くということなのです」。ベンヤミンの「暴力批判論」に言
及した箇所で著者はそのように書いている。「戦争/平和」「悪しき暴力/正しい
暴力」等々の様々な線引きがあるなかで、著者はまず政治的意味(革命、民族解放
など)の喪失という「暴力の新しいパラダイム」に即して「暴力/非暴力」の分割
を論じ(第一部)、ついで「主権」とともに近代国家を規定していた「セキュリテ
ィ」の変質に即して「暴力/反暴力」の峻別を論じる(第二部)。そして最後に「
受肉した存在であるわたしたちにとって、暴力は宿命である」というメルロ=ポン
ティ(『ヒューマニズムとテロル』)の言葉を屈折点として「政治の道具=手段と
しての暴力/人間存在の多様な力の表出(生の発現)としての暴力」の区分に説き
及び、再びベンヤミンに戻る。

《ここで最初の問いに戻ってみます。暴力を拒絶することは、暴力を批判すること
には必ずしもならない、むしろ暴力の抽象的・一般的な拒絶は、暴力を呼び込んで
しまう仕組みがあることに注目する必要があるということから入りました。暴力の
拒絶が、暴力をもたらす、という循環の仕組みを、主権という項を挿入しながら考
えてみました。野村修は、ベンヤミンを手がかりにしながら、抽象的なモラルであ
る暴力の否定が暴力を呼び込む構造を断ち、暴力の質を評価する基準を設定するた
めに、もう一つの項である「反暴力」を挿入しました。それは、あらゆる国家暴力
の廃絶の理念を胚胎しているかぎりにおいて、あらゆる暴力を構造化している制度
そのものを解体する質をはらんでいるかぎりにおいて、暴力のもつ問題性をはらん
ではいるけれども、しかし用語されねばならない、というのです。しかしそれでも、
この「反暴力」を正当化されない対抗的暴力からどう区別できるのか、いまひとつ
よくわかりません。(略)

法を創設したり維持したりする主権をめぐる暴力、血の匂いのする暴力を神話的暴
力、そうした仕組の一切を解体する血の匂いのしない浄化的暴力を神的暴力とベン
ヤミンは呼びましたが、それはこの反暴力とも近いといえないでしょうか? そこ
にはより深遠な含蓄があることは認めますが、恐怖によって求心性の磁場をつくり
だす主権を拒絶する力。残酷の組織化とエスカレーションを可能なかぎり回避する
ものとしての。そして、そこに非暴力直接行動があらたに位置づけられるのかもし
れない。国家と主権が折り重なった時代の終わりとともに、直接行動あるいは直接
活動の創造性をどこまでおし広げられるか、そこにもしかすると、いまという時代
の核心がかけられているのかもしれません。》(210-213頁)

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