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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.248 (2004/06/27)
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 □ 柄谷行人『ネーションと美学』
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●878●柄谷行人『ネーションと美学』
               (定本柄谷行人集第4巻,岩波書店:2004.5.26)

 「ネーションはたんなる想像 fancy ではなく、国家と市場社会とを媒介し綜合
する「想像力」imagination なのである」(13頁)。「序説──ネーションと美
学」に出てくるこの地口が本書のテーマを鮮明に示している。

 近代において形成された「資本=ネーション=ステート」の三位一体(ボロメオ
の輪)について考える際、とりわけ国家と市場社会をつなぐネーションの機能につ
いて考えるとき、「われわれはむしろ想像力について考えなければならない。とい
うのは、ネーションが成立するのと、哲学史において想像力が感性と悟性を媒介す
るような地位におかれるのとは同じ時期だからである」(21頁)。

 カントの批判にもかかわらず感性と悟性(理論理性)の二元性を総合し、それら
を直接的につないだロマン派哲学者流の思考(感性と悟性を越える直観的知性を見
出し、すべての認識の根底に芸術を見出す)を著者は「美学的」と呼ぶ(33頁)。
この場合、カント的二元論からロマン派的一元論への移行はたんなる哲学的形式の
問題ではなく、フランス革命前後のアソシエーショニズムからナショナリズムへの
転向とパラレルであった。

《カントにとって、アソシエーション[カントはその道徳論を現実経済の問題に直
結させて考えた、すなわちその道徳法則において独立生産者たちの協同組合を考え
ていた]は「想像=創造された共同体」であった。すなわち、そこでは、それが創
造されたものであること、あるいは創造されるべきものであることが自覚されてい
る。ところが、ロマン派はそれを実体化した、すなわち、「美学化」した。そのと
き、ネーションが実体的に見出されたのである。カントがコスモポリタン(世界市
民)であったのは、こうしたナショナリズムの圧倒的な傾向に対抗してであった。
彼は国家や共同体から自由であるような個人のアソシエーションの可能性を求めつ
づけた。》(35-36頁)

 以下、著者は「序説」において資本=ネーション=ステートの「地」としての帝
国主義(それは「帝国」とは違う)を分析し、資本・国家・ネーション・宗教・ア
ソシエーションの構造論的な把握の必要性を論じる。続いて「死とナショナリズム
──カントとフロイト」で、後期フロイトの「死の欲動」(それは第一次大戦とい
う「画期的な事件」がもたらした多数の戦争神経症患者に直面するなかで生じた「
歴史的な概念」であった)や「超自我」(それは攻撃欲動が自らに向かうことによ
って形成される、つまり「内から」生じる自律的なものであった)の概念からカン
トの道徳論の謎を解明するといった「トランスクリティカル」な読解を通じて、ロ
マン派的な美学化=実体化のうちに見出されたネーションの核心をなす「個体の不
死」の問題を論じる。

 さらに「美術館としての歴史──岡倉天心とフェノロサ」「美学の効用──『オ
リエンタリズム』以後」の二論文において、ナショナリズムと美学的意識、政治的
言説と美的言説、あるいは芸術と経済の関係を論じ、「ネーション=ステートと言
語学」「文字の地政学──日本精神分析」の二論文で、言語のレベルにおける「美
学的」思考(帝国の言語=文字言語に対する俗語=音声言語の重視)を論じている。

 全編にわたって柄谷的逆説やレトリックが駆使された刺激に満ちた論考である。
──たとえば「ベンヤミンは、複製時代には、芸術作品のアウラが消えるといって
いる、しかし、実際は逆で、複製時代において、それまでの芸術作品のアウラが付
与されるのである」(「美学の効用」160頁)とか、「教会の装飾品が芸術と見な
されるのはロマン派以後[宗教的畏怖の対象に対する「無関心」、すなわち自然科
学におけると同様の「態度の変更](カント的な括弧入れ、あるいは諸領域の純粋
化:156頁)以後]であり、そのとき逆に、宗教が美的に把握される。(略)岡倉
自身は宗教的な関心だと信じているが、それは民衆の宗教的な思考や慣習を平然と
破壊するものである。国内でそれが行われたときは、近代化と呼ばれ、国外では植
民地化と呼ばれる」(同167頁)など。

 だが、論証の手を抜き書き急いだとしか思えない箇所もある。それは新生・柄谷
行人の萌芽なのかもしれない。──たとえば「国家の揚棄=世界共和国」の達成を
めぐる次の文章。「一九九○年以降の事態はまだまだ最終的な段階ではありえない。
今後において、われわれは、今大げさに言っていることが「世界史的には」ほんの
端緒にすぎないと見えるような事態に直面するだろう。そして、人間社会の発展な
どというものがまったくの幻想であることを思い知らされるかも知れない。だが、
そうだとしても、カント以後の二百年をふりかえるとき、私は、つぎのカントの言
葉[『啓蒙とは何か』から「人類は文化に関してたえず進歩しつつある」「人類が
道徳においていっそう高い段階に達すると、これまでよりも更に遠くまで前方が見
えるようになる」云々]に賛同せざるをえないのである」(「死とナショナリズム
」116頁)。

 あるいは、柳宗悦の「民芸運動」に対する評価。「柳宗悦ほどに朝鮮民族の側に
立って行動しようとした知識人は稀であった」「柳は芸術作品を通して、その背後
にこれまで無視されてきた制作者個々人の存在を見出した。それはいわば美的態度
に伴う「括弧」をはずすことである」(「美学の効用」170頁)。

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