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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.247 (2004/06/26)
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 □ 山口義行『経済再生は「現場」から始まる』
 □ ジリアン・テット『セイビング・ザ・サン』
 □ 吉川元忠『経済敗走』
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●875●山口義行『経済再生は「現場」から始まる
         ──市民・企業・行政の新しい関係』(中公新書:2004.3.25)

 いい本を読んだ。地域政策に携わる者にとっては必読書。現場が大事だというこ
とは頭では分かっていても、なかなか体感できない。現場は頭や言葉の中にあるの
ではない。現場は現場にこそある。現場には志と知略と実験精神をもった人がいる。
本書はそういう大切なことを言葉で分からせてくれる。関満博の『現場主義の知的
生産法』(ちくま新書)もよかったけれど、この本はさらに希望と知恵を授けてく
れた。リレーションシップ型の金融機関とリレーションシップ型の企業、そして(
以下は同義反復だけれど)リレーションシップ型自治体とリレーションシップ型市
民組織、これらの四位一体でもって地域の社会と経済は再生する。そうした展望と
勇気を与えてくれた。

 たとえば次のくだり。《渡辺氏[大阪産業創造館]はいった。「大阪では、みん
な暇や暇やいうてんのに、みすみす注文をダメにしてしまうのはもったいない。機
械や設備が余っている会社を連れて来るからおうてください」/渡辺氏の口から出
た「もったいない」という言葉。これこそ「活かす」ことから始まる地域再生の基
本精神を示している。》(104頁)

 ここを読んで思い出したのが、「知恵の塊、日本の村100選!」の特集を組ん
だ『ソトコト』6月号での辻信一と竹村真(いずれも文化人類学者)の対談「そし
て日本は「村」を目指す」。

 辻──「これからはなにが「ない」かではなく、なにが「ある」かを基準に未来
を考えないと。そんな当たり前なことが、やっと言えるようになってきた。そのと
き日本の村っていうのは宝の山、宝探しの場所ですよ。僕が好きな言葉に「懐かし
い未来」というのがあって、これは去年の秋にヘレナ・ホッジがラダックについて
出した本『ANCIENT FUTURES』の日本語タイトルなんだけどね。これだって思った
んです。」「オーストラリアでパーマカルチャーをやってる人たちは、日本人が体
験に来ると「なんで? 僕らは君たちの文化に学んだんだよ」って言う。日本の里
山とか入会のような伝統的な知恵がコンクリートの下に眠っていて、でも懐かしが
っているだけじゃしょうがない。」

 竹村──「僕は徴兵制ならぬ「徴農制」をやればいいと思う(笑)。若いときに1
年、農民になって村の生活をする。環境循環や生命世界の成り立ちを知るのに一番
の生きた博物館であり、限られた資源をコモンズとしてうまく利用するにはどんな
ソーシャルウェアを構成すべきか、そこで全部体験できますよ。五味太郎流にいえ
ば「丈夫なアタマと賢いカラダ」を育てることにもなる。」

 ──阪神淡路大震災からの復興計画の一つに「大きな町のなかにたくさんの小さ
な村を」といった趣旨のスローガンが掲げられていたと記憶している。20世紀初
頭の「都市と農村の結婚」とは違った意味で、いまそこにあるソーシャルウェアを
活かすことでもって再生する「懐かしい未来」。それは現場から始まる。

●876●ジリアン・テット『セイビング・ザ・サン──リップルウッドと
          新生銀行の誕生』(武井楊一訳,日本経済新聞社:204.4.23)

 『オンリー・イエスタディ』ではないけれど10年、15年、せいぜい20年の
近未来ならぬ「近現代」の優れたノンフィクションを読むと、人間は、いや私はほ
んとうに忘れっぽい存在であることに思いが至る。忘れっぽいのではなくて、実は
何も知らなかった。知ろうともしなかった。知らないだけではなくて、実は何も感
じず、何も考えていなかった。何かを感じ、考えようともしなかった。ただその場
その時のリアリティに流されていただけだった。リアリティと言っても、所詮それ
は新聞の紙面やテレビの画面に垂れ流されていた情緒的な気分のようなもの(瑕疵
担保条項=平成の不平等条約とか外資=黒船とか新生銀行上場=濡れ手に粟とか)
でしかない。この国のマスコミにほんもののジャーナリズムが根づいていないこと
など周知の事実だし、それをとやかく言える国民、いや私でないことをいまさら反
省しても遅い。

 ジリアン・テットがこの「長銀と新生銀行の大河ドラマに巻き込まれたさまざま
な登場人物」(392頁)たちに注ぐ視線は優しくかつ慈愛に満ちている。長銀崩壊
というスケープゴート劇を描く第一部の「サムライ・バンカー」大野木克信。リッ
プルウッドによる長銀買収のプロセスを扱った第二部のティモシー・コリンズ。新
生銀行の東証上場までを追った第三部の八城政基。彼らの言動を叙述する著者の筆
は公平かつ人間的寛容に満ちている。とりわけ日債銀あらため「あおぞら銀行」の
新社長本間忠世の死を取り上げた短い挿入章は感動的ですらある。それは結果を知
る者が渦中にあった人間に寄せる後知恵の公平さやイデオロギー的立場から一刀両
断式に示される寛容ではない。真正のジャーナリストのみが持ちうる洞察とすべて
を知り得ないという潔い断念に裏打ちされた深い「同情」がそこにある。

 日本の金融問題に対する著者の立場は明確で、小泉・竹中の改革路線への評価と
日本的システムへの批判は一貫している。しかし「システム」の外から問答無用式
に裁断を下す傲慢さや「システム」に内在する生身の人間への紋切り型の決めつけ
とは無縁である。ジャーナリストに何より必要な歴史感覚を持って「日本の金融物
語を人間の側から描いてみること」に徹したこの作品は、神ならぬ人間の、つまり
「システム」(445頁)を鳥瞰し得ない愚かさを鮮烈に描いた現代日本の「悲劇」
である。

●877●吉川元忠『経済敗走』(ちくま新書;2004.6.10)

 『マネー敗戦』を読んで経済現象を読む目が養われた。国家戦略という名の剥き
出しの国益追求とそれをカモフラージュする経済理論という名のまことしやかな言
説。そして「他者の言説」を鵜呑みにして上辺の事実と情緒を情報の名のもとに垂
れ流すマスメディア。表面に現れた現象を覆うそれらの鱗を何枚も落とさなければ
経済の本質は見通せない。要するに経済問題は国際政治の問題である。

 著者は本書で「敗戦」後の日本の惨状(失われた二十年)の遠因と実態と帰趨を
めぐる詳細な分析を踏まえて二つの選択肢を提示している。その一、デノミや預金
封鎖とも関連するドルと兌換可能な新紙幣の発行。つまり日本経済の「ドル化」(
ドル建て経済化)への道。その二、アジア債券市場の創設から着手されるアジア通
貨協力への道。この大局観は正しい。でも本書の大半を占める「リスクとしてのア
メリカ」をめぐる論述がまことしやかな「陰謀史観」に堕していないか、私には判
断がつかない。

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