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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.246 (2004/06/20)
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 □ メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』
 □ マーク・シェル『芸術と貨幣』
 □ ミシェル・トゥルニエ『イデーの鏡』
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●872●M.メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』
                                  (滝浦静雄・木田元訳,みすず書房:1989)

 メルロ=ポンティは1960年5月の研究ノートに「私の身体は世界と同じ肉ででき
ている」と書きつけている(「世界の肉──身体の肉──〈存在〉」,『見えるも
のと見えないもの』363頁)。

《肉は物質ではないし、精神でもなく、実体でもない。それを名づけるためには、
水・空気・土・火について語るために使用されていた意味での、言いかえれば空間
・時間的個体と観念との中間にある一般的な物、つまりは存在が一かけらでもある
所にはどこにでも存在の或るスタイルを導入する一種の受肉した原理という意味で
の「エレメント」という古い用語が必要になろう。肉は、その意味では、〈存在〉
の「エレメント」なのだ。》(「絡み合い──交叉配列」,『見えるものと見えな
いもの』194頁)

 私は、メルロ=ポンティがいう「肉」はプラトンが『ティマイオス』で「存在」
(イデア・形相)と「生成」(質料)の中間においた謎めいた「コーラ」(場所)
に、すなわちハイデガーが『形而上学入門』で「そこでそれが生成するそこ、媒介、
生成するものがそこへと自己を形成し入れるもの、生成するものが、生成してしま
うと次にはそこから抜け出るもの」と説明し、中沢新一が『精霊の王』で「胞衣」
にたとえたものと響き合うのではないか(「感覚の論理」を通じて?)と考えてい
るのだが、これはまだ仕上げられていない生煮えの粗描でしかない。──あるいは
ヒュポスタシス(どろどろしたもの)。あるいは「音響的鏡すなわち聴覚−音声的
皮膚」(ディディエ・アンジュー『皮膚−自我』)もしくは音響の化石。

 それにしてもメルロ=ポンティの文章は美しい。その美しさは尋常ではない。池
田晶子(『考える人』)の言葉を借りるならば、形而上学的感受性と論理的思考力
との幸福な一致がそこにはある。いかなる脈絡も抜きにして、ただただ純粋に引用
したくなる文章がいたるところに象嵌されている。以下は、そうした「純粋引用」
の一つ。

《ヴァレリーが言っていた牛乳のひそかな黒さにはその白さを通してしか近づきえ
ないように、光の理念や音楽的理念は、光や音を下から裏づけているのであり、そ
れらの裏面ないし深みなのである。それらの理念の肉的な組成[きめ]は、すべて
の肉に欠けている組成[きめ]をわれわれに見せている。それは、不思議にもわれ
われの眼下に、線引きする者もなしに引かれる航路であり、或る種のくぼみ、或る
種の内部、或る種の不在、何ものでもないようなものではないところの否定性なの
だ。》(『見えるものと見えないもの』208頁)
 

●873●マーク・シェル『芸術と貨幣』(小澤博訳,みすず書房:2004.1.9)

◎「1 序論」
「芸術と商業──プルーストはラスキンに倣ってこれを「美的」領域と「経済的」
領域と呼ぶのだが──は本質的に別のものであるという見方を、あらためて問い直
す必要がある…。」(4頁)

◎「2 芸術と貨幣」
「貨幣の何がキリスト教を苛立たせるのだろうか。(略)キリスト教的思考にとっ
て貨幣がとりわけ微妙な問題となるのは、その価値が普遍的に等価で、また、神人
キリストがそうであるように、観念的なものと現実のモノを同時に顕現させるから
である。貨幣はこうして、権威と実体、精神と物質、魂と肉体の顕現として理解さ
れることになる。私が本書全般で使う用語に倣って言えば、貨幣は銘刻とそれを打
刻されたモノの両方を表わすのである。困ったことに、こうした特徴から、貨幣は
キリストに接近し、競合する構成原理となる。」(6頁)

「貨幣上の問題であると同時に美学上の問題でもあるのだが、ビザンティン帝国に
おける内乱は、精神的な神の〈身体〉表象に伴う問題、すなわち、芸術的受肉に伴
う典型的な問題を孕んでいた(ダマスコの聖ヨハネは、キリストが新約聖書の中で
「神の存在を表わす硬貨の刻印[charakter]」と呼ばれてていると力説した。ま
た、聖像を崇拝した多くの教父たちにとって、貨幣的〈刻印 charakter〉は、像と
その像の痕跡を表わすものが同一であることを示そうとする三位一体説のキー・ワ
ードとなった)。」(11頁)

「ピエール・アベラールは、印爾の押印や貨幣の鋳造に絡めた複合的イメージによ
って、唯名論的三位一体説を論じている。アベラールは、印爾の金属、そこに押さ
れた刻印、さらに印爾としてのその生産的用途を区別しながら、父と子と聖霊を相
互に関連づけるのである。」(26頁)

「キリストは財布(パース[purse])であって同時に金銭(パース[purse])でもあ
る。」(41頁)

◎「3 表象と交換」
「非物質化の傾向は視覚芸術のみならず、今日に至るまで、二○世紀の経済を物語
る顕著な特徴でもある。(略)すでに見たように。最初期の硬貨の交換価値は素材
となる鋳塊の物質的実体(エレクトラム)に拠っており、鋳塊に印された銘刻に由
来するものではなかった。やがて、政治的権威によって保証され、鋳塊の重量や純
度と釣り合わない銘刻を印した硬貨──クレメンス=アウグスト・アンドレアエに
よれば、信託の対象としてのコンセプチュアル・アートはここに起源を発する──
が登場すると、額面(概念的/形而上的通貨)と実体的価値(物質的/形而下的通
貨)の関係をめぐるさまざまな難問への意識が急速に高まった。銘刻とモノそのも
のとの間のこの落差は、紙幣の導入によってさらに大きくなった。彫刻模様が印刷
されている素材が紙であろうと、交換の場では、それによって何かが左右されると
はみなされなかった。かくして、銘刻の拠ってきたる実質的物体としての金属、す
なわちエレクトラムと銘刻とのつながりは、ますます抽象的なものとなった。電子
ファンドによる振替が出現すると、銘刻と物質との関係はついに破綻した。電子マ
ネーの〈質料 matter〉は〈無に等しい no matter〉のだから。」(134頁)

◎「4 結論」
「芸術と商業を習慣的に対称的なものとみなすに到った背景には、貨幣的形態が芸
術に本質的なものであることに対する(神についてのさまざまな信仰と関連した)
審美的不安と、美的形態が貨幣に本質的なものであることに対する(等比化と表象
に関するさまざまな理論に関連した)経済的不安がある。」(165頁)

「教義上の宗教は衰退したが、宗教と貨幣の結びつきは今も変わらない──相変わ
らず誤解されたままなのだが。神とマモンの対立を信じた古代の信仰と同様に、芸
術と貨幣の差異や類似性にまつわる俗信は根強く、そうした思い込みから生まれる
さまざまな問題への取り組み方や慣習的な研究方法の中にも影を落としている。芸
術は「観念的な」対象であると同時に「現物」の商品でもある、という難問に発す
るさまざまな問題も、そうした俗信が絡むテーマの一つだ。」(167頁)

●874●ミシェル・トゥルニエ『イデーの鏡』(宮下志朗訳,白水社:2004.2.10)

 116のキーコンセプトを「弁証法的に」構成した58篇のショート・エッセイ
と引用。「ガストン・バシュラールの思い出に」捧げられた美しい本。

◎「記号と映像」
 「イスラムの賢者たちにとって、記号とは精神であり、探求や思索へと駆りたて
るものにほかならない。それは未来を指し示すものなのだ。これに対して、映像と
は物質であり、過去の残りかすが固まったものにすぎない。おまけに記号は独自の
美しさを備えている。カリグラフィーとして咲き誇る美しさがそれだ。アラベスク
模様によって、有限さのなかで無限なるいものが展開されるのだから。」──末尾
に「ムハンマドに帰せられることば」が引用されている。「殉教者の血よりも、知
者のインクのうちに、より多くの真実が存在する。」(138-139頁)

◎「詩と散文」
 ポール・ヴァレリーが伝えるドガとマラルメの対話。ドガ「頭のなかにイデーが
たくさんつまってますから、わたしにだって、詩ぐらい書けてもよさそうなものな
のに」。マラルメ「でもねえ、詩というのは、イデーではなくてことばで作られる
のですよ」。これに添えられたミシェル・トゥルニエの言葉。「イデーから生まれ
るのは散文にすぎないのである。」(151頁)

◎「現実態と可能態」
 「性的な可能態──あるいは不可能態、つまりインポテンツ──と、現実態の対
立は、夫婦の性生活を支配している。というのも、インポテンツとは、ふつう、行
為が早くすんでしまうことをいう。そして、性的な可能態/力[ピュイサンス]は、
持続する勃起と、好きなだけ射精を引きのばすことで発揮される。射精とは、約束
され、中断され、包みこまれ、必死にこらえる行為/現実態[アクト]である。こ
れこそが、よき恋人の献身にほかならない。」(181頁)

◎「絶対的と総体的」
 「神秘体験が、関係論的な科学認識と共通しているのは、神秘の伝達可能性と、
その神秘をめぐって──弟子、同志、単なる同宗者など──ひとつの共同体が存在
して、神秘体験をわかちあっていることである。」(198頁)

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