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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.245 (2004/06/20)
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 □ スピノザ『神学・政治論』上下
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●870●スピノザ『神学・政治論──聖書の批判と言論の自由』上(岩波文庫)

 スピノザ『神学・政治論』。岩波文庫2004年春のリクエスト復刊。ハイデガー『
形而上学入門』に続く今年2冊目の哲学本。これまた退屈の虫を噛み殺しながら読
んだ。読みこめば読みこむほど力がにじみ出てきて、どこか深いところに浸透して
くる感じ。──それにしてもスピノザの退屈さは尋常ではない。たとえば『神学・
政治論』に出てくる次の指摘など、「近代人・スピノザ」の末裔たる私にとって陳
腐な物言いでしかない。

《…聖書は、自然的光明に依って認識される諸原理からは導き出され得ない事柄を
極めて屡々取り扱っている。というのは聖書の主要部分を構成するものは物語と啓
示とであるが、物語は専ら奇蹟を、換言すれば…自然の異常な出来事に関する話を
内容としており、それはそれを語る人々の見解と判断に順応させられたものである
し、一方啓示も亦預言者たちの見解に順応させられたものであることは我々が…示
した通りであって、それは実際には人間の把握力を超越するものなのである。だか
らこれらすべての事柄に関する認識、換言すれば聖書の内容を為す殆どすべての事
柄に関する認識は、聖書自身からのみ得られなくてはならぬ。恰も自然に関する認
識が自然そのものから得られねばならぬと同様に。》(上巻235-236頁)

 ──ところが田島正樹によると、そこにこそスピノザの哲学の根底をなす最も重
要な要素がある。
《『聖書』を『聖書』自身から理解するという徹底した「内在主義」は、同時に、
『聖書』の言葉を『聖書』全体から理解するという「全体論的解釈」へと導くだろ
う。『聖書』解釈を通じてスピノザが若くして確立したこの二つの態度こそ、…生
涯を通じて彼の哲学の根底を形成した、最も重要な要素をなしているのである。
(略)
 彼が使用する哲学用語は、よく見るといずれも伝統的用法から大きくずれており、
しばしばその用語法を生み出した問題圏域からさえ無関係なことが多い。そのため、
その用語の歴史を手がかりにしようとするスピノザ解釈の試みは、しばしば途中で
路を見失うことになってしまうのである。それらは、むしろスピノザ哲学全体の文
脈から、全体論的に解釈されなければならないだろう。それは、スピノザの方法を、
スピノザ自身に適用することなのである。》(『スピノザという暗号』45-46頁)

 これに続けて田島正樹が引用しているスピノザの文章、「預言なるものが個々の
預言者の表象力や気質に応じて相違したばかりでなく預言者が抱いていた思想に応
じても相違したこと、従ってまた預言は決して預言者をより賢くしたわけではない
こと」(上巻89頁)云々は、そこに出てくる「気質」という語彙によって、また「
キリストは精神対精神で神と交わった」のであって、「キリストの外には誰もが表
象力の助けに依ってのみ、即ち言葉や彫像の助けに依ってのみ神の啓示を受けとっ
た」(上巻71-72頁)のだという文章ともども、私の退屈をしばし癒してくれる。

●871●スピノザ『神学・政治論──聖書の批判と言論の自由』下(岩波文庫)

 第十三章「聖書の教えは極めて単純なものであること…」と第十四章「…そして
終りに信仰が哲学から分離される」の二章が『神学・政治論』全体の要であり、全
二十章を一望できる見通しのいいベースキャンプを設営している。(スピノザ自身、
第十五章の末尾で「我々がここに示したことどもは本書の主要目的を構成するもの
であるから、余は先へ進む読者に切にお願いする。どうか読者は前章並びに本章を
特別の注意を以て読み、之をよくよく熟考して欲しい」と書いている。)

 すなわち「預言者たちは特別の表象能力を有するのであって特別の認識能力は有
していなかった。又神は彼らに哲学的秘密を啓示したのではなくて、単に極めて単
純な事柄を啓示したのみであり」(下巻115頁)云々と、自然的光明と預言的光明、
理性と啓示の区分に基づく聖書批判の要諦が簡潔に要約され、次いで信仰と哲学の
分離という「本書全体の主要目的」(130頁)が明かされ、「普遍的信仰の諸教義」
もしくは「聖書全体の精神となっている基礎的諸教理」が七箇条(神の存在、その
唯一性・遍在性、云々)にわたって開陳され(137-139頁)、最後に「哲学の目的
はひとへにただ真理のみであり、これに反して信仰の目的は…服従と敬虔以外の何
物でもない」「哲学は共通概念を基礎とし専ら自然からのみ導き出されねばならぬ
が、之と反対に信仰は、物語と言語を基礎とし専ら聖書と啓示とからのみ導き出さ
れねばならぬ」(142-143頁)と哲学と神学の違いが要約され、「故に、信仰は各
人に哲学する充分の自由を許容し、かくて人はすべてのことについてその欲するま
まに考え得るのであって、そうすることは少しも罪を犯すことにはならぬのである
」(143頁)と「神学」から「政治(国家)論」へ、「聖書の批判」から「言論(
哲学)の自由」へと橋渡しする。

 その「政治(国家)論」をめぐる最終章から「人々がスピノザの国家観を論ずる
場合好んで引用するところ」と訳注にある箇所を引用しておく。《敢えて言う、国
家の目的は人間を理性的存在者から動物或は自働機械にすることではなく、むしろ
反対に、人間の精神と身体が確実にその機能を果し、彼ら自身が自由に理性を使用
し、そして彼らが憎しみや怒りや詭計を以て争うことなく、又相互に悪意を抱き合
うことのないようにすることである。故に国家の目的は畢竟自由に存するのである。
》(下巻275頁)

 同じく最終章から。《故に余はここに…次のような結論をする。敬虔と宗教をた
だ隣人愛と公正の実行の中にのみ存せしめ、宗教的並びに世俗的事柄に関する最高
権力の権力をただ行為の上にのみ及ぼさしめ、その外は各人に対してその欲するこ
とを考え且つその考えることを言う権利を認めること、これほど国家の安全のため
に必要なことはないのである、と。》(下巻289頁)

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