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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.243 (2004/06/12)
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 □ 鈴村和成『金子光晴、ランボーと会う』
 □ 鈴村和成『ヴェネツィアでプルーストを読む』
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●866●鈴村和成『金子光晴、ランボーと会う──マレー・ジャワ紀行』
                           (弘文堂:2003.7.15)

 紀行文というのは散文表現の最高の形式ではないかと思うことがある。最高とい
う言い方が曖昧だとすれば、あらゆるジャンルの集大成とか最も高度な文章表現の
質が求められる云々と言い換えてもよいのだが、それだとますます着ぶくれして不
明瞭になってしまう。旅の記録というときの「旅」がそもそも五感の響き合いや身
体が描く空間的軌跡はもちろん、精神の遍歴や思考の履歴、観念の来歴といった時
間的なものを含めたあらゆる「経験」の比喩になりうるのだから、すべての散文は
そうした意味での旅の記録を綴った「紀行文」にほかならない。

 私が愛してやまない紀行文は、D・H・ロレンスの『海とサルデーニャ』と金子
光晴の『マレー蘭印紀行』の二冊。といっても『海とサルデーニャ』はいつの日か
訪れるはずのとっておきの時間のため読まずにとってある。『マレー蘭印紀行』は
読書の最高の愉しみ、つまり再読の時をできるだけ先延ばしするため常備している。

 その『マレー蘭印紀行』から「蝙蝠」と題された断章(バタビア旧港の夕暮れの
光景を「現在に対するノスタルジー」ともいうべき奇妙な懐旧の情をもって、まる
で写真を撮るように克明な細部の描写を駆使して幻想的かつリアルに綴った文章)
を引用して、著者は「紀行というより散文詩とも称すべき(その意味で芭蕉の紀行
文に匹敵する光晴一流の散文だ)件り」と形容する。

《現在が過去のほうへ落ちてゆく。懐かしさの感情のなかへ。おそらくここには嘱
目の光景をも「なつかしい」と見る、ふしぎなまなざしがはたらいているのだろう。
それは時間のなかを行き来する旅人のまなざしである。通過する人のまなざしであ
るから、現在が時々刻々、過去へ、過去へと落ちてゆくのだ。それはこのバタビア
の夕暮れの光景を、「旅へのいざなひ」のボードレールのように、未来のこととし
て透視するまなざしであると同時に、一瞬後には、現在を飛び越えて、現にいま眼
前で展開している光景を「なつかしい」ものに変えてしまう。》(242頁)

 すなわち紀行文とは詩である。「ランボーの詩を私は紀行文として読むようにな
った」(256頁)、そして「ランボーと並行して、日本の紀行詩人として金子光晴
が私の心に大きな比重を占めるようになった」(257頁)と著者は書いている。詩
人とは「時間のなかを行き来する旅人」である。詩は旅であり、旅は詩である。

《…古来、詩と旅は切っても切れない縁にあった。こうした旅の詩、あるいは紀行
文を読んで気づくことは、旅から詩が生まれたのか、詩から旅が生まれたのか、両
者の関係が錯綜し、容易に解きほぐしがたい、複雑な入れ子状の様相を呈している
ことだ。》(191-192頁)

 また紀行文とは「自伝」であり、そこには「現場の息吹」が吹き通う。そして詩
人とは「現場の人」「現在に直面した旅人」である。金子光晴の『マレー蘭印紀行
』はまさに現場で書かれた。

《現場で書かれた文章は細部から、断片から始まる。それは俯瞰ということ、要約
ということを知らないのだ。なぜなら現場では物事は刻一刻進行中で、それが何処
へ行き着くか、一寸先は闇の、手さぐりの状態にあるからだ。進行中の出来事に身
を浸している者の思考は、もっぱら体感的なもので、そのときどきの、断片的なも
のにならざるをえないのだった。/ところが、不思議なことに、こういう断片は、
途中でたち切られたような印象を与えるにもかかわらず、あるいはそれゆえに、そ
こで完結している、あるいは何処で終わってもいい、という印象を与えるのだ。/
中断されたところで、そのつど完結しているのだった。》(60頁)

《金子光晴の自伝的作品、『マレー蘭印紀行』、『どくろ杯』、『ねむれ巴里』、
『西ひがし』の四冊は、すべて紀行文である。金子光晴において自伝と紀行がクロ
スしていることは、ランボーのアフリカ書簡が自伝であり、紀行であることと重な
り合っている。/光晴の四冊の自伝的紀行文のなかでも『マレー蘭印紀行』は特殊
な位置を占める。それが他の追随を許さない紀行文学の傑作であるということは別
にして、それと関連することかもしれないが……(中略)……『マレー蘭印紀行』
が光晴の他の紀行文とことなる点は、それが現場で書かれた、ということだ。“現
場の魔力”というものが、『マレー蘭印紀行』のすみずみに強度のリアリティを吹
き込んでいて、このリアリティが紀行文の最大の魅力をなしている。/そしてそれ
はランボーのアラビア、アフリカ書簡に吹き通う現場の息吹と同じものだったので
ある。/そこには想像や記憶とは違う、別種の時間が流れている。ページのそこか
しこに、ステップを吹く風や、熱帯雨林を渡るスコール、熱い国に特有の人々の匂
いが立ち込める。/想像は未来のことを思い、記憶は過去のことを探るが、想像し
たり、思い出したりする人の“現在”というものは、括弧に入れられている。それ
は──多くの場合、書斎の椅子にあって──不問に保たれている。/現場の人はそ
うではない。アフリカや東南アジアで現場を歩む人は、到来するあらゆる困難な事
態にさらされている。けがや、疲労や、熱射病や、事故死や、トラブルや……。一
寸先は闇の“現在”に直面した旅人の歩み。次に何が起こるか分からない。“今”
の断面が刻一刻あらわになる。旅する人の歩みが、そもままページを踏む人の歩み
になる。/ランボーのアラビア、アフリカ書簡や光晴の『マレー蘭印紀行』のペー
ジから今なお伝わって来るこの現場の熱気に触れるためには、それを読む人も現場
に出かけるとよい。》(258-260頁)

 ──紀行文を紀行する、それ自体散文詩的断章と写真による「旅の時間の“現在
”の断片」(260頁)の集合体ともいえる刺激的な本書を読んで印象に残った言葉。
《ときどき、幸福ということは、熱いことではないかと考えることがある。ランボ
ーも、光晴も、南方の暑さが放射する幸福にとろけてしまったのではないか、と。
》(34頁)

●867●鈴村和成『ヴェネツィアでプルーストを読む』(集英社:2004.2.10)

 ミシェル・トゥルニエの『イデーの鏡』と同時に読んだ。これも美しい本だった。
──プルーストの『失われた時を求めて』は「旅のガイド」であり「水の本」であ
る。そこに「一貫して流れるヴェネツィアのテーマが、運河の水が街を覆うように、
全七篇の長篇を覆っている」(46頁)。

《しかし、より重要なことは、こうしたバルベック、ヴェネツィア、ドルドレヒト
の置換を可能にしている媒体が水というあいまいな、揺れ動く存在である、という
ことではないだろうか? 水がはたらきかけて、バルベックやヴェネツィアを一つ
の同じ像に変える。そもそもマルセルが夢見るバルベックは、海の水に洗われる嵐
のペルシア風の教会という、まさに水から姿を現わすヴィーナス、ならざる水から
姿を現わす教会のヴィジョンだったのである。/こうした教会、女性、水の結ばれ
た像は、バルベックのみならずヴェネツィアにも転移し、プルースト的な水に浮か
ぶ都市の景観をかたちづくる。》(193頁)

 ──昨年、鈴木道彦の『プルーストを読む』に魅せられて、再開への意欲をにわ
かにかきたてられた『失われた時…』はいまだに第四編「ソドムとゴモラ」の第三
章で中断したまま。第二部、第11挿話「セイレン」でフリーズした『ユリシーズ
』(や、第8巻で凍結されたままの『チェーホフ全集』)ともども、そろそろ始動
させよう。

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