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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.242 (2004/06/06)
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 □ 天童荒太『家族狩り』第一部〜第五部
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●861●天童荒太『幻世の祈り 家族狩り第一部』(新潮文庫:2004.2.1)
●862●天童荒太『遭難者の夢 家族狩り第二部』(新潮文庫:2004.3.1)
●863●天童荒太『贈られた手 家族狩り第三部』(新潮文庫:2004.4.1)
●864●天童荒太『巡礼者たち 家族狩り第四部』(新潮文庫:2004.5.1)
●865●天童荒太『まだ遠い光 家族狩り第五部』(新潮文庫:2004.6.1)

 この4月に文庫化された『少年とアフリカ』(坂本龍一との対談)が読みたくて、
その前に何か一冊、天童荒太の作品を読もうと思った。『永遠の仔』は買ったけれ
ど読まずに人にやってしまったし、TVドラマも観る気がしなかった。重苦しく救
いのない、後を引く話は苦手だ。かといってやがて訪れるだろうカタルシスや浄化
や希望や感動の結末を求めてひたすら物語の渦に巻き込まれていくのは嫌だ。そん
なのは単なる消費じゃないか。同じ消費ならたとえば『クムラン』や『ダ・ヴィン
チ・コード』のような神学ミステリーの方が好みに合っている。だから天童荒太は
これまで避けてきた。

 第一部を読み始めてすぐ予想通りの展開に嫌な感じがした。新潮社のウェブに「
現代に生きる私たちにとって家族とは何か、生きるとはどういうことか、根源的な
問いに真正面から挑む長篇小説です。2004年の最高傑作、そう断言いたします」と
か「作品を読み終えたあなたの眼には、きっと蒼穹が映るはずです」と書いてある。
「国内に、また世界に悲しみがあふれるいま届けるべき物語とは何か考え抜いた結
実です」という著者直筆メッセージが掲載されている。こういうのが苦手だったの
だ。

 でも天童荒太のストーリー・テリングは破格で、否応なしに物語の世界に引きず
り込まれてしまった。ただただストーリーの着地点を、というより作者が仕掛けた
解けない問いの帰趨を見極めたくて、頁を繰るのももどかしく先を急いだ。新生や
再生へ向けた未来への希望や癒しと赦しに満ちた大団円などで締めくくろうものな
ら、あるいはこの物語に結末はない、それは読者であるあなた自身の生き方に委ね
られている、たとえばそのような問いの投げ返しでお茶を濁そうものなら、必ずや
焚書の刑に処すべしと、費やした時間に見合う「意外な結末」を期待して一気に読
み急いだ。

 第五部を読了したいま──高校美術教師・巣藤浚介、児童相談センター心理職員
・氷崎游子、刑事・馬見原光毅の主要な三つの人物の魂の交錯の軌跡と山賀葉子や
大野甲太郎といった特異な人物の孤独の儀式(家族再生の儀式)、そしてそれらの
間に配置されたやや図式的で平面的な人物群の葛藤がそれぞれ十全に展開され溶け
あわされ劇的に深まっていったわけではなく、ただ流れすぎていっただけという印
象とともに物語世界から放り出されたいま、「まだ遠い光」というタイトルが示唆
する未解決の解決という「意外な結末」を前にして、それをとりあえずは感動とい
う出来合の言葉で呼ぶしかない爽快感あるいは解放感のようなものに浸っている。

 天童荒太はこの作品で二つの交換(反復強迫)を描いている。それは作中人物の
言動に託してたとえば次のように示される。

「あなたの、わたしにしてくれたことが、ホームレスの方のご親切から来てて……
そのホームレスの方も、女子高生に親切にされたことで、誰かにお返しをしたいと
思われたのなら……その女子高生もまた、どなたかから優しくされたことがあった
と思う? そして、その誰かも、別の誰かから優しくされたことがあって……どん
どん、さかのぼってゆくことができるものかしら(略)だとしたら……だとしたら
よ、さかのぼってゆく線のどこかに、わたしの子どもも、いた可能性はないかしら
? いま遠くにいるの。すぐには会えない子だけど、ずっと昔ね、大きな踏切で、
渡りきらないうちに遮断機の棒が下りて困ってたおばあさんを、あの子が手を引い
て、助けてあげたの。だから……」(第三部302頁)。

「わかるさ。人間てのが、そういう生きものなんだ。或る民族が、長いあいだ迫害
を受けて、大量虐殺って悲劇も経験した。結果、その民族が慈悲深くなったと思う
か? 違うね。別の民族を迫害するようになるんだ。それが現実さ。この世界は、
やられた奴が、誰かにやり返すシステムでできてる。あんたも、おれも、その一部
なんだよ」(第五部21頁)。

 あるいは次のように。「これまでとは違う失望を、夫に感じた。一方に、死者や
病人のことなど忘れ、いまを前向きに生きようとする懸命の世界がある。もう一方
に、死者や病人に寄り添い、喪失と恵みとを深く受け止めながら慎ましく生きよう
としている世界がある。/夫は前者の世界にいる。自分はできれば後者の世界に生
きたい」(第四部,230-231頁)。

 この後者の世界につながるものとして、たとえば「世界には、どうにもならない
悲劇がある。だが、それを踏まえた上で、なお美しいものを描きたかった」(第四
部191頁)という巣藤浚介(彼はピカソとルオーの二つのピエロの絵にちなんで生
徒から「ピエロ」と呼ばれていた:第三部231頁)の思いが述べられ、四国遍路の
「お接待」のように無償の相互行為の交換によって生きられる可能性や病院内地域
通貨の試みが(バングラデシュのグラミン銀行とともに)紹介される。

「皆さん、卓球でもバレーでも、自分のやり方があるし、途中で寝転んだり、ベッ
ドから出てこなかったりする人もいるでしょ。時間って実はひとつじゃないんだ、
人の数だけ存在するんだなぁって、わたし感心して見てたんです。だったら、外に
合わせた時間じゃなく、わたしたちの公約数的な時間を作って、そのなかで仕事を
するようにしてゆけばいいんじゃないでしょうか? こうした考えを理解してくれ
る人は、外の世界にも何パーセントかはいると思うんです。そうした方々と、物や
サービスの交換ができれば、これはこれでひとつの共同体だという気がするんです
」(第五部250頁)。

 だが家族再生を強いるテロリスト(「本当に命がけで、家族を愛してきたと答え
られるのなら、しっかりとそれをかたちで見せなければ、だめだ」:第一部76頁)
は必ずや再び平和な市民社会を撃つだろう。私たちの精神の根底に(白蟻のように
)巣くう暴力への契機、攻撃性が決して駆除できないこと、つまり解けない問い(
自らのうちに巣くう攻撃性の意味)を問うことがすなわち生きることであると逆説
的に証しするために。

「人間が思っている以上に、連中[白蟻]は利口です。集団で行動し、子孫を残す
ために、自分が犠牲になることもいとわない。黙々と働きつづけ、外から異常がわ
かったときには、もう内側はすべて食い尽くされているといった状態です」(第二
部268頁)。

 ──本書の最終部を私は柄谷行人の『ネーションと美学』に収められた「死とナ
ショナリズム」の最終節とほぼ同時に読み終えた。そこに出てきたヤスパースの「
形而上的責任」とフロイトの「超自我」の関係をめぐる議論が『家族狩り』の結末
と渾然一体のものとなって私の腑に落ちていった。そもそも「四つの交換」をめぐ
る柄谷の「資本=ネーション=ステート」の議論そのものが『家族狩り』のテーマ
と通底していたのだ。

 たとえば『家族狩り』に出てくるドールハウス(第四部81頁)としての家(家族
)は想像力(imagination)としてのネーションに対応している。柄谷の次の文章は
『家族狩り』の結末に託した天童荒太のメッセージ(白蟻とともに生きること)を
代弁している。

《一九九○年以降の自体はまだまだ最終的な段階ではありえない。今後において、
われわれは、今大げさに言っていることが「世界史的には」ほんの端緒にすぎない
と見えるような事態に直面するだろう。そして、人間社会の発展などというものが
まったくの幻想であることを思い知らされるかもしれない。だが、そうだとしても、
カント以後の二百年をふりかえるとき、私は、次のカントの言葉に賛同せざるをえ
ないのである。[以下、カント『啓蒙とは何か』から「人類は文化に関してたえず
進歩しつつある、そしてこの進歩はまた自然が人類に指示した目的でもある」云々
が引用される。]》(『ネーションと美学』116-117頁)

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