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■ 不連続な読書日記 ■ No.241 (2004/06/05)
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□ 小林秀雄『音楽について』
□ 養老孟司『いちばん大事なこと』
□ 黒田杏子『季語の記憶』
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●858●小林秀雄『音楽について』
(新潮CD・小林秀雄講演第六巻,新潮社:2004.1.20)埴谷雄高が『生命・宇宙・人類』で語っていたセルゲイ・ラフマニノフの前奏曲
嬰ハ短調を聴きたくて1925年から1942年にかけて録音された『ラフマニノフ・プレ
イズ・ラフマニノフ』という自作自演を収めたCDを買い求めたもののアナログ音
源が遠くで響く不鮮明でくぐもった音質にがっかりしたことがあった。だけど梵鐘
の響きはいつも遠くからやってくる(前奏曲嬰ハ短調は鐘の音を模したとされる)
ものなのだからあれはあれでよかったのだと後で思った。第一聴きたかったのはラ
フマニノフの音楽なのであって音響ではなかったのだから音質ごときでがっかりす
るなど勘違いも甚だしい。思い返せばクラシック音楽を聴き始めた中学生の頃はず
いぶんひどい音質でも充分愉しめた。「録音状態、保存状態ともに良好ではなく、また収録した演奏がSPレコードか
らの再現でもあることから、このCDには音質的に充分とはいえない面が多分に」
あるにもかかわらず「なによりも小林氏が聴いたと同じ音楽を、氏が聴いたと同質
の音で愉しむこと、さらにまた文字としては書き残されていない氏の音楽批評にふ
れること、このふたつの意義に鑑み、あえて」刊行されたこの「音楽談義」の中で
小林秀雄は音というものは独立した一つの存在・命でもしかしたら音は一つの意識
かもしれないと語っている。今の人たちは感覚的なものをバカにして頭がものをつくるように考えている。み
んな自分の意識から出発するからやれ原音がどうだ音響がどうだと音を従えようと
する。人間の精神というものは原音(フェノメーヌ)から超越してこれを秩序づけ
ている。そういう立場にある。もしも音のほうに意識があって僕がその意識の一部
だったならばどうして原音なんて言えますか。聴こえる音なんてどうでもいい。ベ
ートーヴェンは精神で音を聴いているんです。どっかの温泉場でもってラジオでショパンのマズルカが鳴ってきたとする。三小
節ぐらいで僕はあっショパンだとわかる。後はよく聞こえなくてもとっても楽しい
んです。感動をちゃあんと受ける。これは中から来ている感動ですよね。ちょっと
した音のきっかえさえあれば後は全部埋めることができる。この音のきっかけがな
きゃおそらくないね。これは不思議なことだ。全部聴いているわけじゃないけど聴
く以上のものはちゃんとある。僕にはハイドンを聴いた記憶がある。モーツアルト
を聴いた記憶もある。で今度はベートーヴェンを聴こうと思うからベートーヴェン
の音楽がちゃんと聴こえるんだ。これは歴史じゃないか。音楽というのは文学と同
じように伝統と長い歴史があってそれを追わなければ絶対理解できない。音楽とい
うものは歴史をしょった実に難解な意味なんだよ。音ではないんだよ絶対に。小林秀雄がいう歴史とは身体のことだ。身体とは感覚のことだ。知覚に物と物自
体の区別があり想起に過去と過去自体の区別があるように意識には精神と精神自体
や言葉と言葉自体や生と生自体の区別がある。そして感覚にはたとえば音(音響)
と音自体(音楽)や色と色自体の区別がある。小林秀雄の批評はこれらの区別の上
に立ち上がってくる(前田英樹はそれを「質的分割」と名づけた)。だから小林秀
雄の語りは小林秀雄という意識が自らを超過するものへと向かう運動性において音
楽と似てくる。茂木健一郎が『考える人』(2004年春号)に寄せた「小林秀雄の音楽」という文
章の中で次のように書いている。《思うに、小林秀雄の語り口には、根本的な点に
おいて音楽的なところがあるのではないか。小林の講演の中には、言葉がその生成
の現場において帯びる音楽の霊性がある。意味という抽象に着地する以前の言葉の
持つ生の躍動がある。「講演の旧約聖書」とも称すべき小林秀雄の語りは、本来、
音楽として聴くべきなのではないか?》──これは余談だが鳴門市に大塚国際美術館があって最近仕事の関係で二度ほど
訪れた。ここにはミケランジェロの祭壇壁画「最後の審判」や天井画が立体で再現
されたシスティーナホールをはじめ陶板の複製で古代から現代まで千余点の西洋絵
画が展示されている。最初はどうせ複製美術館だと高をくくっていたが一度館内に
足を入れて考えが変わった。絵を観るということは物としての美術品を見ることと
は違う。色と色自体とは違う。小さく白黒で印刷された図版からでさえ絵を観ると
いう経験は立ち上がってくる。まして大きさや色合いまで実物そのものに再現され
た複製品であれば絵画経験の「きっかけ」としては申し分ない。●859●養老孟司『いちばん大事なこと──養老教授の環境論』
(集英社新書:2003.11.19)解けない問題を立てることは凄いことだ。なぜなら問題とはシステムだからだ。
人間はまだシステムを理解できていない。要素に腑分けし要素を理解することがシ
ステムを理解することか。とんでもない話だ。(前田英樹が『小林秀雄』の冒頭で
巧みな料理人の肉の切り分けの比喩を使って小林秀雄の批評における「対象の質的
分割」を論じているのはこれと同じことだ。)自然はシステムだ。だから環境問題
はシステムの問題だ。子どもは自然だ。だから教育や少子化は環境問題なのだ。理
解できないシステムをコントロールすることなどできない。保護などできない。人
間にできるのは手入れすることだけだ。──システムを情報化する。つまり脳の外
にあるシステム(実体)を脳の中に入れる。脳の中に入れるとシュミレーションが
できる。シュミレーションとは「ああすれば、こうなる」ことである。《実体を情報化するには、ほとんど無限のやり方がある。情報は実体の一面にしか
すぎない。それが明確にわかっているなら、情報化には意味がある。/ふつうは「
一面では意味がない」と考えるであろう。そうではない。一面だけをとらえてシス
テムが「わかった」と思うのも誤りなら、「一面しかわからないからダメ」という
ものでもない。われわれがシステムの限られた面しかとらえることができないのは、
わかりきったことではないか。/だからたえず「情報の実体化」に戻る必要がある。
それが科学の本当の意味である。実体の情報化が自分でできるためには、五感のす
べてを使って、実体に触れる必要がある。》(186頁)●860●黒田杏子『季語の記憶』(白水社:2003.11.25)
歌枕はトポスだ。季語はコーラだ。著者は「季語は日本語の中の宝石」であると
言う。《季語には著作権がない。歳時記に収められているこのインデックスは、誰
でも、いつでも、何回でも自由に使うことが許される。歳月と日本人のこころによ
って使いこまれ、磨き抜かれた季語が珠玉の光を放つ言霊となって、庶民の生活を
活性化させてくれている。季語を知ることは、自分と母国語を知ること。季語を使
うことは深く自分を生きることなのだとの思いを深めてゆく。/この国には、たと
えば、花冷という二文字の宝石とともに、じっくりと年を重ねてゆける人生が誰の
前にも平等に開かれている。》(24頁)たとえば小林秀雄が『感想』の冒頭に書いた「或る童話的経験」に出てくる蛍(
母親が死んだ数日後にその年初めての螢を見て小林秀雄は「おっかさんは、今螢に
なっている」とふと思った)。「この闇のあな柔かに蛍かな」(高浜虚子)。《夜
更けに芝生の上を点滅している蛍に気づき、中庭を抜け、畑に出る。青葡萄を照ら
す蛍火は静謐で、この世のものとも思えない。点在する糸杉の丘。はるかかなたを
ゆく長い列車の窓の灯がひどく懐かしいものに思えた。》(イタリア・トスカーナ
州アレッツォ郊外)──「人界へさまよい出たる蛍かな」(灘帰一)。あるいは蝉。「聞くうちに蝉は頭蓋の内に居る」(篠原梵)。《大きな蝶がゆら
ゆらと過ぎたあと、弾丸のごとくよぎった蝉がどこかで啼きはじめた。たった一匹
のその蝉の声に島中の石という石が反響する。私の身体は立ったまま、離島の蝉し
ぐれの中に溶けだしてゆく。》(四国香川県の伊吹島)──「蝉声止んで意志なき
ものの気配する」(灘帰一)。〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
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