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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.240 (2004/05/30)
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 □ 前田英樹『セザンヌ 画家のメチエ』
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『絵画の二十世紀』の参考書として読んだ若干の文章からの抜粋。

◎メルロ=ポンティ「セザンヌの疑い(『意味と無意味』から)」
(中山元編訳『メルロ=ポンティ・コレクション』)

「生きられた事物は、五感のデータに基づいて再発見されたり、構成されたりする
のではなく、これらのデータを発散する中心として、一挙に自らを与える。わたし
たちは事物の奥行き、手触り、柔らかさ、堅さを見る。セザンヌは〈匂い〉を見る
とまで言っていた。画家が世界を表現しようとすると、色の配置がそのうちに、見
えないものの「全体」を蔵している必要がある。そうでないと、画家の絵は、事物
の暗示にすぎないものになり、差し迫った統一性、現前、乗り越えることのできな
い充溢(わたしたちにとって現実的なものの定義とは、まさにこれにある)を与え
ることができない。絵画に示された個々のタッチが、無限の条件を満たす必要があ
るのはそのためである。セザンヌが筆をおろす前の一時間もの間、瞑想することが
あったのはそのためである。ベルナールが語っているように、タッチが「大気、光、
オブジェ、平面、性格、デッサン、スタイルを含む」ものでなければならないから
である。実存するものを表現すること、それは無限の課題である。」(253頁)

「自然そのものからアニミズム的な交流をもたらす特性が奪われる。風景には風が
なく、アヌシー湖の水はそよともせず、物体は躊躇するかのように凝固したままで
ある──地球が誕生したばかりのように。これは馴染みのない世界、人間が楽しめ
ない世界であり、人間性を発揮することを禁じる世界である。セザンヌの絵を見て
から、他の画家の絵を見ると、くつろげる。葬儀のあとでふたたび会話が戻ってき
て、死という絶対的な新奇性を覆い隠し、生きていることの確かさを取り戻させる
ように。」(255頁)

◎篠原資明「芸術の交通論」(『トランスエステティーク』から)
(『間哲学』[http://mabusabi.at.infoseek.co.jp/sub1.htm])

「ジル・ドゥルーズがその絵画論『フランシス・ベーコン‐感覚の論理学』であざ
やかに示したとおり、絵画制作における眼と手との交通は、けっして一様のもので
はない。確かに、伝統的な具象画を成立させるのは、眼が手を支配し、手は相応の
技術をもって眼に奉仕するというタイプの交通だろう。しかし、眼と手とのこのヒ
エラルキーはそのままにして、手の役割が縮小され、眼が心の眼にまで昇格すると
いったタイプの交通も考えられるだろうし、逆に、手が眼の支配力を振り切ろうと
して、逃走を重ねるというタイプも考えられるだろう。ドゥルーズは前者の典型的
な例を抽象画に、後者の典型的な例を、ポロックやミショーなどの抽象表現主義・
アンフォルメルに見て取った。
 さらにドゥルーズは、また別の交通として、手が眼に内在するというタイプにも
注意を促す。触るように見るという、この視覚様態は、たとえば色彩の膨張・収縮
感、暖色・寒色の感覚として現われてくるものだ。ちなみにドゥルーズは、このタ
イプの交通を、特にセザンヌからベーコンにいたる、具象的イメージを捨て切れな
かった、ある種の系譜の画家たちに見て取ったのである。
 ここで重要なのは、眼と手との交通の類型学(タイポロジー)というよりは、む
しろ複数の交通が、視覚的なものとの間に過剰なものとして介入することである。
 絵画において視覚的なものは、触覚的なものと交通するばかりではない。たとえ
ば嗅覚的なものとの交通も考えることができるだろう。香りが、浮き立ち、漂い、
浸透するという存在様態をもつとすれば、まさにそのような色彩感覚も可能である
はずだ。事実、「匂う」という日本語は、古くは、そのような色彩感覚を指し示す
ものだったし、今世紀の画家、イヴ・クラインの実践も、ほかならぬそのような色
彩感覚を指し示すもののように思われる。
 イヴがはじめてブルーのモノクロミストとして自己措定したとき、ブルーの画面
は壁面から距離をとって宙に浮いているかのように展示されたのだし、その後の「
空虚」展でイヴは、会場外部の物質的なブルーからたっぷりとブルーの雰囲気を吸
い込んできた者たちを、からっぽの室内へ導き入れることで、非物質的で不可視の
ブルーを経験させようとしたのである。この場合、不可視のブルーは、まさに漂い
出すといってよいだろう。物質的で可視的なブルーを、こうして非物質的で不可視
のブルーとして漂わせたイヴは、今度はこの不可視のブルーが人体に浸透するさま
を、また別のシリーズで表わそうとする。そのスポンジ彫刻シリーズで、ブルーに
そまったスポンジは、そのような人体を象徴するものとされたのである。」
 

●857●前田英樹『セザンヌ 画家のメチエ』(青土社:2000.2.20)

「セザンヌにとって〈色〉の感覚は、他の一切の感覚を、それぞれが固有の感官に
振り分けられていくその道筋のままに統合する能力を持つ。少なくとも、色彩画家
とは、感覚について、自然からそのような能力を負わされた者だということを、セ
ザンヌは信じるに到った。絵の具の「色において」、完全に実現されたひとつの〈
風景〉には、鼻が受け取る匂いが、舌が受け取る味が、耳が受け取る音色やリズム
が、決して混合されることなく潜在する。それらの感覚対象が、一枚のタブローの
なかで互いに緊密に結び付くのは、感覚対象としての色の力を通してなのである。
」(98頁)

「現実化したあらゆる感覚対象と、それらを引き起こした共通の源泉とは、似てい
ない。身体の特定の場所に生じるひとつひとつの感覚対象には、それをそのものに
する何か唯一の性質があり、その性質は、生命の維持も、身体の有用な行動も本来
の目的にはしていない。これらの感覚対象は、何のためにあるのか。自然みずから
が、私たちにその諸々の本質を明かすためにある。種々の感覚対象とは、自然が私
たちの身体のさまざまな場所に作り出す、自然みずからの本質の表現にほかならな
い。
 しかし、私たちの身体に生じるこれらの〈表現〉は、ばらばらに、不安定に、相
互の脈絡なく与えられている。もし、画家というものが、〈色〉というひとつの感
覚対象について、自然から特別な能力もしくは任務を負わされているとすれば、そ
の任務とは、「色において」他のすべての感覚対象を関連づけ、それらに共通の「
同じ運動」に遡り、自然みずからが表現する複数の本質を私たちの眼の前に一挙に、
最終的に「実現」する、ということ以外にはないだろう。セザンヌは、深くそう信
じた。」(99頁)

「セザンヌは、感覚の画家であって、知覚の画家ではない。」(204頁)

「自然の〈色〉は、視点という条件を超えて、物それ自身の内側から、内側の深さ
から、一気に感覚されねばならない。なぜなら、〈色〉はそこからやって来るから
である。林檎やオレンジの〈色〉は、それらを固体化する力の奥深くからやって来
て、個体化する力や深さそのものを、画家に対して〈表現〉する。」(257-8頁)

「静物は、人の手に置かれ、それを遠ざかることによって、いったんは死んだもの
である。だが、死ぬことは、消滅することではない、存在のもうひとつの領域に入
り込むことである。この領域は、生の活動よりも深く、自然の生成さえもがこれに
依存せずには現われてこない。そうした領域が、私たちの生活の到るところで口を
開いている。多くの静物画家が、我知らず入り込んでいったところは、そこなのだ。
それを、シャルダン[ジャン・シメオン・シャルダン]は知っていた。それをシャ
ルダンが知っていたことを、セザンヌは知っていた。もちろん、この先輩よりもは
るかに強く、徹底して。
 実際、セザンヌは、徹底せざるを得なかったと言える。〈物が在る〉ことを信じ
る手立てのない、絵描きにとって悪夢のようなこの時代は、もうどれくらい続いた
か。彼は、そう考えるからだ。『玉葱のある静物』は、こうした時代のただなかで、
セザンヌがその感覚に蓄えられた洗いざらいのメチエをもって顕した物への信仰告
白である。」(261-262頁)

「自然は、〈色〉によるみずからの表現と同時に、画家をこの世に送り出した。セ
ザンヌにはそうした考え、あるいは画家としての信仰があり、この信仰は当然なが
ら誰にも明言を憚られる性質のものだっただろう。」(269頁)

「〈色〉は自然のなかに在る。しかし、それは自然が含む物質の一部分として在る
のではない、〈色〉という感覚対象には、質料的なものを脱して働くイデアルな何
かがある。その何かが、自然による表現作用となって現われるのは、特定の人間た
ちのなかだけである。」(286頁)

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