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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.239 (2004/05/30)
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 □ 前田英樹『絵画の二十世紀』
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●856●前田英樹『絵画の二十世紀 マチスからジャコメッティまで』
                       (NHKブックス:2004.4.25)

 ラスコーの壁画以来、絵画は何を表現してきたのか。そもそも絵画は何のために
在るのか。そして「写真ならざる絵画の面目」(29頁)とは何か。──前田英樹が
本書で与えた解は、絵画とは「生への礼賛の儀式」(58頁)であり、「質料[マチ
エール]をめぐるひとつの信仰」(218頁)もしくは絵の外に「〈在るもの〉への
信仰」こそが描くことを無限に再開させる理由(231頁)であるというものだった。
すなわち、「画家たちは、みなモーセである」(232頁)。

 自然は厚みと奥行きの連続を通して物の姿を現わす(114頁)。このことをセザ
ンヌは「自然を円筒、球、円錐で処理せよ」と語った(エミール・ベルナールの記
録)。自然(在るもの)は、知覚や知覚から出発した知性(231頁)といった頭脳
的なもの、幾何学的なものによっては把握できない。眼に見える物体が見える通り
のものでないということ(12頁)。この写真という知覚機械(14頁)がもたらした
認識論的眩暈、いや存在論的動揺に対して、セザンヌは「感覚の絵画」を対置する。

 それは「視覚の無意識」(ベンヤミン)もしくは肉眼を超えた実在[レアリテ]
の方へ──メルロ=ポンティが「世界の肉」と表現し、あるいは前田英樹が「物の
厚み」や「奥行き」、「森の奥で動いている生」(118頁)や「歴史の無意識」(
149頁)といった言葉で形容するもの、端的に言えば「質料[マチエール]」を通
じて──到達しようとする試みであった。

「セザンヌは、感覚の役割をとほうもなく大きなところに置いた。色、味、匂いが
私たちの身体に流入して響き合い、ひとつのものになる。そのものとは何か。セザ
ンヌはそれを、自然が身体のうちに表現する自然みずからの〈本質〉だと見なした。
感覚は、自然がみずからの本質を私たちの身体のなかに表現するための通路である。
表現された〈本質〉は、身体の全域に流れて積み重なる、それは無意識の記憶にな
る。」(42頁)

「自然は、ただ人間に生きることを求めているだけではない。自然みずからが、そ
の本質を人間に明かそうとしているのでないなら、なぜ自然は知覚と感覚との間の
これほどの乖離を、人間に与えるだろうか。人間に向かって明かしたい本質が自然
にはある。もしくは、それを明かそうとする意図が、自然にはある。芸術家の感覚
は、その意図の最も近くにあって、それを人間たちに伝える使命を負った機能にほ
かならない。」(43頁)

 小林秀雄は「セザンヌ」(『近代繪畫』)で、「セザンヌにとって面を構成する
とは、計量の楽しみでも、任意な発明をする喜びでもなかった。自然に関する新し
い形の信仰告白であった」(新潮社『小林秀雄全集第十一巻』320-321頁)と書い
た。このセザンヌの章について、前田英樹はかつて次のように述べた。

「『近代絵画』のなかの数十ページのセザンヌの章は、小林の全ゴッホ論に匹敵す
る重みを持っている。小林にとっては、セザンヌとゴッホとは、「自然」という強
いられた問いの所与を、厳密な問題へと創り直し、いかなる教養とも無縁な一種の
「宗教画」によってその問題に回答するという点で、極めて強い類縁性を持つ。」
(『小林秀雄』128頁)

 小林秀雄を思わせる文体──たとえば「結果として現われたモネの絵が、どんな
に美しかろうと、絵画史始まって以来のこの壮絶なリアリストは、美しい絵という
ような中途半端な観念に少しも惑わされたことはなかった」(30頁)──そしてジ
ル・ドゥルーズを彷彿とさせる概念分割の手捌きをもって綴られた『絵画の二十世
紀』は、ピカソの章で終わった小林秀雄の『近代絵画』(ボードレール、モネ、セ
ザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、ルノワール、ドガ、そしてピカソの八編のエッセイか
らなる)の続編である。

 本書で取りあげられたピカソ以外の「セザンヌ息子たち」、すなわちマチス、ジ
ャコメッティ、ルオーのうちとりわけルオーの「魂」(人のなかにあって〈質料的
なもの〉の中心点を作っているもの[222頁])をめぐる考察が、渦巻状に厚塗り
されていく本書の叙述の中心点であり、書物(反省的言語)の外に〈在るもの〉へ
の通路もしくは「この世の外の光源」(218頁)を指し示す特異点である。

「ルオーは、道化師のその魂を描く。が、そのためには、彼の金箔衣装は、別のも
のに作り変えられなくてはならないだろう。見えない、感覚されない魂を描く方法
はない。画家にとって、魂とは色と奥行きを持った質料[マテリアル]の渦であり、
それは感覚される。感覚する能力を自分は自分の「欠点」として、「苦痛の淵」と
して負わされているのだと、ルオーはいっている。やがて、彼は、道化師が持つ「
魂」の色と奥行きとを描き始める。金箔衣装は消え、緑、白、赤、黒が積み重ねら
れた、語り難い深さを湛えた衣装が顕われる。これは道化の衣装でも肉体でもない、
やはり魂の色なのだと、画家は言っているようである。」(222頁)

 あるいは本書は、小林秀雄の未完のベルクソン論『感想』の前田英樹による仕上
げ、もしくは三部作『近代絵画』『感想』『本居宣長』の別ヴァージョンである。
──以下、若干の補遺。

◎保坂和志が本書の推薦文を書いている。「写メールやデジカメなど、視覚を記録
する機械はどんどん進化しているけれど、私たちは撮るだけで見ていない。機械は
〈見る〉ことを妨げ、私たちは〈経験〉として蓄積されない平板な時間を生きるこ
とになる。前田さんは、画家の感覚と思考に分け入り、〈見る〉とは世界が語りか
けてくるものに向かって、自分を開くことなのだと教えてくれる。見えないものま
で見ること、それが本当に〈見る〉なのだ。本書によって、世界の、人間の、物の、
別の次元が開かれたと思う。」

◎小林秀雄「セザンヌ」(『近代繪畫』)から。──「セザンヌは、自然というと
ころを感覚と言ってもよかったのである。或は、感動とか魂とか言ってもよかった
であろう。」(339頁)

◎前田英樹『小林秀雄』から。──「小林秀雄は、ジル・ドゥルーズの『ベルクソ
ンの哲学』を読んでいた。」(195頁)

◎あるインタビューでの前田英樹の発言(文藝別冊『小林秀雄 はじめての/来る
べき読者のために』)。──「『感想』は宣長論のプレリュードです。『近代絵画
』と『本居宣長』をつなぐブリッジでもある。」「僕なりの要約を許してもらえれ
ば、『近代絵画』、『感想』、『本居宣長』の三作に共通しているのは、〈在るも
の〉とは何かという問題ですね。」(69頁)

◎池田晶子は『新・考えるヒント』で、小林秀雄の『感想』について次のように書
いている。「ベルグソン論としてのあの作品が失敗に終わったのは、直接経験…を、
反省的言語で語ろうとしたからだ。」(22頁)

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