〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 ■ 不連続な読書日記                ■ No.234 (2004/05/07)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 □ ヒュー・ブロディ『エデンの彼方』
 □ 岡本太郎『迷宮の人生』
 □ 蓮見重彦『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』
 □ 大塚英志『「おたく」の精神史』
 □ 高橋源一郎他編『吉本隆明代表詩選』
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 

●831●ヒュー・ブロディ『エデンの彼方──狩猟採集民・農耕民・人類の歴史』
                      (池央耿訳,草思社:2004.1.5)

 エデンの園を追放されたのは(牧畜)農耕民であった。農民、そしてその末裔で
ある21世紀の企業家たちは、征服(効率的利用)すべき土地を求めて離散と流離を
繰り返す。しかし、「イヌイットの子供たちは流離の呪いを負って育ちはしない」。
「狩猟採集民の秩序は今いるところがすでにしてエデンの園であるという確信の上
に成り立っている。」(90頁)

 人類学者・記録映画作家の著者は本書で、狩猟採集民こそが定住者であることを
明らかにする。その上で、放浪生活を常態とする農耕文化が狩猟文化にもたらした
もの、血も凍る厄災の数々を叙述していく。「人として生きる道」(67頁)──た
とえば子供と古老を大切にすること(35頁,130-131頁)──や「人間と人間以外
のものを隔てる多孔性の壁」(248頁,236頁)をもったシャーマン信仰の「教育」
の名による破壊(170頁他)、家畜から人間に伝染する感染症(156頁)、栽培植物
や家畜の乳から醸造されるアルコール(243頁)、大量殺戮、そして何よりも土地
(自然)と歴史(言葉)の収奪。「狩猟採集民の世界認識は、大方、彼らの言葉と
ともに忘却された。これによって、極めて特異で豊かな歴史の一部が失われたので
ある。」(296頁)

 だが、本書はたんなる告発や鎮魂の書ではない。著者は「都会の狩猟採集民」
(293頁)──エデンの園を追われて農耕民が築いた都市社会にあって、「究極の
自由を享受したいという万人の願望」(294頁)を担う狩猟採集民の文化(物の見
方、信仰、習慣)を体現する対抗者──への肯定的言及をもって本書を終えている。
「狩猟採集民の天分は、進んで他人から学び、人のために働くのを厭わないことば
かりではない。何よりも彼らの文化を特徴づけているのは、資源とその利用の均衡、
すなわち、直観と詳細な知識から結論を引き出し、敬愛に結ばれた人間関係に身を
委ねることである。」(292頁)

●832●岡本太郎『迷宮の人生』(アートン:2004.2.29)

 ソルボンヌでマルセル・モースの直弟子として学び、ジョルジュ・バタイユの「
神聖社会学研究会」のメンバーであった岡本太郎。《迷宮は、冥界、瞑府の表象だ
といわれる。そして迷宮の出口から出てゆくことは、新しく生まれること、再生、
よみがえるだといわれる。/ちがうのだ。迷宮は現世なのである。「死」という影
で「生」に強烈な彩りを添えるナマの世界なのである。》(102頁)

●833●蓮見重彦『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』(青土社:2004.4.2)

 「運動」について語る言葉の「反=運動」性の批判なしに二一世紀に足を踏み入
れてはならない(「あとがき」)。──すぐれた中田英寿論ともいえる表題作のな
かで、蓮見重彦は、人類は「運動」が好きではないと書いている。

《流れ過ぎゆく一日のなかで、自分ははたして「醜さ」を排し、「美しさ」の顕在
化に加担しえたかということを、人々はあまり考えなくなってしまっている。これ
は、人々が美学的な趣味の判断を忘れたからではなく、ごく端的に「生きる」こと
を忘れ始めていることからきています。そのとき、生はその軌跡にあっさり還元さ
れ、運動はいたるところで放擲される。理由は、すでに指摘したように、人類は「
運動」が好きではないからです。》(17頁)

《例えばスピノザは「運動」を止めるものは悪だと言っていますし、またベルクソ
ンは動きを止めることを滑稽だと言っています。そしてこの両者を繋ぐドゥルーズ
の哲学を考えてみてもよいのですが、この醜さや滑稽さに人々が無感覚になってい
る時代にわれわれはどうすればよいのでしょうか。》(19頁)

《今という動きを人々が肌で感じているのであれば、──その感じ方こそが「知性
」というものなのですが──、今という時代がどう動いているか判断できるはずで
す。そのためにも、「運動」が嫌いな人類にさからって、スポーツを見なければな
らない。「運動」にふさわしくスポーツを見なければなりません。/それでは、何
がスポーツを面白くさせるか。あるいは、何が「運動」を「美しさ」へと変化させ
るのでしょうか。それは、潜在的なものが顕在化する一瞬に立ち会い、その予期せ
ぬ変化を誰もが自分の肌で感じるということなのです。》(20頁)

《日本では、スポーツに関する新聞もテレビの報道は、「運動」を抑圧するものと
して機能しています。これは、ジャーナリズムとして問題を含んでいるというにと
どまらず、人間の生命に対する侮蔑としか思えません。彼らは決まって「運動」を
抑圧しようとする。つまり、「反=動的」なのです。》(38頁)

《スポーツ批評の場合、スポーツをめぐってこれだけ「運動」が奪われた言説しか
流通していない社会は、やはり悪い社会なのです。…社会そのものを変えようとす
る意志は私にはありません。悪い社会にそれなりの抵抗をしてみようとしているだ
けです。それが有効かどうかは、私のあずかり知らないところですが、ある種の流
れに逆行して、変化を導入してみる必要があると思っただけです。実際、そのため、
スポーツが「美しい」運動だということの原点に立ち返る必要がある。「想像力」
と「知性」とが矛盾なく一つになった運動は、美しいというほかありません。…い
ま、国をあげて、運動する「知性」が求められている。》(40頁)

●834●大塚英志『「おたく」の精神史──一九八○年代論』
                       (講談社現代新書:2004.2.20)

 八○年代を一つの隘路として描くこと(「あとがき」)。──一つの象徴的な写
真がある。だらしなく敷かれたままの布団と、枕元に配置された一冊のエロ本(『
若奥様の生下着』)。数千本のビデオが積み重ねられた宮崎勤の部屋の写真である。
だが、この写真の構図(あまりに古典的な性のあり方)は、カメラマンの一人によ
って配置し直された可能性がある。「八十年代という時代は、布団とエロ本という
構図が象徴するような、古典的な性意識が解体していく時代であった」(75-76頁)。
それでは、古典的な性意識(エロ本的な性意識)の解体は何をもたらしたか。「男
たちの性意識の女性の身体からの逃走」と「女性が自己表現として自らの性的身体
をメディアにさらけ出す、という事態」がそれである(88頁)。「八○年代という
隘路」をめぐる大塚英志の記述は、ここから始まる。──「おたく」という語が中
森明夫によって現在の意味で初めて用いられた八三年は、小林秀雄と寺山修司の没
年である。

●835●高橋源一郎・瀬尾育生・三浦雅士編『吉本隆明代表詩選』
                           (思潮社:2004.4.25)

 何十年ぶりかで「固有時との対話」を読んだ。〈神は何処へいつた こんな真昼
間〉。──編者による討議のなかで高橋が「小林秀雄は詩を書かず、中原中也は詩
に専念する。そこにある種のバランスができたわけですね。そういう分担が戦後は
難しくなった。誰かに批評をやってもらい、おれは詩を書くということではすまな
くなった。戦後の詩はどこかにかならず批評の部分をもっています」(196頁)と
語り、三浦が「吉本さんは、自分のなかにもっていた小林秀雄と中原中也のうち、
中也のほうを圧殺してしまった」(207頁)と応じている。

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 ■ メールマガジン「不連続な読書日記」/不定期刊
 ■ 発 行 者:中原紀生〔norio-n@sanynet.ne.jp〕
 ■ 配信先の変更、配信の中止/バックナンバー
       : http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html
 ■ 関連HP: http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
 ■ このメールマガジンは、インターネットの本屋さん『まぐまぐ』 を利用し
  て発行しています。http://www.mag2.com/ (マガジンID: 0000046266)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓