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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.231 (2004/05/04)
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 □ 村上春樹『雨天炎天』
 □ 村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』
 □ 河合隼雄『ケルト巡り』
 □ 白洲正子『遊鬼』
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黄金週間も半ばをすぎて、雨に塗り込められた一日をぼーぜんと過ごしています。
今年の連休は、中日に法事があったり、ちょっとした用事で仕事場に顔を出さなけ
ればならなかったりで、あてどなく、とりとめもなく、淡々と、でも超スピードで
過ぎていきます。

なにかまとまったもの(たとえば読みかけのままの白井喬二作『富士に立つ影』な
ど)を読むつもりだったのに、妙に「薄い文庫本」が気になって、たとえば法事へ
の小旅行の道連れにもっていった『遊鬼』と『もし僕らの言葉がウィスキーであっ
たなら』が、とても気持ちよく心に染み入ってきて、およそ共通点のない白洲正子
と村上春樹の文章が渾然と一つに融合していく。

かたや一度は泊まってみたかった「龍神の宿」(『遊鬼』)、かたや憧れの地・ア
イルランド紀行(『ウィスキー』)と、ずうっとくすぶっていた旅心を刺激される
文章に接したからかもしれません。

あるいは、かたや買ってみなければ解らない骨董やつきあってみなければ解らない
人物、かたや行ってみなければわからない辺境の地や飲んでみなければわからない
ウィスキーをめぐる「感覚の文章」(などという言い方があるのかどうか知らない
が)がもたらすある質によるのかもしれない。──ここでどうしても『ウィスキー
』の「前書きのようなものとして」の末尾の一文を引用しておきたい。

《しかし残念ながら、僕らはことばがことばであり、ことばでしかない世界に住ん
でいる。僕らはすべてのものごとを、何かべつの素面のものに置き換えて語り、そ
の限定性の中で生きていくしかない。でも例外的に、ほんのわずかな幸福な瞬間に、
僕らのことばはほんとうにウィスキーになることがある。そして僕らは──少なく
とも僕はということだけれど──いつもそのような瞬間を夢見て生きているのだ。
もし僕らのことばがウィスキーであったなら、と。》

もしかすると、この二人は心のずっと奥深く、もしくは心の辺境(リンボ)、身体
とのインターフェイスあたりでつながっているのかもしれない。河合隼雄の対話集
『こころの声を聴く』に、『いまなぜ青山二郎なのか』をめぐる白洲正子との対談
「魂には形がある」、『ねじまき鳥クロニクル』(第二部まで)をめぐる村上春樹
との対談「現代の物語とは何か」が収められている。このあたりにヒントがありは
しまいかと思うが、これはたんなる偶然かもしれない。でも、世の中に「偶然」な
どはないのであって…。

保坂和志と村上春樹のあやしい関係(このことは前号の末尾で匂わせた)に続く、
白洲正子と村上春樹のありえない関係。このことを考えるうえで(たんなる思いつ
き、というか妄想にすぎないので、ことさら考えてみるほどのことはないのだろう
が)、いま読んでいる前田英樹さんの『絵画の二十世紀』からとても有益なヒント
が得られました。

それはベルクソンが『物質と記憶』で論証した「知覚と感覚との性質の差異」をめ
ぐるもので、思考や文章がいかに身体(=感覚)に根ざしたものであるか、村上春
樹の言葉でいえば「人の心のなかにしか残らないもの」「そのときには気づかなく
ても、あとでそれと知ることになるもの」に根ざしているかにかかわる。

ここから先は、もっともっと蒸留させて、いつかまた別の機会に書くことにしよう。
ここではただ、保坂和志が『絵画の二十世紀』に推薦文を寄せていることと、前田
英樹の文章がしばしば小林秀雄を彷彿させたことを、書き記しておきます。(村上
春樹と保坂和志と小林秀雄の時空を超えた荒唐無稽な関係?)
 

●821●村上春樹『雨天炎天―─ギリシャ・トルコ辺境紀行』(新潮文庫)

 村上春樹のエッセイはほとんど読まない。というより、読めない。(なぜかとい
うと、…なぜだろう。)それでも、旅行記は読む。なかでも、新潮文庫版の『雨天
炎天』は好きな作品。松村映三の写真もいい。なにしろ薄いのがいい。(講談社文
庫の『遠い太鼓』も気に入っているが、分厚い。)

 ──村上春樹は「アトス──神様のリアル・ワールド」で、ギリシア正教の修道
院での真夜中の礼拝を「覗き見」したときの体験をこう記している。《僕は宗教全
般についてそれほど多くの知識を持つ人間ではない。でも個人的な感想を述べるな
ら、ギリシャ正教という宗教にはどことなくセオリーを越えた東方的な凄味が感じ
られる場合があるような気がする。[略]そこにはたしかに、僕らの理性では捌き
きれない力学が存在しているように感じられる。ヨーロッパと小アジアが歴史の根
本で折れ合ったような、根源的なダイナミズム。それは形而上的な世界観というよ
りは、もっと神秘的な土俗的な肉体性を備えているように感じられる。もっとつっ
こんで言えば、キリストという謎に満ちた人間の小アジア的不気味さをもっともダ
イレクトに受け継いでいるのがギリシャ正教ではないかとさえ思う。》(51頁)

●822●村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(新潮文庫)

 旅とは空間の移動、身体の運動ではない。旅は身体そのもの、感覚そのものの体
験である。それはあたかも音楽が時間の旅であることとパラレルだ。村上春樹がシ
ングル・モルトのテイストをたとえばグレン・グ−ルドやピーター・ゼルキンの『
ゴルトベルク変奏曲』に(38頁)、あるいはシューベルトの長い室内楽に(58頁)、
ジョニー・グリフィンやジョン・コルトレーンの入ったセロニアス・モンクのカル
テットに(62頁)たとえているのは、ウィスキーを飲むこともまたそういう意味で
の、つまり感覚の体験としての旅であることからくる。

 スコットランドとアイルランドへの二週間ばかりの旅の記録二編(「アイラ島。
シングル・モルトの聖地巡礼」「タラモア・デューはロスクレアのパブで、その老
人によってどのように飲まれていたか?」)と陽子夫人による数葉の写真(これが
いい)で構成された本書の「あとがきにかえて」で、村上春樹が「うまい酒は旅を
しない」という言葉を引用し、次の文章で最後を結んでいるのも、そういうことを
言っているのだと思う。

《旅行というのはいいものだな、とそういうときにあらためて思う。人の心の中に
しか残らないもの、だからこそ何よりも貴重なものを、旅は僕らに与えてくれる。
そのときには気づかなくても、あとでそれと知ることになるものを。もしそうでな
かったら、いったい誰が旅行なんかするだろう?》

 ──前田英樹が『絵画の二十世紀』で次のように書いている。ベルクソンによる
と知覚の対象は身体の外に在るが、感覚の対象は身体のなかに在る。言い換えれば、
感覚の対象は身体それ自身である。私がコーヒーの匂いを嗅ぐとき、「私が感じて
いるものは、コーヒーの香りであると同時に私自身の身体である」(39頁)。「私
の身体はコーヒーの香りに満たされ、香りの感覚そのものとなってそこに在る」(
39頁)。

●823●河合隼雄『ケルト巡り』(NHK出版:2004.1.30)

 ケルトと司馬遼太郎(『愛蘭土紀行』)。ケルトと松本清張(『松本清張のケル
ト紀行』)。そして、ケルトと河合隼雄。三者のうちでもっともケルト的なものと
の親和性が強い。それだけに読まなくても中身が分かりそうなものだと思って読ん
でみたら、案の定、読まなくても分かることしか書かれていない。

 たとえば「母性を象徴する渦巻き模様」と「ケルト文明が母性原理に裏打ちされ
ていたこと」との関係とか「グルグルと回るケルト文様と輪廻転生の関係」(70頁
)。村上春樹やよしもとばななの著作が「普遍性を持つ現代のおはなしであり、い
わゆる近代的自我を中心にして書かれたものではない」こと、「この二人は無意識
的なところに入り込んでいく力を持ち、しかもそれを物語にする力を持っているこ
と」(204-205頁)。ケルトには文字はないが音楽は残ったこと、音で伝えた方が
よく伝わること、「『源氏物語』を代表とする日本の物語文学には、壁の向こうか
ら笛の音が聞こえてくる、などといったシーンがよく描かれる。塀ごしに音が聞こ
えてきたりする。それで心が伝わる。それは世界中にある話でもある」こと(205-
206頁)。エトセトラ。エトセトラ。

 そもそも河合隼雄という人は何者なのだろう。怪物だとしか言いようがない。な
んでも呑みこんでしまう怪物。生きている無意識。狐につままれたような本だ。

●824●白洲正子『遊鬼──わが師 わが友』(新潮文庫:1998.7.1/1989)

 先日、仕事で倉敷に出かけて久しぶりに美観地区を歩き、前々から贔屓にしてい
るマスカット・ワインを買って、何十年ぶりかで大原美術館を訪れたらもう閉館の
時間になっていてのでミュージアムショップに足を運び、すでに絶版になっている
らしい新潮文庫版の小林秀雄『近代絵画』がもしかしたら置いてないかと探したけ
れど見つからず、記念に一冊、白洲正子の『遊鬼』を買って、この連休、岡山の美
星町の親戚の法事に出かけた電車のなかで読んだ。

 「美なんていうものは、狐つきみないたものだ。空中をふわふわ浮いている夢に
すぎない。ただ、美しいものがあるだけだ」という青山二郎の言葉や「だいたい結
論なんてものは書いてみなくてはわからない筈で、わかっているものは書く必要が
ない、ということを私は小林[秀雄]さんから教えられた」といった文章が出てく
る(『いまなぜ青山二郎なのか』につながる)第T部もよかったし、あたかも一編
の幻想譚のような「龍神の宿」が収められた第U部もいい。

 鴎外の「百物語」に登場する希代の「遊鬼」鹿島清兵衛とぽん太の数奇な人生を
素材にした表題作や、小林秀雄が「判るか。梅原さんは、行住坐臥、描いてるんだ。
筆を持たなくたっても、描いているんだ。常に描いているから勘違いもする。……
だいたい、梅原さんの言葉は、もう言葉でない。絵なんだ。言葉が絵なんだ」と語
る梅原龍三郎を描いた「北京の空は裂けたか」といったすごい文章が出てくる第V
部もいいし、第W部の「白洲次郎のこと」の乾いた筆致も心に残った。

 とにかくすべていい。シングル・モルト・ウィスキーのアロマのように、ただた
だ味わうしかない。文藝という語彙はこの人の文章のためにあるのではないか。

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