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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.229 (2004/05/02)
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 □ 杉本秀太郎『古典を読む 徒然草』
 □ 青山二郎『骨董鑑定眼』
 □ 白洲正子ほか『白洲正子 “ほんもの”の生活』
 □ 白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』
 □ 小林秀雄講演『現代思想について』
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●813●杉本秀太郎『古典を読む 徒然草』
             (同時代ライブラリー,岩波書店:1996.1.17/1987)

 ずいぶん前からなにか古典を一つ読み込んでみたいと思っていた。(いってみれ
ば、枕頭の書づくり。)源氏物語はこれまで何度も試みてきたけれど、いまだ「須
磨帰り」すら果たしていない。宇津保物語、平家物語、謡曲集、説教節、古浄瑠璃、
近松門左衛門等々、候補は数々あれど、なかなか一つに決められない。そうこうし
ているうちに、ふと『徒然草』の名が浮かんできた。この243の章段からなる片
々たる随筆集の「右に出るものは、過去六百年のあいだに、ついに一冊も見出され
なかった」。ここまで言われると、もう読むしかない。ちょうど佐藤春夫の現代語
訳が文庫本で出たばかりだし。

 ──白洲正子の『いまなぜ青山二郎なのか』に『徒然草』の一節「よき細工は少
し鈍き刀を使ふといふ」をめぐる文章が出てくる。著者はそれまで「鈍き刀」の意
味を「その言葉通りに受けとって、あまり切れすぎる刀では美しいものは造れない
という風に解していた」。ところが未知の読者から頂いた手紙によって、それでは
考えが浅いことを知らされた。「その手紙の主がいうには、鈍刀といっても、はじ
めから切れ味の悪い刀では話にならない。総じて刀というものはよく切れるに越し
たことはないのである。その鋭い刃を何十年も研いで研いで研ぎぬいて、刃が極端
に薄くなり、もはや用に立たなくなった頃、はじめてその真価が発揮される。兼好
法師はそのことを「鈍き刀」と称した」のだ(130頁)。この話題が出てくるきっ
かけとなった青山二郎の言葉を抜き書きしておく。

《日本ぢゃテクニックが九十まで生きるものから生れて来るんです。さういふこと
は日本の非常に罪深いものだと思ふね。近松でも何でもさうなんだ。その前に精神
といふのは要らないんですよ。九十年も研いで研いで研ぎ挙げると、その小刀に精
神が出て来るんですよ。さういふものなんだよ、日本の精神といふのは。》

●814●青山二郎『骨董鑑定眼』(ランティエ叢書,角川春樹事務所:1998.11.18)

「人が覗たれば蛙に化れ」(「陶経」)
「…音楽を語る、美術を語る、歴史を語るのは小林の文学である。文学的色あいで
なく、それを文学として正確に意識したものが小林の美術論である。彼が文章とし
て美術品自体を語りたがらないのも、言葉に依る写生の単なる如実性を嫌うからで、
それは「見るより為方がない」と普段言っている──これも文学者としての美術に
対する正確な態度である。」(「小林秀雄と三十年」)

●815●白洲正子・青柳恵介・赤瀬川原平・前登志夫他
     『白洲正子 “ほんもの”の生活』(とんぼの本,新潮社:2001.10.10)

「小林秀雄さんや青山さんたちの骨董を通じての付き合いは、昔のお茶の世界に似
ていたのではないかと思いますよ。彼らは骨董を見ることを通じて、利休の始めた
お茶の精神を知っていました。利休は、まさに斬ったはったの戦国の世に、お茶を
始めたわけでしょ。骨董を介した彼らの付き合いは、時代は遠く離れていても戦国
武将と同じ凄みがありました。そういう意味で、新しい茶道だったと言ってもいい
くらい。」

●816●白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』(新潮文庫:1999.3.1/1991)

 人物批評(という文芸ジャンルがあるのかどうか知らないが)は実に面白い。青
山二郎とは何者か。「何者でもないところが青山二郎という人物なのだろう」(洲
之内徹)。「青山二郎は、百万人に一人の閑人となるべくひそかに鍛錬を重ねてい
た」(白洲,65頁)。「モオツァルトには音楽があり、小林秀雄には文学があった
が、何もしない青山二郎には、目的を持たぬ人生の歩きっぷりが裸のままで現れて
いた。『モオツァルト』を書きながら小林さんは、青山二郎を想っていたに違いな
い」(白洲,68-69頁)。「青山二郎の「生活」とは、時間と鑑識眼と抜群の趣味
によって創造された一つの境地、──もしかすると、此世では実現することの不可
能な、「浄土」のような別世界を表徴していたのではなかろうか」(白洲,160頁)。
評するも人、評さるるも人。

 青山二郎がある時「松八重[京都の同名のお茶屋のおかみさん]が一流の唐津な
ら、おそめのマダムは織部の傑作だ」と木屋町のバァのマダムを評した。白洲正子
いわく。「骨董好きなら、そのひと言で彼らの魅力のすべてがわかるだろう。日本
の焼きものほど人間というものをよく表現しているものはない」(134頁)。──
陶器であれ、文学であれ、人間であれ、ものが見えるとはそもどういうことか。目
利きとは何か。こうした事柄にこれまでシニカルな態度をとるしかなかったのは、
白洲正子や青山二郎(や小林秀雄)にとっての文章が、私がこれまで思いもつかな
かったものであったことと同根だ。

《四六時中溌剌と生きて、生活の隅々まで浸透していなければ、思想とは認められ
ないというのが彼ら[青山二郎と小林秀雄]の思想であった。贅沢な暮しをしてい
ながら、マルクスを論ずることなど、もっとも軽蔑すべき生活態度だったに違いな
い。》(31頁)
《文章というのはおかしなもので、自分で書く場合はむろんのこと、人のを写して
も、ただ漫然と読むのより理解できるのである。私の頭がにぶいのかも知れないが、
昔の人たちは肉筆で書写することによって、文章の裏側にあるものまで読みとった
のではあるまいか。》(63頁)

《美とは魂の純度の探求である。》(「青山二郎の日記」,182頁)
《解るとは、ドストエフスキイを読んでドストエフスキイになる事だ。》
《一度茶碗を愛したら、その茶碗は自分にとける。一度梅原[龍三郎]を見たら、
梅原が自分の中にとける。一度人を見たら自分の中にとける。一度牛乳を飲んだら、
一度肉を喰ったら、一度酒をのんだら──自分の血の中にそれらがとけるやうに、
精神も受けただけのものは自分の血肉の中にとける。》(同,183頁)

●817●小林秀雄講演[別巻]『現代思想について』(新潮カセット)

 ある酒宴の席で、青山二郎が小林秀雄を執念深くいじめた。「オイ、小林、お前
の文章はダメだぞ。いつもこういう席で喋ってることとは違う。お前は酒を飲むと
いきり立って、たとえばゴッホを見た喜びを語るだろ。その方が書くものよりずっ
と面白い。生きてるんだ。文章になるとそうは行かん。」小林は黙って、涙をこぼ
していたらしい。白洲正子は書いている。

《…彼[青山二郎]の不満は、小林さんのほんとうの魅力が、文章に現れていない
だけでなく、愛読者も誤解しているという点にあった。そのようなやりとりに、真
の友情とはどういうものなのか、私は生れてはじめて見たように思った。》(『い
まなぜ青山二郎なのか』107頁)

 小林秀雄と青山二郎の友情の話は別にして、小林秀雄の文章と「喋ってること」
とは本当に違う。講演カセットを聴くと、ほとんど落語だ。ここで落語というのは、
「そもそも落語家と比べられると軽蔑されたように思うことが、能楽界のダメなと
ころである」(『いまなぜ青山二郎なのか』131頁)と言われるときの落語のこと
だ。

 ──『現代思想について』は定価四千円の一割で古本屋で手に入れて以来、毎年
正月になると聴いてきた。テープがすり切れてしまわないかと心配していたら、最
近、CD化された。いずれ全巻目を通す、ではなくて耳を傾けるつもりだが、少々
値がはるので、目下のところ『考えるヒント3』(小林秀雄講演集)を読んでいる。

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