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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.228 (2004/05/01)
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 □ 保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』
 □ 河野多恵子『小説の秘密をめぐる十二章』
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●811●保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』(草思社:2003.10.30)

 喋り下ろしや講義の記録をもとに作られた本といえば高山宏の『奇想天外・英文
学講義』や中沢新一の『カイエ・ソバージュ』といった名作が直ちに思い浮かぶ。
保坂和志の『書きあぐねている人のための小説入門』も「口語性」(高山)の融通
無碍と「インプロビゼーションの闊達さ」(中沢)、そしてなにより個別と普遍を
自在に往還し、具象から抽象へと一気に駆け抜ける「ドライヴ感」(保坂)に溢れ
ている。

 本書のキーワードは「立ち上げる」もしくは「立ち上がる」だろう。いくつか用
例を挙げると「自分の前に絵がなくても、絵を立ち上げることができるのは、本当
の画家しかいない」(115頁)、「小説とはいわく言いがたい小説性が立ち上がっ
てくるもののこと」(160頁)、「小説を書くということは……何もないところから
自分の文章を立ち上げていくことだ」(187頁)、「フィクションが立ち上がる」
(189頁)など。

 これが「身体性」や「流れ」や「音楽性」や「モード奏法」といった語彙群と響
き合って「作品には作品固有の運動がある。言葉を換えれば、それ固有の運動を持
ったときに、いま書かれているものが“作品”になる」(61頁)とか「小説という
のは読んでいる時間の中にしかない」(140頁)──あるいは作家にとって「小説
を書く」とは最初に提示した解決不能の問題(対立)を解くこととイコールで読者
にとってもそれは同じことなのだが、しかしその問題は読み終わった後で解けてい
るわけではなく「小説を読んでいる時間(プロセス)の中そのものに問題を解くと
いう行為が内在する」(140頁)──という保坂和志の「小説観」をかたちづくっ
ている。

 この「小説観」が本書のもう一つのキーワードで、これもまた「小説語」や「小
説性」や「小説的思考」、はては「小説の外側」といった概念群と星雲状に連なっ
て「小説には、かならずどこかで現実とのつながり、現実の痕跡、現実のにおい、
みたいなものがなければならない」(67頁)とか「小説は“抽象”だ」(165頁)
とか「小説は形ではなく、「何を書くか」「このやりかたで何が書けるか」を考え
るものなのだ」(189頁)、そして「私たちの言葉や美意識、価値観をつくってい
るのは、文学と哲学と自然科学だ。その三つはどれも必要なものだけれど、どれが
根本かといえば、文学だと私は思う」(36頁)という、考える作家・保坂和志の文
学観・芸術観・表現観をかたちづくっている。

《哲学は、社会的価値観や日常的様式を包括している。小説(広く「芸術」と言う
べきだろうが、いまはあえて「小説」とします)も、社会や日常に対して哲学と同
じ位置にあり、科学も同じ位置にある。つまり、哲学、科学、小説の三つによって
包含されているのが社会・日常であって、その逆ではない。/だから小説は日常的
思考様式そのままで書かれるものではないし、読まれるべきものでもない。日常が
小説のいい悪いを決めるのではなく、小説が光源となって日常を照らして、ふだん
使われる美意識や論理のあり方をつくり出していく。》(56頁)

《それ[耳で聞くことを本質としている物語──引用者]に対して小説とは、一人
で目で読むものとして発達してきた。一人ひとりの孤独な時間の中で、ゆっくり目
で読むことによって、文学として書かれた複雑な宇宙的叙述・時間的叙述が読み手
の心の中で何重もの層として積み上げられたり、内側に折り畳まれたりするプロセ
スそのものが小説という表現形態なのだ。》(140頁)

 この本の読み所はほかにもあって、それはたとえばレゲエのボブ・マーリィの歌
やナイジェリアの小説家エイモス・チュツオーラの『やし酒飲み』、谷崎潤一郎原
作、池広一夫監督の娯楽映画『おんな極悪帳(恐怖時代)』や田中小実昌の連作短
編集『ポロポロ』、ベンヤミンの『物語作家』等々、ホサカ・ワールドの根底をな
したり表面を流れていった作品群への言及がいたるところにちりばめられているこ
と。

 そして特筆すべきは惜しげもなく披露された自作解説。たとえばデビュー作『プ
レーソング』を書いたときテーマの代わりに「悲しいことは起きない話にする」「
比喩を使わない」「猫を猫として書く」という三つのルールを設定したこと(64-
66頁)とか、その直接のヒントになったのが『阿房列車』がもつ雰囲気だったこと
(158頁)。小説のひとつの理想は「解決不可能と思える問題(対立)」を最初に
提示することで『カンバセイション・ピース』はそういうつもりで書いたのだが、
他に思いつくものと言えばドストエフスキーの小説ぐらい。でもこの「方法をもっ
とシンプルに先鋭化した作品はしかし、ドストエフスキーではなく、大島弓子の漫
画なのではないかと思う」(144頁)。

●812●河野多恵子『小説の秘密をめぐる十二章』(文藝春秋:2002.3.15)

 「実を言えば、よい小説の書き方が本当に分かるのは、よい小説が書けた時なの
である」(229頁)。「文章上達の下地作りをしたいならば、本くらいは自分で択
んで自分のお金で買わねば、同じ読むのでも碌に読んだことにはならない」(231
頁)。昔、ある物書きが電車の中で、エンジニアの友人から「谷崎潤一郎という人
は、ずいぶん偉いらしいが、どういう小説家なんだい」と訊かれて、「女の足のこ
ればっかりの小説家」と、(片掌を頂くように上下させて)そう一言で特徴を答え
た。その物書きが後輩の河野多恵子に語っていわく、「つまり、そのように一言で
言い表わせる作家でなければ、本当にはやってゆけないんです」(240頁)。

 図書館で借りてきた本だから、どうせ碌に読んだことにならないと割り切って拾
い読みをしていたら、最後の方(最終章「文章力を身につけるには」)で究極の言
葉が出てきた。

 ──白洲正子の『いまなぜ青山二郎なのか』(新潮文庫)に「骨董は買ってみな
ければわからない」「骨董いじりは女道楽より高級でも下等でもない、と青山さん
はいっている」「男の眼を持たなければ陶器はいつまで経っても伊万里のそば猪口
を出ないだろう」(47頁)とあったのを思い出す。また、小林秀雄が「僕はこの三
十年間骨董に夢中になってゐた。おかげで、文学がわかるやうになつたよ」と言っ
ているそうだ(142頁)。

 骨董いじりと女道楽と文章。いずれも男の眼を持たなければならない。それとい
うのも、保坂和志によると「小説を書くということは……何もないところから自分
の文章を立ち上げていくこと」なのだから。

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