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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.226 (2004/04/29)
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 □ 桜井哲夫『「戦間期」の思想家たち』
 □ 沼正三『マゾヒストMの遺言』
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●802●桜井哲夫『「戦間期」の思想家たち
   ──レヴィ=ストロース・ブルトン・バタイユ』(平凡社新書:2004.3.17)

 第1章「囚われのアンドレ・マルロー」と第2章「レヴィ・ストロースと「建設
的革命」」を読んでいるあいだは退屈だった。「思想家たち」の思想の中身ではな
く、若き日の交友関係やゴシップ、スキャンダルの類をめぐる話題が延々と続くの
に飽き飽きしていた。この本は前著『戦争の世紀』の続編で、やがて書かれる第二
次大戦以後の物語とあわせて「二十世紀精神史」三部作の第二部にあたるというの
だが、それにしては『戦争の世紀』がもっていた新鮮さに欠けているように思えた
し、「精神史」の骨格をなすもの(戦争、革命、政治、結社、ファシズム…、そし
て「ブルトンらの運動とモースの仕事、バタイユの活動」を結びつけるもの)の輪
郭がくっきりと浮かびあがってこなかった。

 いったん放りだしたけれど、なんとかバタイユまでたどりつこうと再開した第3
章「ブルトンとトロツキー、そしてナジャ」で息をふきかえし、第4章「バタイユ
と「民主的共産主義サークル」」で加速し、第5章「政治セクトの季節」「エピロ
ーグ──戦争が露出する」と一気に読み進んだ。読後、ときおり顔を出すポール・
ニザンやジャック・ラカン、『戦争の世紀』でも重要な位置をしめていたベンヤミ
ン、そして本書の影の主役ともいえるマルセル・モースといった役者とともに、ブ
ルトンのナジャ(レオナ・カミーユ・ギスレーヌ・D)、愛人シュザンヌ・ミュザ
ール、バタイユの妻シルヴィア、愛人コレット・ペニョ、ブルトン、バタイユと奇
妙な絆をむすんだシモーヌ・ヴェイユ(あの『空の青み』のラザールのモデルだっ
た!)、ハンナ・アーレントといった女性群がとりわけ濃い印象を残した。──以
下は、エピローグに引用されたモースの文章とそれに続く一文。

《「ここでは、私は、ギリシャではしょっちゅう起こったような出来事を簡単に見
つけられます。アリストテレスが非常に力をこめて描いており、とりわけ古代社会
に特徴的なもので、おそらく世界中どこにでもあるものです。つまり、〈男たちの
秘密結社(ソシエテ)〉で、公に認められていながらも秘匿されているという同胞
組織を持ち、この男たちの結社団体のなかでは、活動するのは青年団体なのです」。
 行動的少数派の政治セクトは、「男の結社」であって、女嫌いの結社である。そ
う考えてみれば、基本的にボリシェヴィキもファシストもナチスもみな女性を排除
するセクトであった。それに対抗するセクトも、知らずに感化されて同様な性格を
持たざるを得なかったともいえる。バタイユのセクトもまた「男たちの結社的団体
」にほかならなかった。ついでにいえば、バタイユと対立したブルトンたちシュル
レアリスム運動もまた女性を排除する運動体であった。》

●803●沼正三『マゾヒストMの遺言』(筑摩書房:2003.7.20)
 
 図書館で見つけて借り出した本書に、中条省平の書評が載った朝日新聞の切り抜
きが挿入されていて、「『家畜人ヤプー』は、埴谷雄高の『死霊』とならぶ、戦後
文学最大級の観念小説である。『死霊』が形而上的話題に終始するのに対して、『
ヤプー』は形而下的細部のみに充ちているというコントラストが面白い」と書いて
あった。

 沼正三。大正十五年、福岡市生まれ、本名、天野哲夫、闇屋、私立探偵などを経
て、昭和四十二年、新潮社に入社、定年退職まで校閲部に勤務(てっきり、判事・
公証人の倉田卓次が沼正三本人だと思っていた)。学生の頃、角川文庫版(たしか
宇野亜喜良の挿画のカバーがついていたと記憶しているが、違ったかもしれない)
と石ノ森章太郎による劇画版、そして(これもたしか金子國義の挿画のケースに入
った)『ある夢想家の手帖から』を愛読した。

 まず、マゾヒズムには「なべて現実を、世界をくるめて一つの錯覚、一つのフィ
クションのように思う感覚」があると喝破し、「『家畜人ヤプー』は私の信仰告白
の文章でもある」とか「『家畜人ヤプー』はマゾヒストにとっての詩集である」と
自作を語る「『家畜人ヤプー』について」(そこにはジル・ドゥルーズの名前が出
てくる!)を玩味した。

 続いて、「性倒錯のイマーゴ」(そこでは「私は観察者ではなく、明らかに被験
者である」という自己認識が示される)とか「フェティシズムの形而上学」(「フ
ェティシズムとは、言ってみれば、万物への、不可知な、ある狂気といえはしまい
か。狂気はあるいはオルガスムスと言い直してもよかろう」)とか「少女幻想の恐
怖」(少年派であるはずの稲垣足穂が『A感覚とV感覚』に「男性に受身への劇し
い欲望が隠されている」のは「女性がサディズムを隠しているのと同じく人間原理
に立つ」云々と書いていることをとらえて、「美少年の中に、美少年をとおして、
最もハードな美少女の俤を二重映しに見ていたのではないか」と推測している)と
か「文学における上半身・下半身」などのいかにも沼正三らしいエッセイを満喫し
た。

 最後に、「9・11戦争」やら「康夫と慎太郎」(石原慎太郎がサッチャーと会食
した際、フォークランド紛争の話を聞いたら「決断よ、決断、決断が政治家のエク
スタシー」と答えが返ってきた、などという話題が出てくる)やら「イラクと日露
戦争」といった時事評論風のエッセイを堪能した。

《『家畜人ヤプー』は古典主義的にではなく浪漫主義的にであり、しかも同時にマ
ゾヒズムの全的告白小説であること以外には、いかなる形而上的観念や文明論から
も無縁であり、無縁であり得たのは、その徹底的形而下の具体性にある。イメージ
に観念を、ではなく、イメージに技術的設計図を与えたことにある。観念すらも設
計図によって物質化され、抽象的にではなく具体的に生命を与えられるのである。
仏教が宗教であるより前に科学であり得るのは(釈迦を宗教家と見るより、すぐれ
た生理学者だと評したニーチェの指摘[『この人を見よ』]にも一つの示唆を見出
し得る)時間と空間のイメージ、生と死のテーマを、緻密に、微細に、そして壮大
に具体化してくれたその具体性による。世界の実質を学問的にでなく、肉体的な下
半身的に描き尽してくれた形而下的大曼陀羅図の、徹底的な非観念性による。人間
が宇宙の主役ではなく、塵芥や排泄物にも当たらない端役であることを最初に教え
てくれたことで科学であり得た。》(「文学における上半身・下半身」)

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