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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.225 (2004/04/17)
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 □ 中沢新一『精霊の王』
 □ 中沢新一『対称性人類学』
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●800●中沢新一『精霊の王』(講談社:2003.11.20)

 『世阿弥を語れば』(岩波書店)に収められた土屋恵一郎との対談で、松岡心平
は「世阿弥が非常に明晰で合理主義的な言説のトポスを形成するのに対して、その
対極にあるのが金春禅竹で、現代思想の潮流、例えばドゥルーズみたいなものと共
鳴させると金春禅竹がみえてくる」と語っている(と毎日新聞の書評欄で富山太佳
夫が紹介していた)。この「ドゥルーズみたいなもの」と共鳴する金春禅竹の思想
は、本書第七章の『明宿集』と第九章の「六輪一露」の説の解明を通じて存分に腑
分けされている。

《スピノザの哲学が唯一神の思考を極限まで展開していったとき、汎神論にたどり
ついていったように、金春禅竹の「翁」一元論の思考も、ついにはアニミズムと呼
んでもいいような汎神論的思考にたどりつくのである。これほどの大胆な思考の冒
険をおこなった人は、数百年後の折口信夫まで、私たちの世界にはついぞあらわれ
ることがなかった。》(第七章「『明宿集』の深遠」,199-200頁)

《日本の列島に生きてきた人々は、西欧的な意味での「哲学」によって自分の哲学
を語ることはしなかった。そのかわりに芸能や芸術をとおして、それを表現してき
た。金春禅竹のエクリチュールこそ、そのような意味での日本哲学の、極上の作品
となったものなのだ。》(第九章「宿神のトポロジー」,244頁)

 中沢新一が本書で、環太平洋的な広がりをもったものとしてとりだした金春禅竹
の宿神(シャグジ)的思考は、その構造(並列性=二原理性)と作用(転換・転化
・媒介)と能力(物質産出)において、どこか底知れない深みに達している。

《ヨーロッパ的な「たましいの構造」において、舞踏的・霊性励起的・動態的な原
理が、「ディオニソス」の名前と結びつけられて、神性の構造の内部深くに埋め込
まれていることは、よく知られている。ところが、私たちの「たましいの構造」に
あっては、同じ舞踏的・励起的な原理は、神仏の内部にではなく、その背後の空間
[後戸の空間]で活動をおこなうのである。ヨーロッパ精神が「入れ子」の構造を
もつとしたら、私たちのそれは異質な二原理の「並列」でできている。そして、こ
のことが、日本人の宗教や哲学の思考の展開に、決定的な影響をおよぼしてきたの
である。》(第四章「ユーラシア的精霊」,96-97頁)

《この[和歌の]「喩」の関係を x+iy という複素数で表現してみることもでき
る。二つの意味場は、同じ実数同士として同じ平面上で加え合わされるのではなく、
虚軸を入れて垂直にねじ曲げられた上で、くっつくのでもくっつかないのでもない
ようなやり方で、たがいに接続していく。このような「喩」の力によって、世界の
様相はめざましい転換をとげることができる。(中略)
 私たちは和歌の深層で働いている「喩」の本質を、 x+iy という複素数として
表現してみた。性愛の場合にも、同じことが言えるのではないだろうか。男と女は
それぞれ違うものとして、たがいに結び合う必要がある。(中略)
 それこそが「翁」である、と金春禅竹は語るのである。性愛には和歌や塩と同じ
ような転化力が備わっていて、差異をもったものを差異を失わせることなく一つに
接合するための技を、その中で追求することもできる。(中略)
 「宿神」の「宿」を、天文学を意味する「星宿」と結びつけるのは、もちろん禅
竹[『明宿集』]の創作であるが、このこじつけを通じて彼の主張したいことは明
確である。すなわち、プラトン主義と唯物論の結合としての「翁=宿神」、天の高
みと大地の深さを媒介するものとしての「翁=宿神」である。》(第七章,181-
183頁,186頁)

《それにしても、宿神=シャグジの空間はプラトンの言う「コーラ chola」という
ものに、そっくりである。(中略)
 コーラは「母」である、とプラトン[『ティマイオス』]はいきなり宣言する。
そして、それは「父」とも「子」とも関わりのないやり方で、自分の内部に形態波
動を生成する能力を持ち、その中からさまざまな物質の純粋形態は生まれてくるの
であると…語るのである。(中略)
 コーラは子宮[マトリックス]であると言われている。同じようにして、宿神も
ミシャグチも子宮であり、胞衣だと考えられていた。その中には「胎児」が入って
いて、外界の影響から守られている。つまり、コーラは差異と生成の運動を同一性
の影響から守り、宿神は非国家的な身体と思考の示す柔らかな生命を、外界を支配
する国家的な権力の思考から守護する働きをおこなってきたのだ。
 こうして私たちは、プラトン哲学の後戸の位置にコーラの概念を発見するのであ
る。この概念は、極東の宿神=シャグジの概念との深い共通性を示してみせるのだ
が、それはおそらく、かつてこのタイプの存在をめぐる思考が、新石器的文化のき
わめて広範囲な地域でおこなわれていたためだろう、と考えるのが自然ではないか。
コーラという哲学概念のうちに、私たちは神以前のスピリットの活動を感じ取るこ
とができる。西欧ではいずれこのコーラの概念を復活させる運動の中から、現代的
なマテリアリズム(唯物論)の思考が生まれ出ることになる。その意味では、マテ
リアリズムそのものが哲学すべてにとっての「後戸の思考」だと言えるかも知れな
い。》(第十章「多神教的テクノロジー」,268頁,272頁)

●801●中沢新一『対称性人類学 カイエ・ソバージュX』
                      (講談社選書メチエ:2004.2.10)

 朝日新聞で天外伺朗がカイエ・ソバージュ全巻の書評を書いていた。量子力学と
深層心理学から借用した二つの概念、ボームの「明在系・暗在系」とユングの「集
合的無意識」に(たしか)積分論を加味して、好き放題の想像力をふくらませた『
ここまで来た「あの世」の科学』は、結構好きな「サイエンス・フィクション」だ
った。「欲をいえば、本書の内容を頭だけで理解しても十分ではなく、土や森と親
しむ自然体験や、瞑想などによる内面の体験を通して身体的に把握できることが望
ましい」という評言もきわめて真っ当なものだったと思う。(真っ当だとは思うが、
「自然体験」や「内面の体験」や「身体的把握」もまた言葉でしかない。だから、
言ってもしかたがない。)

 それはそうなのだが、それにしても天外伺朗が中沢新一を論じるというのは、そ
れも、一神教型資本主義(グローバリズム)にたいするオルタナティブを提案でき
るのは旧石器時代に芽生えた仏教の思想だけだ(147頁,201頁)とか、性的体験と
宗教的体験は無限集合の構造をもつ流動性無意識が自由に対称性の運動を楽しんで
いるときの幸福感=悦楽のあらわれだ(221頁)とか、超準経済学としての普遍経
済学というものは絶対に存在するはずだ(252頁)とか、新しい「神即自然」とい
うスピノザ的概念のよみがえりを通じた未知の形而上学革命(295頁)といった議
論が出てくる本書を評するのは、あまりにできすぎた話ではないかとちょっと心配
になってくる。

 読み終えて一月以上経つので、細部はほとんど覚えていない。読後、ここで語ら
れていることは、たとえばプラトンやハイデガーがついに語らなかった事柄(語り
得なかった事柄ではない)であり、たとえばニーチェやバタイユが身をもって生き
ようとした(より精確には、言語=表現をもって上演しようとした)究極の「哲学
」(サイエンス・フィクション)だったのではないかと思ったこと。

 そして、レーニンの『国家と革命』と柳田国男の『石神問答』を「発展させ完成
に近づけていくことこそ、自分にあたえられた重大な人生の課題ではないか」(『
精霊の王』あとがき)と考えた中沢新一が、『フィロソフィア・ヤポニカ』(2001
)と『精霊の王』(2003)で『石神問答』を、『緑の資本論』(2002)と『カイエ
・ソバージュ』(2002〜2004)で『国家と革命』をそれぞれ発展させたこと。(さ
らに言えば、それぞれを完成させるためにはあと二冊、一つはちゃんとした数学書、
いま一つは本格的な仏教論が書かれなければならないと思ったこと。)──この二
つの印象は、いまだ鮮烈に残っている。

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