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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.224 (2004/04/10)
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 □ 加藤典洋『テクストから遠く離れて』
 □ 加藤典洋『小説の未来』
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●798●加藤典洋『テクストから遠く離れて』(講談社:2004.1.15)

 わたしはただの読者として小説を読むということだけを心がけた。著者はあとが
きにそう書いていて、これが本書のすべてを要約し凝縮している。そう言ってしま
うと身も蓋もないが、ほんとうのことだから仕方がない。村上春樹からよしもとば
ななまで十二人の同時代作家の小説作品を具体的な作品論として論じた『小説の未
来』が実践編で、「作者の死」(テクスト論)の場所まで「主体の形而上学」批判
の淵源をたどった本書はその理論編だと著者は書いているが、私の読後感はちょっ
と違う。

 くどくどと、いや、くねくねと迂回しながら論理の筋道をたどる独特のコクのあ
る文体(この論理のうねりが加藤典洋の魅力でもある)でもって叙述される「理論
」(脱テクスト論)の要諦は、テクスト受容空間における実定的な「作者の像」の
概念と、文学テクストに固有な「虚構言語」(現実の発語主体と言語表現間の言語
連関が「不在」のまま言語コンテクストを構成するていの言語表現:94頁)の範疇
の二点に尽きる。著者はそこからフーコー的な「俯瞰する知」(主体の死)の批判
へと論を進め、「人がある場所で生きることと、その彼の生が鳥瞰的に歴史的存在
としてとらえられることとは、同じではない」(307頁)、あるいは「何も知らず
に生きていくことが、生きるということの原形である」(308頁)とその「思い」を
吐露している。

 しかし本書の魅力、というか旨味はこのような「ポストモダニズム批判」にある
のではない。少なくとも私にとって、『取り替え子[チェンジリング]』(大江健
三郎:2000年)や『海辺のカフカ』(村上春樹:2002年)や『仮面の告白』(三島
由紀夫:1949年)や『續明暗』(水村美苗:1990年)といった具体的な日付けをも
った小説をめぐる作品論の鮮やかさこそが本書の最大の読み所である。真正の「理
論編」、すなわち「ある読者が、その作品から感動を受けとったとして、その感動
のやってくるゆえんを説明すべく必要とする、そこでの読み方」からだけもたらさ
れる「読みの普遍性」(195頁)への回路をひらく理路はまだ十全なかたちで叙述
されてはいない。

 これは余談だが、ハイデガーによれば、「事実存在」(…がある)と「本質存在
」(…である)とが後者の優位のもとに分岐すると同時に西洋哲学が始まった。こ
の分岐は、最後の形而上学者・ニーチェの「永劫回帰」と「力への意志」を経て、
形式的体系(構造)とその外部(過剰な力の奔流)へ、そして「テクスト」と「作
者の死」へと屈折していった。この終局から開始された加藤典洋の「脱テクスト論
」が「テクストから遠く離れて」向かう場所はどこなのか。

●799●加藤典洋『小説の未来』(朝日新聞社:2004.1.30)

 加藤典洋編『村上春樹イエローページ』(荒地出版社:1996)を読んで、その小
説解読の手際の鮮やかさと軽やかさと鋭さと深さと広がりにすっかり魅了され、い
たく刺激を受け、興奮もし、作品論が上質のエンターテインメントになることをあ
らためて実地で体験した。(これとは違った味わいが記憶に残っているのは、村上
春樹の『若い読者のための短編小説案内』(文藝春秋:1997)。そういえばたしか
『イエローページ』の「パート2」が3月末頃に発売されるはずだったが、どうな
っているのだろう。)

 ほんのちょっとのことでいわゆる「謎本」のたぐいに墜ちてしまう(まあ、それ
はそれで、センスさえ良ければけっこう面白いのだが)ところを、ただ一点、小説
を読んでいるときの心身のあり様と、読み終えたときのたしかな質感のようなもの
をけっして手放さず、小説体験の現場から批評=評論をつむぎだしていく、その方
法論的一貫性があの読み物の真骨頂で、このことは──「いま書かれているさまざ
まな日本の同時代の小説を、僕という単一の平台の上に並べ、同じ物差しで測って
みて、とにもかくにも、同じ時代の作物であることの関連を回復しよう」(171頁)
と試みられた──本書においても頑固に貫かれている。

 小説を読んで、ある感動を受け取る。何かが伝えられ、そして動かされる。そう
した「読後感を言葉にする」(206頁)こと。たとえば大江健三郎の『取り替え子
[チェンジリング]』について、著者は「僕はこの小説を読んで、批評が一つの挑
戦を受けているという感じをもちました。新しい読み方、批評の仕方を編み出さな
いと、こういう小説はうまくその読後感を取り出せないのです」(141頁)と書い
ている。

 このあっけないほどにシンプルな足場をしっかりとかためて再出発した文芸評論
家・加藤典洋が、あの独特のねばねばした(癖になる)文体でもって解き明かす(
1990年以降の)同時代小説の作品世界は、とにかく面白い。そこでは「一九九五年
の骨折」(地下鉄サリン事件の衝撃ががもたらしたもの)と著者が呼ぶロマン主義
的な超越への願望の禁止(階段落ち)から、超越的なものとのあらたな回路への希
求へと向かう作品群が「八百屋の平台」(解剖台ではない)の上に旬の味わいと香
りを際立たせながら並べられている。

 これは余談だが、いまリクエスト復刊されたばかりのスピノザの『神学・政治論
』を読んでいる。「聖書そのものから極めて明瞭に知り得ること以外のいかなるこ
とをも聖書について主張せず又さうしたこと以外のいかなることをも聖書の教へと
して容認しないことにしよう」(上巻50頁)という緒言の方法宣言が、本書のそれ
と響き合っている。

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