〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 ■ 不連続な読書日記                ■ No.223 (2004/04/04)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 □ 須藤訓任『ニーチェ』
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 

●797●須藤訓任『ニーチェ〈永劫回帰〉という迷宮』
                      (講談社選書メチエ:1999.9.10)

 ニーチェの永劫回帰の思想を「窮めたい」と思って、評判の高い本書を旅先で入
手し、のぞみの車中で一気に読んだ。哲学書を一気読みするということは、実は何
も読んでいない(考えていない)のと同じことで、だから著者が結局何を論じよう
とし、はたしてそれがどのように成就しあるいは挫折したかとか、永劫回帰の教説
とはそも何かなどと気の利いた評言や箴言めいた定義をひねりだすことはできない
し、そんな気もおきない。ここではただ本書を読んで印象に残った二つのこと、「
内部=耳=迷宮=舞踏=永劫回帰」と「外部=舞踏する神々=観客=世界の鏡=虚
構=永劫回帰」という二つの概念群の交叉のうちに描出される、世界と生の意味の
あらたな始まりを探求するニーチェ後期思想がとても刺激的だったことを記録して
おくにとどめよう。

◎外部なき内部=耳=迷宮=舞踏=永劫回帰
《…世界、等しきものが永劫回帰する世界は、迷宮として表象されるのであった。
迷宮とは、「外部」への通路を遮断した空間、いや、およそ「外部」の実在そのも
のを捨象した空間である。「外部」なき「内部」にいるなら、人は道を見失って、
眩暈にまきこまれ、平衡を失い、我を失ってしまうだろう。実在的「外部」によっ
て平衡をとる道を、「神の死」によって決定的に絶たれ、我を失い、茫然自失とな
るしかない世界、それが「永劫回帰」の世界である。
 ところが、ほかならぬ耳もまた(外耳のみならず、蝸牛・三半規管の内耳も)、
迷宮の形象となるのであった(ヨーロッパ諸語において、「迷宮」は同時に「内耳
」を意味する)。したがって、耳は「永劫回帰」の世界の形象である。迷宮として
の耳、平衡感覚としての耳──ニーチェが耳に固執する理由があるとしたら、それ
はなにより、この危うい両義性にこそ求められねばなるまい。
 「外部」なき迷宮としての世界にいかにして平衡を実現するのか──世界は、そ
う〈ある〉ように、いかにして〈なる〉のか──問題はここに収斂する。それは、
「永劫回帰」の世界において、「神々」が、つまりは、「ディオニュソス」がいか
にして可能なのか、という問題にほかならない。》(126-127頁)

◎外部=神々=虚構
《「外部」の絶対的不可能性──それを具体化したものが、永劫回帰思想にほかな
らない。
 ところが、「等しきものの永劫回帰」といったとたん、「全体」が思考され、同
時に「外部」が措定されてしまう。この「外の思考」(フーコー)がどのようにし
て可能なのか、それがニーチェ後期思想理解の鍵を握る。
 答えは、しかし、簡単である。「外部」は、「神々」として、つまりは、「虚構
」、ただし、証明も反証もされない「虚構」として、可能となる──それが、ニー
チェの答えである。》(231頁)

◎舞踏する神々=観客=世界を映し出す鏡
《…ケレーニイによれば、「迷宮の原形とは、単に描かれた図形ではなく、踊られ
た図形である」という。つまり、迷宮の形象は、舞踏の織りなす形に発する、とい
うのである。さらにいうなら、迷宮が呼び覚ます目眩の感覚も、舞踏のそれに通ず
るだろう。こうした知見を踏まえるなら、ニーチェのいう神々の舞踏が描くのも、
迷宮の形象である、と考えることが許されよう。(中略)
 迷宮の形象は、…「永劫回帰」の世界の形象であった。…その世界の形象が、神
々の舞踏によって描出される。要するに、世界の形象は二重化される、だが、その
ことによってはじめて、世界の形象は全体として、具体化されるのである。
 それはとりもなおさず、世界が全体として有意味化されること、世界の事象の一
切が、(あえて言うなら)「物語」化されること、より正確には、物語化の可能性
が確保されることにほかならない。…神々という「観客」によってはじめて、人間
世界は有意味な物語となることができるのだが、その観客としての神々とは、舞踏
する神々にほかならないのだ。神々は、舞踏者としての観客であり、観客としての
舞踏者である。
 神々の舞踏は、「永劫回帰」の世界の形象をなぞり、みずからその形象を形作る。
世界のこの二重化によって、世界には「外部」が(「虚構」として)確保され、同
時に、世界と生に意味の可能性が胚胎されることになる。神々は、世界の観客とし
て、世界を映し出す「鏡」である。》(234-235頁)

◎神々の舞踏=外部=虚構=永劫回帰=意味のあらたな始まり
《こうして、永劫回帰思想と表裏一体の形で、「神々の舞踏」という「外部」が「
虚構」される。永劫回帰思想によれば、世界の事象は一切あらかじめ決定済みであ
り、なにをなそうと、それも織り込みずみのものとして、一切は変更不可能である。
にもかかわらず、その決定済みの事象・事実のそれぞれにいつでも、意味のあらた
な「始まり」の可能性が確保される。(中略)
 …「永劫回帰」は、あらゆる「外部」の実在を否定することによって、逆に、「
舞踏する神々」という「外部」を「虚構」し、意味の新たな「開始」と創造の可能
性に目をひらく。その点で、「永劫回帰」は、それ自身「虚構」として、(神とは
また異なった形で)意味の可能性の源泉であり条件たりうる。》(237-238頁)

◎観客=虚構=神々=後世からの視線
《しかし、それにしても、世界劇・人間劇の「観客」が「虚構」としての「神々」
だというのは、あまりにも浮世離れして、雲をつかむようなとらえどころのない話
だと思われるかもしれません。わたしとしては、「神々」を、具体的にはたとえば、
「後世」からの視線として考えたいと思います。》(244頁)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 ■ メールマガジン「不連続な読書日記」/不定期刊
 ■ 発 行 者:中原紀生〔norio-n@sanynet.ne.jp〕
 ■ 配信先の変更、配信の中止/バックナンバー
       : http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/index2.html
 ■ 関連HP: http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
 ■ このメールマガジンは、インターネットの本屋さん『まぐまぐ』 を利用し
  て発行しています。http://www.mag2.com/ (マガジンID: 0000046266)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓