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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.222 (2004/04/04)
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 □ ハイデッガー『形而上学入門』
 □ 中山元『はじめて読むフーコー』
 □ 田島正樹『ニーチェの遠近法』
 □ 湯浅博雄『聖なるものと〈永遠回帰〉』
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●793●マルティン・ハイデッガー『形而上学入門』
               (川原栄峰訳,平凡社ライブラリー:1994.9.15)

 今年の年明けから一月ばかり、哲学の第一の問い(なぜ一体、存在者があるのか、
そして、むしろ無があるのではないのか)の吟味や「存在」の語の穿鑿が続く序盤
はやや退屈の虫を殺しながら、存在と生成・仮象・思考・当為との関係をめぐる議
論にさしかかる中盤あたりからはやや熱を入れて、とりわけフィシスとイデア・ロ
ゴス・ウーシア(目の前に既にあること[フォアハンデンハイト]の意味での存在
)との錯綜した関係や、本質存在[essentia]と事実存在[existentia]の分岐(
ギリシャ哲学の終末=西洋形而上学の起源)をめぐる終盤の議論にはかなり興奮し
ながら読み進め、でも読み終えてから二月あまり経つとすっかり忘却しきっていて、
なにか重厚なギリシャ悲劇を堪能した身体の記憶だけが痕跡のように──「人間の
本質の規定は決して答えではなく、本質的に問いである」(234頁)とか「問うこ
とのなかで存在が自己を開示するような所においてのみ歴史が生起し、人間の存在
もまたそれとともに生起する」(235頁)とか「言語とは一民族が存在を詠ずる原
初的な詩である」(280頁)といった切れ切れの台詞の残響とともに──疼いてい
る。

●794●中山元『はじめて読むフーコー』(洋泉社新書y:2004.2.23)

 中山元さんの最初の著書『フーコー入門』(ちくま新書:1996)を読んで、ポリ
ロゴスというメーリングリスト(いまはない)に参加した。インターネットを初め
て一年と少し、ひととおりのことをやってみて、そろそろ目標を喪失していた頃だ
った。しばらくはMLというメディアの可能性に熱中した。あれから8年近く経っ
て、中山さんが二冊目のフーコー本を出した。読みどころは、狂気・真理・権力・
主体の四つのテーマにそってフーコーの「思考の現場」を手際よく道案内する第二
章で、中山さん自身が深く関心を寄せてきた友愛やパレーシア(真理を率直に語る
こと)をめぐる問題系にもさりげなくふれられている。

 「フーコーとともに歩むことでみえてくる、新しい光景をたのしむこと」(164
頁)。「フーコーの概念を道具のように使って考える」だけではなくて、「フーコ
ーがどのような場所で思考に役立つ概念を作り出したか、その思考の現場を追跡す
ることで、ぼくたちが新たな概念を作り出すこと」(222頁)。この一見浮薄な言
葉遣い(『思考の用語辞典』以来の文体)に少々鼻白むところもあったけれど、こ
こに表明されているのはきわめてまっとうな哲学観だと思う。

 本書を読んでとくに印象に残った箇所。「あることが語られて、あることが語ら
れないのはなぜか」というフーコーのディスクール分析をめぐって、実証的な研究
で、あることがらが「語られていない」と指摘するのは至難な作業であると書かれ
ていたこと(29頁)。考えてみればあたりまえの話なのだが、けっこう深い。「語
られないもの」は「語り得ないもの」よりも(たぶん)深い。

●795●田島正樹『ニーチェの遠近法 新装版』(青弓社:2003.1.18)

 『哲学史のよみ方』(ちくま新書)と『スピノザという暗号』(青弓社)、とり
わけ後者を読んで以来、田島正樹という哲学者は私にとっての注目株になった。『
ニーチェの遠近法』もいつか読みたいと思っていて、同じように『現代思想として
のギリシア哲学』(講談社選書メチエ)と『ハイデガー=存在神秘の哲学』(講談
社現代新書)を読んで以来、注目してきた古東哲明の『〈在る〉ことの不思議』(
勁草書房)と同時に購入して一気に読み切った(古東本は序章だけ読んで、そのあ
まりの密度の濃さに圧倒されてしまってしばし中断)。

 ニーチェに特有の表現形式(アフォリズムの哲学)がいかにその主張内容と切り
離し得ないものであったか、つまり「語る」ことも「示す」こともできない真理、
誰もそのことについて「欄外の書き込み」をなしえない思想(たとえば永劫回帰)
をニーチェはいかに表現したか。これに対する著者の回答は、「ニーチェのテクス
トは、真理を直接語るのではなく、上演しようとする。これが彼の哲学に、これま
での哲学とはまったく異なった表現方法をとらせる根本動機となっている」(153
頁)というものだった。では、そのようにして表現されたニーチェの哲学(遠近法
と観点の哲学)は、いやその断片群はいったい何を実現しえたか。この点について
は、本書の219頁以下で実地に体験されたい。

●796●湯浅博雄『聖なるものと〈永遠回帰〉
   バタイユ・ブランショ・デリダから発して』(ちくま学芸文庫:2004.3.10)

 コンパクトに濃縮された教科書。なぜいまこのような本が書き下ろされなければ
ならなかったのか、よく分からない。かの『反復論序説』(未来社)を超える部分
は、おそらくあるに違いないのだが、それがなぜこのように息せき切った祖述本の
かたちで、それもどこか80年代を想起させる文体でもって著されなければならなか
ったのか。

 本書を読み進めながら私は、ぬぐいようのない既視感にとらわれていた。この既
視感は、ちょうど時を同じくして読んでいた中沢新一のカイエ・ソバージュ・シリ
ーズ完結編『対称性人類学』や、加藤典洋の同時刊行本(「これが批評だ!/世界
が見える!」シリーズ?)のうち理論編と銘打たれた『テクストから遠く離れて』
から浮かび上がってくる著者像──9.11以後の、あるいはオーム以後の、少な
くとも冷戦以後の「普遍的な経験」とでも言いうるもの、つまりフィクショナルな
ものに根ざしたザ・リアル、端的に言えばヴァーチャルなリアリティの実質を生の
まま語り、あたかも骨伝導のような方法で伝達しようとする者──とうらはらなか
たちで、私の脳髄にまとわりついていった。

 まわりくどい言い方はやめよう。「あとがき」を読めば明らかなように、著者も
また9.11以後の世界を意識して本書を書いている。

 「聖なるものは、虚構的に生きることを含みつつ、現実に生きられる。それが、
逆説的にも〈真に〉経験することになる。真実として経験するためには、模擬的=
虚構的に経験することが欠かせないのである。」(206頁)「読むことは、そのつ
ど一次的、始源的な経験になりうる。反復的、模擬的に生きることが、同時に初め
て生きることになりうる。」(280頁)「死ぬことの経験は、〈根源〉から虚構的、
模擬的な経験なのだが、それはまた同時に真実の経験なのである。〈最初〉から模
擬的、反復的であり、喩的、虚構的であることによって、真実の経験となるのであ
る。」(284頁)

 そんなことはとっくに分かっている。「私を超えた、強い力」がもたらすパッシ
ョンに心身を揺さぶられるリアルな出来事を他者に伝達すること。表象=再現の作
用を逃れ去る異質的なリアリティと真実を反復的、永劫回帰的に生きること。あと
がきに書かれたこの言葉を、著者は身をもって生きているだろうか。

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