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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.220 (2004/03/13)
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 □ ホルヘ・ルイス・ボルヘス『ボルヘス、オラル』
 □ 小柳公代『パスカルの隠し絵』
 □ 山崎行太郎『小林秀雄とベルクソン』
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あいかわらずの「同時多発読書」が進行中で、「新作」がなかなか書けないので、
実はまだ残っていた「ストック」(旧作)を、この際、一挙に「放出」します。

『小林秀雄とベルクソン』は、その後に出た増補版と新潮社版全集別巻『感想』が
ずっと本棚にひかえていて、そのうち腰を据えてとりくむつもり。(そういえば、
最近、小林秀雄の講演集がCD版で刊行されていた。池田晶子さんの新刊もこれあ
りで、しだいに小林秀雄への「内圧」が高まっていく。)
 

●789●ホルヘ・ルイス・ボルヘス『ボルヘス、オラル』
                       (木村栄一訳,水声社:1991)

 本書はボルヘス晩年の講演録。どうしてこんなに簡潔で平易な表現のうちに、こ
れほどの内容をもった「思想」を盛り込むことができたのか。私は本書を読み返す
たびに、しばし眩暈を覚える。もしかするとこの本は、噂の「砂の書」の物質世界
における具現物だったのかもしれない。以下、この奇跡的な書物に収められた「不
死性」から、その一端を抜き書きしておこう。

 ボルヘスは「死ぬ時は完全に死にたい、つまり肉体だけでなく魂も死にたいと考
えている」と語っている。自我などは取るに足らぬもの、あらゆる人間のうちに内
在する共有物である。だから「個人的」な不死性(「地上の出来事を記憶していて、
他界にいても地上のことを懐かしく思いだす魂」)ではないもうひとつの「一般的、
全体的」な不死性こそが必要なのであり、私は宇宙の不死性を信じていると。
 
《たとえば、ある人が自分の敵を愛したとする。その時、キリストの不死性が立ち
現れてくる。つまり、その瞬間、その人はキリストになるのである。われわれがダ
ンテ、あるいはシェイクスピアの詩を読みかえしたとする、その時われわれはなん
らかの形でそれらの詩を書いた瞬間のシェイクスピア、あるいはダンテになるので
ある。ひと言でいえば、不死性というのは、他人の記憶のなか、あるいはわれわれ
の残した作品のなかに存続しつづけるのである。(略)重要なのは不死性である。
その不死性は作品のなかで、人が他者のなかに残した思い出のなかで、達成される
ものである。(略)音楽や言語に関しても、それと同じことが言える。言語活動と
いうのは創造的行為であり、一種の不死性になるものである。わたしはスペイン語
を使っているが、そのわたしのうちには無数のスペイン語を用いた人々が生きてい
る。(略)われわれはこれからも不死でありつづけるだろう。肉体の詩を迎えた後
もわれわれの記憶は残り、われわれの記憶を越えてわれわれの行為、行動、態度と
いった歴史のもっとも輝かしい部分は残ることだろう。われわれはそれを知ること
ができないが、おそらくはそのほうがいいのだ。》

 この最後の言葉を口にするまでにボルヘスは霊魂と肉体、不死性をめぐる哲学の
歴史を手短に振り返っていて、そのなかでインドの「前生」の思想を取り上げてい
る。われわれの生が前生に依存しているとすればその前生はもうひとつ前の生に依
存しており、以下無限に過去へと遡行してゆくことになるけれど、時間がもし無限
であるとすれば無限にあるもののひとつがどうして現在にまで辿りつけたのか説明
できない。

 このパラドクスに対してボルヘスが与えた回答は、無限の空間に関してパスカル
が述べたと同様のものだ。すなわち、時間が無限ならばその無限の時間はすべての
現在を含むはずであり、したがってわれわれはいかなる瞬間においても時間の中心
にいることになる。

《今この瞬間は背後に無限の過去を、無限の昨日をひきずっており、その過去もま
た今この現在を通り過ぎていると考えられる。空間と時間が無限であるとすれば、
いついかなる瞬間にあっても、われわれは無限の線の上の中心に位置しているはず
であり、無限の中心のどこにいようとも、空間の中心にいるはずである。》

●790●小柳公代『パスカルの隠し絵』(中公新書:1999.12)

 パスカル最初の物理学作品『真空に関する新実験』で報告された八実験はいずれ
も、一七世紀中頃のヨーロッパの哲学者や学問愛好家の大きな関心事「真空問題」
(真空の存在証明)をめぐる叙述を装いつつ「空気の柱」(大気圧)の存在を暗示
した思考実験だった。

 それではなぜパスカルは実験報告を現在形で書いたのか、一七世紀のルアンに一
五メートルのガラスの管をつくる技術が本当にあったのか、等々を詳細に分析した
著者はこう断言している。「キリスト教信仰への導きの書である『パンセ』が高度
のテクニックを駆使した文学作品であるように、彼の物理論文もまた、文学作品と
して読まれるべきなのである。」(はじめに)

 ところで、トリチェリの実験で作り出された真空(といってもそれは水銀分子の
充満した空間なのだが)を「心」に、実験装置を「脳」に、そして空気の柱を「神
」(別に神でなくてもいいのだが)にそれぞれあてはめて何か、たとえばスコラ哲
学的な真空への嫌悪やパスカルの「身体空虚化」への恐怖(アンジュウー「パスカ
ルにおける真空の概念の誕生」)の意義などについて考えてみることはできないだ
ろうか。──などと、あれこれ思索(あるいは妄想)をたくましくするヒントに満
ちた読み物だった。

●791●山崎行太郎『小林秀雄とベルクソン』(彩流社:1990)

 小林秀雄と理論物理学とのつながりはアインシュタインの来日以来のことであり、
山崎氏は「小林秀雄の批評は、古典物理学の危機とその克服としての相対性理論や
量子力学と同じ意味を持っている」と書いている。

《古典物理学においては、観測者は、観測の対象を、対岸から、客観的な第三者と
して観測するということが前提されていた。これに対して量子論においては、観測
者自身が観測対象の中にはいりこみ、観測者の行動をも観測対象に入れなければな
らなくなった。ある意味では、客観的な観測は不可能だということである。
 小林秀雄が「観測者」としての「作家」を問題にしたということは、以上のよう
に考えるならば、きわめて画期的なことだと言わなければならない。つまり、作家
は「人間」という対象を観測する古典物理学的な観測者である。これに対して、「
観測者」としての「作家」を観測する批評家の誕生は、世界観、ないしは存在観の
変換を背景にしている。》

 本書を読んで私が想起したのは、「現実の分裂」をめぐる小林秀雄の発言だった。
――それは、赤間啓之氏の『分裂する現実』に紹介されていたことなのだが、小林
秀雄はある座談会(1937年)で、ジイドの『ソビエト旅行記』が最初ソビエトの民
衆は非常に活発だとしながら、後に無気力だと書いているのは描写の上で分裂して
いるという指摘に対して、「それは現実が分裂してるんだよ、ロシアの現実が。描
写の分裂ぢやないんだよ」と発言している。

 ついでに赤間氏の文章も引用しておこう。

《たしかに、「現実の分裂」という言葉を発明した小林秀雄には、言葉のハイパー
インフレーションに陥っている面があったことは否めない。しかし彼は、ある意味
で今日的なヴァーチャル・リアリティの問題を先取りしていた。そしてそのことが、
彼の言葉の価値の目減りを防いでいるのである。彼にとって、言葉は現実を現実た
らしめていた地位を奪い取るほど強力であった。それは、彼の思考のなかで、言葉
固有の力、言葉の象徴的機能が、遡及的に現在のヴァーチャル・リアリティと呼ぶ
しかない何ものかと密接に結びついていたからである。》

 このたび新しく刊行されることになった全集には、未完・未刊のベルクソン論「
感想」が含まれるという。小林秀雄は再び、いや今こそアクチュアルな存在になり
つつある。

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