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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.217 (2004/02/08)
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 □ 木田元『反哲学史』
 □ 木田元『わたしの哲学入門』
 □ 木田元『哲学以外』
 □ 木田元『哲学の余白』
 □ 内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』
 □ 内田樹『映画の構造分析』
 □ 神戸女学院大学文学部総合文化学科編『知の贈りもの』
 □ 島田雅彦編『無敵の一般教養[パンキョー]』
 □ 糸井重里『智慧の実を食べよう。』
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●771●木田元『反哲学史』(講談社学術文庫:2000.4.10)

 文庫解説で保坂和志が「この本を読んだら『現代の哲学』や『哲学と反哲学』へ
進むのが自然なのかもしれないけれど、まずはもう一度この本を読み直してみるの
が一番いいんじゃないかと思う」と書いている。

 だからというわけではないが、年末から年始にかけて繰り返し繰り返し読んだ。
たとえばイデア論という不自然な知(形而上学的思考様式)の起源をめぐってプラ
トンとユダヤ系思想とのあり得たかもしれない出会いの可能性やプラトン‐アウグ
スティヌス主義的教義体系とアリストテレス‐トマス主義的教義体系との関係にふ
れた箇所、通りすがりに「近代哲学の枠組に収まりきれない」とスピノザに言及さ
れたところや「「生きた自然」という概念を復権することによって形而上学的思考
様式を克服しようとする試みを、もっとも壮大なスケールで展開した」ニーチェを
取りあげた節などは少なくとも五度は読み返したし、いまもまた最初から読み直し
ている。

 実際のところこれほど再読のしがいがある本というのはそうざらにあるものでは
ない。なにしろ大学の一般教養科目の「哲学」で何十年もしゃべってきた講義ノー
ト、それも哲学とはいったい何だろうと自問し考えなおし、そのつど書き替え書き
足して形を整えてきた講義ノートが元になっているというのだから、たとえ別の本
で読んだのとそっくり同じ文章がいたるところで目についたとしても、それはもう
著者の血となり肉となるまで繰り返し語り直されてきたものであって、だからほと
んど名人とよばれる噺家の藝の域に達している。

 ──実をいうと私はこれまで木田元の手になるハイデガー哲学紹介にいまひとつ
惹かれなかった。ちょうど一年前に読んだ『マッハとニーチェ』だけはすこぶる滅
法面白かったけれど、どういうわけか後が続かなかった。『反哲学史』を読んで分
かったことがある。『マッハとニーチェ』の面白さは木田元という希代の読書家に
して文章家の語り口にあったのだ。(『哲学以外』に収められた「私の文章術」に
文章とはリズムだということが書いてある。だとするといまや現代の文人の風格を
漂わせる木田元の文章のリズムが私に合う、いや私の方が合うようになったという
ことなのかもしれない。)

●772●木田元『わたしの哲学入門』(新書館:1998.4.10)
●773●木田元『哲学以外』(みすず書房:1997.7.10)
●774●木田元『哲学の余白』(新書館:2000.4.10)

 というわけですっかり木田元さんの文章に魅了されて、保坂和志が「自然」な流
れと書いた『現代の哲学』や『哲学と反哲学』はもちろん、はては『哲学以外』と
か『哲学の余白』といった「雑文集」にまで手を出していった。(『反哲学史』の
元となった講義ノートの話は『哲学以外』に収録された「『反哲学史』の楽屋ばな
し」に書いてあった。『哲学以外』ではそのほか「わが文学の師」日夏耿之介と「
わが友ホサカ和志」について書かれた文章がよかったし、『哲学の余白』ではなん
といっても「山田風太郎明治小説全集」全七巻の解説が白眉。)

 そうなると不思議なものでこれまで喰わず嫌い、いや喰っても好きになれなかっ
たハイデガー哲学の紹介までがやたらと新鮮かつ興味深く読めるようになって『わ
たしの哲学入門』は『マッハとニーチェ』『反哲学史』に続く反芻本になったし、
その余波で同時に読み進めていたハイデガーの『形而上学入門』にまで深い味わい
を覚えるようになった。(『形而上学入門』は道半ば。木田元さんの翻訳以外の処
女作だという『現代の哲学』はまだぱらぱらと眺めているところ。)

●775●内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川書店:2003.4.30)
●776●内田樹『映画の構造分析──ハリウッド映画で学べる現代思想』
                           (晶文社:2003.6.15)
●777●神戸女学院大学文学部総合文化学科編『知の贈りもの 文系の基礎知識』
                          (冬弓舎:2002.12.10)

 久しぶりに内田樹の「ユーザー・フレンドリー」な文章とわずかであれその息の
かかった書物を読んだ。

 気配を察知する「身体感受性」の話からカフカ的不条理に巻き込まれた村上春樹
の作品の主人公が自分を守るためにとりあえず採用する最初の戦略が「ディセンシ
ー(礼儀正しさ)」であるという指摘まで、根源的矛盾のうちに引き裂かれた人間
の事実を見すえながら慈愛の眼差しをもってやさしく自在に語り下ろした『疲れす
ぎて眠れぬ夜のために』。

 ロラン・バルトのアイデア──「映画的なもの(ル・フィルミック)、それは映
画の中にある、記述され得ぬものである。表象するだけで、表象され得ないもので
ある」──に刺激を受けて、映像テクストに穿たれた「裂け目」(何を意味するの
かよく分からないもの=意味の亀裂=意味生成の培養器=物語発生装置)が「私た
ちの知性と想像力を激しくかきたて、私たちを暴力的なほど奔放な空想と思索へと
誘う」現場を「映画的身体」のモードに即して「記号」と「抑圧」の理論を駆動さ
せて腑分けした『映画の構造分析』。

 いま使用した三つの語彙、「映画的身体」「記号」「抑圧」の解説を分担した『
知の贈りもの』から。《映画を見るということは他者の身体の内側に想像的に入り
込み、その快楽と苦痛を併せて生きることです。多くのすぐれたフィルムメーカー
が「痛みを感じることのできる」身体への同調を観客に求めたのも、あるいはその
ような共感能力を持つことが、私たちが他者と共に生きるために不可欠の資質だと
直観していたからかもしれません。》(「映画的身体」)

●778●島田雅彦編『無敵の一般教養[パンキョー]』(メタローグ:2003.11.24)
●779●糸井重里『智慧の実を食べよう。』(ぴあ:2004.1.1)

 前著は雑誌『recoreco』に連載された対談集で、いくつかは掲載時に読んだ記憶
がある。「彼らの手にかかると、講義は一級のエンターテインメントにもなる」と
編者がいう彼らとは、惑星物理学、考古学、数学、脳科学、文化人類学、言語学、
近現代史、農学の第一人者のことで、分野の選択と人選が面白い。──茂木健一郎
の「講義」録から(これはほとんどハイデガー哲学の語り直し)。

《考えてみると、〈私〉という存在も、様々な可能態の束のようなものだという気
がしてきます。…そのような、人間が意識のなかで束ねている可能態の存在をどう
考えるか。これこそが、人間の本性を考える文学という営みにおいても、物質の客
観的な振る舞いを問題にする科学という営みにおいても、中心的な課題になってい
くのではないかと思います。》

 後著は詫摩武俊、吉本隆明、藤田元司、小野田寛郎、谷川俊太郎といった「じー
さん」たちを集めて行われた長時間講演会「智慧の実を食べよう。300歳で30
0分」の記録。なぜ「ばーさん」がいないかについての糸井重里の文章が面白い。
「じーさんとちがって、おもしろいばーさんの話って、普遍化できないんですよ。
」普遍に向かおうとする「ばーさん」の話はネイティブアメリカンの長老の話のよ
うな「智慧」というよりは「主張」に近いもので、素敵な「ばーさん」はまるで「
普遍化することを拒否する」ように考えたり動いたりしているらしいのだ。

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