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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.216 (2004/01/31)
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 □ 森岡正博『無痛文明論』
 □ 齋藤孝『呼吸入門』
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昨年来の懸案だった四冊のうちようやく一冊を読み終えた(他の三冊は『精霊の王
』『風土学序説』『書きあぐねている人のための小説入門』)。これはきわめて特
異な書物で、森岡正博はここでプラトニズムとキリスト教が合体した西欧二千五百
年の神学=形而上学の解体あるいは転轍を企てている。

本書で示された「一本の管としての私」と「ペネトレイター(「この私」を組み込
んだ自己治癒するシステム)」の二つの荒削りな概念は、いわば西欧的思考の解剖
学的二大原理(「使徒的人間」と「内在的超越」、あるいは「実存主義」と「シス
テム論」)のようなものであって、東洋的思考(たとえば仏教)や日本的なもの(
たとえば「葦牙の萌え騰るが如く成る」自然=フュシス)への性急な言及を禁欲し、
あくまで「哲学」のフィールドにとどまりつつその語り直しあるいは転轍を通じて
「宗教の道を通らない宗教哲学」(366頁)という未聞の知を拓いていくための梯子
となるものだろう(たぶん)。

中沢新一は吉本隆明との対談「心と言葉、そのアルケオロジー」(『群像』2004年
1月号)で、ミシェル・ウエルベック(『素粒子』)由来の「第三次形而上学的変
異」について次のように語っている。私には「宗教の道を通らない宗教哲学」の一
つの可能態がそこに示唆されているように思える。

《第三期の形而上学がどういう形をとるかなということを考えてみると、類推でい
くと、自然から主権を人間の世界に持ち込んだわけだから、多分こいつを返すだろ
う。自然と物質の世界というか、そういうものにこれを返していくだろうとなると、
どういう形になるか。今のところ、これに一番近い原型を出したのがスピノザじゃ
ないかなと思います。彼は、神即自然という言い方をしましたけれども、あの場合
の神というのは、人間の世界の中に持ち込んじゃった超越的なものの神、これをス
ピノザはもう一回自然に返しているんですね。しかし、国家がない社会のやり方と
は全然違うやり方で返そうとしている。これだけ産業も発達し、複雑化している人
間の社会の中で、回帰はあり得ないですからね。発展しかない。そこであらわれて
くる変化を最初に粗描しているのは、スピノザなんじゃないかなと感じています。》

このあとドゥルーズを経てネグリの『帝国』へと話が進む。ちなみに『無痛文明論
』でもたしかスピノザの名が一度出てきたし、ドゥルーズは数度出てくるし、ネグ
リとハートの『帝国』にも一度言及されている(軽やかに逃走するネットワーク型
権力として位置づけられた〈帝国〉の概念は、無痛文明をめぐる現状認識として正
しい、云々)。
 

●769●森岡正博『無痛文明論』(トランスビュー:2003.10.5)

 無痛文明論には二つの相がある。その一、理論篇。無痛文明の内容面をめぐる欲
望の概念。欲望には「身体の欲望」と「生命の欲望」がある。前者は苦しみを避け
快を求め、いまの快適な枠組みを維持し、すきあらば拡大・増殖しようとする。そ
れはわれわれを眠りへ、死にながら生きる化石の生・家畜の生へと誘う。この身体
の欲望を起点とする大きな奔流が無痛文明であり、それは世界を秩序化する「知」
のはたらきと結びついて、誕生・死・大自然という聖なる場所(荒々しい「外部」
に満ちあふれている場所)に侵入する巧妙なテクノロジーをもって人生・生命・自
然を管理する。

 これに対して後者は苦しみをくぐり抜けることを通していまの枠組みを解体し、
まったく未知の世界へと自己を開き変容してゆこうとする。それは手にしていたも
のを手放し自己を解体し、残されたもの、与えられているものを味わい尽くし、い
まこの瞬間に到来する「永遠」へと私を「開花」させる。生命は身体に内在しなが
ら身体を超え出ようとする。すなわち生命の欲望とは身体の欲望を超出しようとす
る欲望のことである。だから無痛文明との戦いは身体の欲望を生命の欲望へと転轍
し、「知」を生命の欲望のうちに内部化し「開花の学」へと結実させること、そし
て補食者に身を差し出し宇宙へと回帰していくことである。

 その二、実践篇。無痛文明の動態面をみすえたシステム論。無痛文明は「この私
」(いまここに生きているこのかけがえのない私、この宇宙の中にひとりだけ特殊
な形で存在するこの私)を必須の要素として含むシステムであって、だれもそれに
対して「観察者」として関わることはできない。それはそれと戦おうとする者の力
を利用して繰り返し繰り返し立ち直っていく「自己治癒」するシステムである。敵
対者をもその一部として包み込むシステムとの戦いにあって必要なのは、ただひた
すら負け続けること、戦いの構図そのものが自己崩壊し無意味となるまで負け続け、
その負け続けるプロセスそれ自体を次の世代の戦士たちへと受け渡してゆくことで
ある。

 このような自己治癒するシステムとしての無痛文明と「この私」ならぬ人間を要
素とするシステム一般との違いを際立たせるために、著者は「ペネトレイター」(
貫通物)の概念を提唱する。《ペネトレイターとは、この私をたえず貫き、社会全
体に広がり、つねに運動し続ける、網の目状の移動貫通体である。(中略)たとえ
ば、「言語」や「自然」や「時間」は、われわれの存在と無関係に実在しており、
一見ペネトレイターではないように思えるけれども、実はペネトレイターとしての
性質をもっているように思われる。集合的無意識と呼ばれるもの、宗教がとらえよ
うとしてきたもの、超越者の声と呼ばれてきたものも、ペネトレイターの可能性が
ある。ペネトレイターは、システム論と実存主義の両方の視点を内在した概念かも
しれない。システム論と実存主義は、ペネトレイターをちょうど正反対の方向から
不完全に描写しようとした理論なのかもしれない。》(448-449頁)

 ──それにしても異様・異例な書物だ。とりわけ『仏教』連載稿をもとにした前
六章に続いて書き下ろされた後二章が湛える昂揚は尋常ではない。絶対孤独という
「懐かしい、ひんやりとした」場所での死の思索から、一本の管として私(私では
ない何かを、私ではない何かに向かって伝えていく主体)の考察へ、そして共同性
をめぐる新しい哲学的ビジョンの可能性の開示へと到る第七章(「私の死」と無痛
文明)。

 前六章で展開された無痛文明論をも呑みこみより強力に更新された無痛文明と「
凡俗の戦士」(320頁)との果てしない戦闘──著者はそれを「形而上学的な内戦」
(288頁)と呼ぶが、私はむしろ「形而上学的な自爆テロ」と名づけたい──の一
部始終を矢継ぎ早に繰り出される新しい武器(概念)でもって叙述しきり、ペネト
レイターの概念の提示とともに中断される第八章(自己治癒する無痛文明)。それ
はあたかも戦う者の姿は敵に似てくるというニーチェの洞察(425頁)を地でいく
ような、合わせ鏡の地獄絵さながらの壮絶なドラマである。

 じっさい私は本書を読み終えて、ニーチェが狂気の淵に臨んで構想していた「哲
学的主著」とはもしかするとこのような書物のことだったのかもしれないと思った。
たとえば最終章でも特に異端的趣の濃い「補食の思想と宇宙回帰の知」とそれに先
立つ「開花の学」の節で著者が展開している議論は、まぎれもなく「力への意志」
と「永劫回帰」の二つの概念によって書き上げられた「私の哲学(マイネ・フィロ
ゾフィ)」の一つの可能態なのではないか。

《私がこの世でどのような生を生きたにせよ、私の生のプロセスはすでに宇宙全体
に不可逆的に働きかけ、宇宙全体を不可逆的に変容させ、宇宙全体に何かを与えた
はずである。私が宇宙から産み落とされて、この宇宙に存在して、生きて、死んで
ゆくとは、そのようなやりとりを宇宙と行うことである。宇宙から生まれた私が、
自分自身の生を送ることによって、宇宙に不可逆な刻印を残してしまうという構造
が、そこにはある。たとえ私がどんな人生を送ったとしても、そのすべてのプロセ
スは吸い取り紙に落ちたインクのように、そのまま宇宙へと染みわたっていく。そ
れは時の経過とともに、宇宙の星くずの彼方にまでゆっくりと浸透することだろう。
地球がなくなり、太陽系がなくなったそのあとですら、浸透は続くことだろう。私
が死んだあと、もはや私の一部ではなくなった何ものかが、それでもなお私の人生
を通り抜けた何ものかとして、宇宙の果てまでみずからを貫き通していくだろう。
その何ものかは変容し、かつてのそれ自身ではないような姿に形を変え、その中に
刻印されていた私の痕跡も徐々に薄らいで蒸発してしまうだろう。その痕跡が消滅
したとき、私は、私固有の痕跡をどこにも残していないという形で、宇宙へと記憶
される。》(381-382頁)

●770●齋藤孝『呼吸入門』(角川書店:2003.12.31)

 著者はあとがきに「日本文化の粋である息の文化の意義を伝え、生きる力の根源
を照らすのが、この本のねらいだ」と書いている。二十年に及ぶ生活のすべてを呼
吸研究に賭け、自らの実践を通じて「息の現象学的研究」を立ち上げようとしてき
たとも書いている。本書に懸けた著者の思いと意気込み、というかその息遣いはど
の頁からもびんびんと伝わってきた。

 呼吸とは何か(「息」というのは一つの身体文化なのです。息は、身体と精神を
結びつけるものです。「人間というのは、内と外をはっきりと分けることのできる
存在ではない、大きな世界と自分という存在はつながっているのだ」ということを、
呼吸が分からせてくれるのです)に始まって、日本文化論や宗教論(呼吸で作り出
す意識の在り方が、宗教心の基盤にあったとも言えるでしょう)、神秘主義批判(
呼吸を特殊な仕方でコントロールすると、普段の自分では感じられなかったエネル
ギーを感じることができる。これは神秘体験でも何でもなく当たり前の生理現象で
す)を経て、性の喜び(セックスとは二つの身体が一つの呼吸をする喜びです)か
ら生の愉悦(人の生命が、死の瞬間まで止むことなく、呼吸の律動に貫かれている
こと。これこそ、人間に対する宇宙からの最大の贈り物ではないか)まで、まさに
汎息論とでも呼ぶべき議論が縦横自在かつのびやかに展開されている。

 ただこの本は読み手の身体のモードに応じて評価が大きく分かれるだろう。私は
毎日一話ずつ一週間かけて、本書に出てくる「積極的受動性」の構え、つまり「傾
聴」の姿勢でもって全七話を読み終え、もしかすると父子相伝の奥義書とか門外不
出の教典、あるいはプラトンやハイデガーがついに著さなかった哲学書に書かれて
いたのは実はこういうことだったのかもしれないと思った。呼吸(=精神を整える
技術)を通じた「意識の覚醒」や感情のコントロール、はては呼吸(=死の予行演
習)を通じた死生観の訓練にまで説き及ぶこの本は来るべき「霊性の時代」を生き
抜くための必携の技術書ではないかとまで思った。

 でも異なる心身の状態で読んでいたら、ここに書かれているのはまとまりと実証
に欠けた雑談にすぎなくて、ただ「鼻から三秒息を吸って、二秒お腹の中にぐっと
溜めて、十五秒かけて口から細くゆっくりと吐く。これが数千年の呼吸の知を非常
にシンプルな形に凝縮した「型」です」という著者の自讃の声、いや息遣いしか聞
き取れなかったかもしれない。だからこの本は人には軽々に勧められないし、再読
にも耐えない(少なくとも本書に書かれた事柄が頭の中で「知識」のままわだかま
っている間は)。──以下、印象に残った箇所を二つ。

《共鳴する、いわば楽器のような身体──。響きやすければ共鳴しやすいですから、
呼吸がうまくリズミカルにできていれば、からだは共鳴する楽器になるわけです。
寺院や教会などの宗教建築は、そこに集まって読経や合唱をした時に、みんなの声
が荘厳に共鳴して響きわたることを計算して造られています。ゆったりとした呼吸
が技として身について、響きのいい楽器のようなからだになると、それはもう「ど
こへでも持ち運び可能な寺院」を持っているようなものです。》(85頁)

《能は立つことの芸術です。上下動なく静かに移動するだけです。そういうぶれな
い精神の在り方は、高い意識のコントロールを伴うものなので、その緊張度、意識
の高さが観客の意識を揺り起こしてくれるのです。ところが、逆にその意識の高さ、
張り詰めた緊張感に耐えられない人は、能を見ると眠くなってしまう。(中略)そ
れは幽玄なる霊魂の世界とつながっています。(中略)こうした霊魂が支配してい
るような世界というのは、高い瞑想状態にも通じます。ですから、能はそうした脳
の高い覚醒状態を楽しむものだったわけです。》(103-104頁)

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