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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.215 (2004/01/24)
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 □ 養老孟司・茂木健一郎『スルメを見てイカがわかるか!』
 □ 茂木健一郎『意識とはなにか』
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●767●養老孟司・茂木健一郎『スルメを見てイカがわかるか!』
                      (角川oneテーマ21:2003.12.10)

 いまや今西学の向こうをはって養老学とでも名づけるべき独自の心境に達しつつ
ある「人間科学」のエッセンス──「スルメ」(DNAのように停止し止まったも
の=情報)と「イカ」(細胞のようにひたすら動いて変化していくもの=システム
)のダイコトミーによる万物の一刀両断──に気軽に接することができる講演録が
一つ(養老「人間にとって、言葉とはなにか」)。

 意識(コギト)と言葉(イデア)と自己同一性と論理と根本感情の関係から、「
ある」と「ない」、「内」と「外」の非対称な関係、身体と個性、ダーウィニズム
と資本主義経済システム、自然(意識が作らなかったもの)と無意識(意識が管理
できないもの)、はてはアメリカ文学における「暴力」と「傷つきやすさ」の関係
をめぐる話題まで、軽妙自在な思考の競演が楽しめる対談が三つ(「意識のはたら
き」「原理主義を超えて」「手入れの思想」)。

 本書の中心を貫くテーマ、つまり意識ではコントロールできないもの(たとえば、
脳の中の無意識という自然のプロセス)をめぐる「手入れの思想」の真髄──「意
識ですべてはコントロールできない、できるのは手入れすることだけである」(185
頁)──が、落語家や小説家の言葉の修練に託して語られた書き下ろしエッセイ(
茂木「心をたがやす方法」)に、あとがきを兼ねた短い養老孟司論(茂木「覚悟の
人」)のオマケがついて、小冊子ながら、噛めば噛むほど、いや読めば読むほど深
甚な味わいが楽しめる好著だ。(本書の背後には、野矢茂樹と保坂和志が潜んでい
る。たぶん。)

 印象に残った話題、その一。がちがちの物理主義者だった茂木さんは、三○歳を
すぎた時、電車のガタンゴトンという音を聞いて、普通の物理学の方法(周波数が
いくつかといった客観的性質にもとづく外的言語で世界を記述し理解する)では音
の質感(クオリア)自体に到達できないことに気づき、物理主義が基盤としている
確固とした世界観を疑わざるを得なくなった。では、その物理主義に対する対抗軸
をどう設定すればいいのか。

 ──「養老さんが言われる、意識が同一性を保証するメカニズムを徹底的に考え
ると、そのあたりが突破口になるのではないか」。「物理法則は、客観的な実在と
してあるわけではなくて、あくまでも人間の脳がつくりあげたものですからね。」
「そうですね。その人間の脳も、また物理法則にしたがう物質である、というとこ
ろに、話がぐるりと回るというか、とても面白い側面があって、そのあたりを私は
一生懸命考えているのです。」(47頁)

 その二。茂木健一郎の小説論。《小説とは、単にある意味を伝えたり、ストーリ
ーを展開したりするためのメディアではない。鋭敏な感覚に基づいて言葉の世界を
つむぎ、その作品を読まなかったら感じなかったであろうある質感(クオリア)を
提示するのが、小説という言葉の芸術の究極のテーマである。》(174頁)

●768●茂木健一郎『意識とはなにか──〈私〉を生成する脳』
                        (ちくま新書:2003.10.10)

 『脳とクオリア』以来、茂木さんの新刊はすべて読んできた。最近は啓蒙書ばか
り書いていて、脳と心の関係は「難しい問題」だという以上の情報がない。もっと
最先端の、茂木さん自身が痺れるほど脳を酷使して日夜考え続けているテーマを噛
み砕いて判りやすくかつスリリングに書いてほしい。と、読み手は気楽に勝手なこ
とを思う。本書も一見、啓蒙書の装いをもって世に出た。でもこの本には、うっか
り読むと見逃してしまうほど平易な言葉でもって、近い将来のブレイクスルーを予
感させる二つの大切なことが書かれている。

 その一は、クオリア(感覚質、質感のこと。私たちの意識の中で、〈あるもの〉
がまさに〈あるもの〉としてあること=同一性を支える基本的性質)や〈私〉が〈
私〉であることや言葉の意味をめぐる「むずかしい問題」(個物の起源の問題)と
機能主義的アプローチで解決できる「やさしい問題」とが実は表裏一体であること。
その二は、個物(〈あるもの〉が〈あるもの〉であること)は常に生成し続けるこ
とによって支えられていて、私たちの意識(クオリアに充ちた主観的体験)は、物
質界で普遍的に見られる「個物の背後の生成のプロセス」の延長線上にとらえられ
るものであること。「同一性の起源を、その生成の過程において問う」ことがない
かぎり、心と脳の関係をめぐる「むずかしい問題」は解けそうもないこと。

 茂木さんはここで、存在を生成の相においてみる立場、つまり西洋中世の普遍論
争における「実在論」の立場(個物を単純かつ確定的なものとみる「唯名論」と違
って、複雑精妙な豊かさをもった確定されないものとして個物をとらえる立場)に
立っている。(実在論者にとって個物をどうとらえるかは「むずかしい問題」だが、
唯名論者にとっては「やさしい問題」だ。)まえがきに記された「脳科学でもない、
認知科学でもない、哲学でもない奇妙な中間領域」という言葉は、まさに新しい「
脳科学」という「個物」を生成する突破口が開かれる場所を告知している。

 余録の1。実在論について。山内志朗『天使の記号学』に書いていること。「存
在論の問題として」普遍論争を見ると、「実在論者が求めていたのは、生成と媒介
を司る普遍であった。唯名論者が主張するように、普遍は命題か、概念において存
在するとすれば、普遍は生成には関わりにくい」(208頁)。以下で叙述されるス
コトゥスの個体化論をめぐる議論を参照。

 坂部恵『ヨーロッパ精神史入門』で引用されているパースの文章。《考え深い読
者よ、政治的党派心のバイアスのかかったオッカム的な先入観──思考においても、
存在においても、発達過程においても、「確定されないもの」(the indefinite)
は、完全な確実性という最初の状態からの退化に由来する、という先入観を取り払
いなさい。真実は、むしろ、スコラ的実在論者──「定まらないもの」(the
 unsettled)が最初の状態なのであり、「定まったもの」の両極としての、「確実
性」と「決定性」は、概していえば、発達過程から見ても、認識論的にも、形而上
学的にも、近似的なものを出ない、と考えるスコラ的実在論者の側にあるのである。》

 坂部氏の解説。実在論(スコトゥス派)と唯名論(オッカム派)の対立は通常、
個と普遍のプライオリティ如何という問題をめぐるものとされるが、パースはその
論争点をずらした。対立はそれに先立って「確定されないもの」と「確定されたも
の」のどちらを先なるものと見るかにあるのであって、「むしろ、(パースはそこ
まで明言していませんが)、個的なものをどう捉え、ないしはどう規定するかにか
かわるものである」。「すなわち、個的なものを、元来非確定で、したがって(こ
こが肝心のところですが)汲み尽くしえない豊かさをもち普遍者や存在をいわば分
有するものと見なすか、それとも、まったく反対に、それを、いわば第一の直接与
件として、しかも単純で確定された規定を帯びた、世界と思考のアトム的な構成要
素と見なすか。「実在論」と「唯名論」の対立の因ってくるところは、このような
考え方のちがいにあるとおもわれます」(47-48頁)。

 余録の2。ここから先は「生成」という語彙だけでつながる話題。松澤和宏『生
成論の探究──テクスト・草稿・エクリチュール』の書評を池上俊一氏が書いてい
る(「主題さえ揺るがす物語の深層読解」)。冒頭で「草稿研究がかくも豊饒で目
眩を誘うような営為であるとは、不明にして知らなかった」と述べ、本書でなされ
たフローベールの『ボヴァリー夫人』『感情教育』や夏目漱石の『こゝろ』、森鴎
外『舞姫』、芥川龍之介『鼻』、宮澤賢治『銀河鉄道の夜』の生成論的読解につい
て、「明白であったはずの主題を揺るがし、物語世界の深層に隠れていた異貌を開
示してみせる。ごく小さな細部の追加・削除が、全編の意味を一変させる現場に立
ち会わされると、幻術に掛けられたかのごとく、安定的な世界の形と手触りがもろ
くも崩される不安と快感が交錯しよう」と驚嘆する。

 そして、「生成論は「文字」と「声」の間を行き交う中世のテクストにも、電子
メディアで執筆された現在のテクストにも適用できない。まさに近代的な小説作法
と不離の関係にある」と指摘する。──だから何が言いたいのかというと、茂木氏
がとりくんでいる脳と意識の関係をめぐるハード・プロブレムは、物語や文学、と
りわけ「近代的な小説作法」と不離の関係にあるのではないか、ということだ。あ
るいは、草稿研究(生成論的読解)と「パランプセスト」(重ね書き)との関係。

《アルベルティによれば、絵画は一枚のヴェールにほかならなかった。しかしそれ
はいまや少なくとも三枚の表皮になる。絵画が平面上でのイリュージョンにすぎな
いことを示すために、平面が複数化するのだともいえようか。
 こうした表象のありようを「パランプセスト」なる概念と結びつけることができ
ないわけではない。もともとパランプセストとは、書かれた文字を消してさらにそ
の上に文字を書き重ねた羊皮紙のことである。この羊の皮が文学テクストの特質に
関わることは、ジェラール・ジュネットがその『パランプセスト』(一九八二)に
おいて詳らかに論じている。もっともボードレールやトマス・ド・クィンシーにと
っては、それは人間の「脳髄」ないし「記憶」の隠喩[メタファー]にほかならな
かった。》(谷川渥『鏡と皮膚』)

 余録の3。木田元『反哲学史』に書かれていること。プラトンのイデア論に発し
た形而上学的思考様式は、アリストテレスによる「質料─形相」図式の「可能態[
デュナミス]─現実態[エネルゲイア]」図式への組み替えを経て、その後、キリ
スト教の教義体系の整備と組み合わされた「プラトン‐アウグスティヌス主義」と
「アリストテレス‐トマス主義」の二つの流れとなり、西洋文化形成の指導原理(
イデオロギー)の役割を果たしてきた。たとえば、デカルトは前者の系列に属して
いる。そこから生まれたのが数学的・機械論的自然観(精神=理性によって洞察さ
れる量的自然)で、後者の系列に由来する生物主義的・有機体的自然観(肉体的感
覚器官に与えられる質的自然)と対比される。

 してみると、クオリア(感覚質)に着目する茂木氏の「脳科学」は後者の系列に
属する「質的自然学」を志向している、などとと言うことができるのだろうか。あ
るいは、茂木氏の脳科学の理論的な出発点をなしたエルンスト・マッハの「現象学
的物理学」や「感性的要素一元論」(さらにはニーチェの「力への意志」)は後者
の系列に属する、などと言うこともできるだろうか。(これらのことはいずれ『マ
ッハとニーチェ』の再読を通じて考えてみることにしよう。)

 いまひとつ書いておくと、プラトンは『ティマイオス』で「存在(イデア・形相
)─コーラ(場所)─生成(質料)」の図式を示している。ここに出てくる謎めい
た「コーラ」の概念──ハイデガーが『形而上学入門』で「そこでそれが生成する
そこ、媒介、生成するものがそこへと自己を形成し入れるもの、生成するものが、
生成してしまうと次にはそこから抜け出るもの」と説明し、中沢新一氏が『精霊の
王』で「胞衣」にたとえたもの──は脳科学のブレイクスルーを促す可能性を孕ん
でいるのではないか。

 余録の4。これも『反哲学史』に書かれていることなのだが、ニーチェの「力へ
の意志」としての生(レーベン)には、現状確保のための価値定立作用である「認
識」(実践的欲求にもとづく図式化)と、より高い可能性へ高揚するためのもう一
つの価値定立作用である「芸術」(生命感情を高める刺激剤)の二つの機能がある。

 この前者が茂木氏のいう「やさしい問題」に、後者が「むずかしい問題」に対応
しているように思える(ただし、ここで「むずかしい」のは個物の「起源」の問題
ではなくて、もう一つの価値定立の問題)。また、養老孟司氏がいう「情報」と「
システム」、動かないものと動くもの、変化しないもの(DNA)と変化するもの
(細胞)の区分もこれに対応させることができるのではないか。(ついでに書いて
おくと、森岡正博『無痛文明論』に出てくる「身体の欲望」と「生命の欲望」がこ
れらの二対とパラレルな関係をもっているようにも思えるのだが、これはまた別の
問題なのかもしれない。)

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