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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.189 (2003/11/02)
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 □ 柳田邦男『犠牲』
 □ 町田宗鳳著『〈狂い〉と信仰』
 □ 小室直樹『世紀末・戦争の構造』
 □ 立岩真也『私的所有論』
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●639●柳田邦男『犠牲[サクリファイス]』(文春文庫)

 一人の人間の死は重い。とりわけ肉親の自殺は、残された者に重い問いを投げか
ける。しかし、死には意味がない。死に意味を求めてはならない。理解すること。
性急な言葉を慎み、ただ理解すること。彼もしくは彼女の生を、そしてその死を。

《彼が抱いていた究極の恐怖とは、人間の実存の根源にかかわることで、一人の人
間が死ぬと、その人がこの世に生き苦しんだということすら、人々から忘れられ、
歴史から抹消されてしまうという、絶対的な孤独のことだった。》

《われわれは人の死というものを考えるとき、自分の死も他人の死もいっしょくた
にしていることが多い。しかし、死というものには、「一人称の死」「二人称の死
」「三人称の死」があり、それぞれにまったく異質である。》

 これらの言葉に私は深い感銘を覚える。そして、「文庫版へのあとがき」に記さ
れた次の文章を、私は感動をもって読んだ。

《…そうした切々たる[読者の]手紙から伝わってくる深いものがある。それは、
人は悲しみの海のなかから真実の生を掬い取るのだということだ。私自身、息子を
喪った悲しみは、むしろ時がたつにつれて深まるばかりだし、ひとりでいるとき、
何かのきっかけで涙があふれてきて止まらなくなることが、しばしばある。そして、
不思議なことに、悲しみの深まりと比例するかのように、洋二郎の魂の実在、洋二
郎の魂が私の心の中にしっかりと生きているということを、ますます実感するよう
になっている。その実感は、「生きてゆく自分」を日常のなかで自己確認する感覚
に直結しているように思える。》

●640●町田宗鳳著『〈狂い〉と信仰』(PHP新書:1999)

 町田氏は、あらゆる宗教の(そして人間存在の)共通基盤は「狂い」である述べ
ている。「狂い」とは、無意識の領域から突き上げてくる統制しがたい情動であり、
精神医学でいう「生命感情」に近いものである。あらゆる宗教体験の中で能動的に
想像されるイメージは、そのほとんどが「狂い」の産物であるといっても過言では
ない。

 また、町田氏によれば、宗教の原点は苦悩にある。苦悩が救いへと転換する瞬間
を宗教体験と呼ぶことにすれば、これにまず伴うのが言語以前の強烈なイメージで
ある。このイメージ構築力こそが、すなわち、無機物のように静止した知識に魂を
吹き込み、アニメに登場する人間や動物のように生き生きと歌ったり踊ったりさせ
る想像力の働きこそが、たとえば法然のような宗教的天才の原動力であった。

 ――私は本書をとても面白く読んだし、たとえば「次世代の宗教は、人間の依存
心を煽りたてる教団組織から徐々に離れ、豊かな知識と体験に裏打ちされた個人的
洞察力が、その主流になるだろう」(はじめに)とか、「歩行を学ぶ前の幼児が歩
行器を必要とするように、いまだに霊的な意味で独り歩きを達成していない人類は、
現在のところ宗教という歩行器具を欠かすことができない」(あとがき)といった
文章のうちには、まだこの世に現れていない思考のかたちが畳み込まれているよう
に思った。

 ところで、宗教体験に伴う強烈なイメージとは「クオリア」のことではないか、
町田氏がいう「狂い」や創造力は、心と脳をめぐるハード・プロブレムといったい
どのような関係にあるのだろうか。

●641●小室直樹『世紀末・戦争の構造』(徳間文庫)

 私は、ある時期、古代から中世へ移行する時期のキリスト教思想に関心をもって、
手当たりしだいに関連書を読んだことがある。そのとき本書にめぐりあった。詰め
込んだばかりで、やがて迅速に雲散していった生煮えの知識をたっぷりと仕入れた
直後だったので、本書に書かれていることはすべて「真実」だということがよく判
った。(学識のある人間がいっているわけではないので、あまり信用はできないけ
れど。)

 これだけの濃い内容をここまで圧縮して語れる小室直樹は天才である。天才は断
言する。断言し、世界を規定する。そして読み手の力量に応じて世界の理法を開示
する。そういう人物のことを私は天才と呼ぶ。――ちょっと大仰だったかもしれな
い。

《それにしてもなぜ、キリスト教が戦争、国際法、国際政治、国際経済の基礎とな
り得たのか。イスラム教、ユダヤ教、仏教、儒教などとは違った役割を演じ得たの
か。/初めに、キリスト教の理解を徹底しておきたい。/キリスト教の本質は何か。
/カルケドン信条である。/カルケドン信条とは何か。/イエス・キリストは神で
あるという信条である。すなわち、「イエスは完全な人間であり、完全な神である
」という信条である。》

《神としての人間イエスを共有することによって、ヨーロッパは一体化した。共同
体としての普遍世界、キリスト教共同体(corpus christianum)がつくられたので
あった。/カルケドン信条を根本教義[ドグマ]とするという意味でのキリスト教
共同体は、宗教改革によっても微動だにしなかった。ルター、カルヴァンをはじめ
とする宗教改革の指導者たちはすべて、カルケドン信条を信奉していた。三位一体
説と「人間イエスは神である」ことを信じていたのである。これを根本教義とする
点においては、カトリックもプロテスタントもギリシャ正教(ロシア正教)も同じ
である。》

《人間イエスは神である。ゆえに、その言動を記した『福音書』(Gospel)は最高
の啓典である。(略)/この福音書であるが、戒律、法律、規範については全くふ
れられていない。外面的行動(overt behavior)に関する命令、禁止は一言も述べ
られていないのである。(略)/つまり、ユダヤ教やイスラム教の啓典とはちがっ
て、福音書は法源(法律の根本)とはなり得ないのである。新約聖書の福音書以外
の部分も、やはり、法源とはなり得ない。それだけでなく、社会の根本規範[グル
ント・ノルム]も戒律も生まないのである。/これが、キリスト教の特徴である。
/この特徴があるゆえに、キリスト教共同体[コルプス・クリスティアヌム]から、
近代法、近代政治(とくにデモクラシー)、近代経済(資本主義 moderner
 Kapitalismus)が生まれてきて、近代国際社会を形成し、その諸原則がヨーロッ
パの外にも波及してゆくことになったのであった。》

●642●立岩真也『私的所有論』(勁草書房:1997.9)

 序と後書(「おわりに」)、それから目次と全九章の冒頭に掲げられた概要説明
を熟読してから、著者の「言いたいこと」「言えること」が書かれている第四章(
「他者」)と第五章(「線引き問題という問題」)を中心に本文をざっと読んだ。

 「本書で行うのは、この社会にあるもの、しかし充分な記述が与えられていない
ものを記述する試みである」と著者は(第1章で)書いている。それをひとまず、
例えば「他者」をめぐって「何かきっと大切なことを述べたらしい」ハイデガーや
レヴィナスなどの助けを借りないで、「まず、こういう具合に考えていくとこうい
うものがあると考えられる」ことを記そうと思う、と。

 著者の思索の跡を丹念にたどってみたわけではないので軽々に要約などできない
し、印象的な文章を引用してお茶を濁すこともしたくない。いつかまた読むことに
なるだろう。いまはただ、本書のキーワードである(と私は思う)「感覚」という
語の含意をまるごと引き受けておく。

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