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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.188 (2003/10/26)
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 □ 小岸昭『十字架とダビデの星』
 □ 小岸昭『離散するユダヤ人』
 □ ピーター・ゲイ『神なきユダヤ人』
 □ J.ドイッチャー『非ユダヤ的ユダヤ人』
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●635●小岸昭『十字架とダビデの星』(NHKブックス:1999.3)

 マステクトミー(乳房切除)の手術を受けた六人の半裸のユダヤ人女性の写真の
紹介から始まる序文も、アシュケナージ(中東部ヨーロッパ出身のユダヤ人)の血
筋を引く「半ユダヤ人」アドルノやプルーストのマラーノ性への言及とブラジルや
インド(ゴア)へ離散した改宗ユダヤ人の足跡を追う旅の記録からなる第一部も、
そしてベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」を執拗低音としつつポルトガルのベルモン
テ(美しい山)に「最後のマラーノ」を訪ねる旅を叙述した第三部も、それぞれ独
特の陰影をたたえた文章で綴られた「記憶」をめぐるフィールドワーク文学とでも
いうべき手触りを与えてくれた。

 本書でもっとも興味深かったのはやはり、自由の人スピノザを中心に据えつつ(
レンブラントもからませながら)十七世紀の「寛容都市」アムステルダムにあって
「マラーノの自由思想」への不寛容主義をもって臨まなくてはならなかったユダヤ
人共同体の実相を論じた第二部だった。スピノザの「内在の哲学」への、つまり大
著『スピノザ 異端の系譜』(イルミヤフ・ヨベル)への格好の導きの書。

●636●小岸昭『離散するユダヤ人』(岩波新書)

 著者は本書で、近代カバラ創始者の一人イサーク・ルリア(1572没)の「器の破
壊」理論を取り上げ、この理論は近世初期の神秘主義者からシェリング、モーリト
アその他のドイツ・ロマン派哲学者、ショーレム、ベンヤミン、アドルノ、ブロッ
ホに至るまで、ドイツの思想家に計り知れない影響を与えたとしている。

《ルリアの考えによれば、一切であった神は、世界を創造するのに先立って自己自
身の内部へ収縮・撤退した。かくて、神不在の真空地帯は、悪の跳梁をゆるす空間
となった。》

 ──神の収縮[ツィムツム]は神の「亡命」とも表現され(ショーレム)、1492
年の大追放によってスペインから離散の旅に出たユダヤ人(カトリックへの改宗を
拒んだ「セファルディ」あるいは改宗者「マラーノ」)の境遇に重ね合わせて考え
ることができる。

《セファルディあるいはマラーノを襲った、このような破局を、イサーク・ルリア
は壮大な宇宙のドラマのように描いたのである。この場合、神の内部から、神自身
の展開として一〇個のセフィロト[神の根本属性]が、種々の純度をもって生まれ
てくるが、この一〇個のセフィロトは同時に神の器でもある。だが、最初の三つの
セフィロト…だけが、神の原光を受け入れることができた。神聖な光の流れが沈下
して下の七つのセフィロトの層におよんだ時、七つのセフィロトはその光をとらえ
られないどころか、それによって破壊されてしまう。》

 こうしてできた神の器の破片(殻[ケリッポト])の堆積の中から悪の力が生ま
れ、ディアスポラの境遇にあるユダヤ人とともに神の臨在[シェキーナ]もまた追
放の身の上にあることとなる。

《以上が、器の破壊…の概要であるが、これには破壊された器の修復「ティクーン
」という最後の弁証法的展開が接続している。すなわち、いつの日か神聖な火花が
殻「ケリッポト」から解放されることがあるとすれば、神聖な光の追放と流謫もま
た終わりを告げたことになるのであり、ここに人間と宇宙の救済が成就されること
になる。…したがって、追放あるいは流謫は、逆に見ると、悪の持つ力を奪い、聖
なる光をその捕縛状態から救済することを目指すことになるのだ。ルリアのカバラ
思想によれば、個々の人々が各自の魂に課せられた「ティクーン」の使命を果たし
た時、世界は調和ある状態に達し、メシア時代の幕開けにいたるという。》

 以上に紹介したのは、私が刊行直後に本書を読んだ際、もっとも印象に残った事
柄である。イサーク・ルリアの名はそのとき初めて知った。実をいうと、その理論
の実質はいまひとつ腑に落ちなかったのだが、その後、関連の書物を読み漁ってみ
て、「器の破壊」理論の衝撃的ともいうべき深さと射程の広さを知った。(まだよ
く理解できているとはいえないけれども。)

 いずれにせよ本書は、啓蒙書、入門書とジャンル分けされる書物との幸運な出会
いの一例として、私の脳髄のなかにいつまでも懐かしく残るだろうと思う。

 補遺。いまひとつ、これだけは引用しておきたい文章があった。

《ユードゥアルト・フックスによれば、少なくとも千年間は砂漠の中に暮らしてい
たというユダヤ人は、その「研ぎすまされた聴覚」によって、迫り来る危険をいち
早く察知する能力を身につけていた。…こうして砂漠の経験は、忍び寄る危険の察
知能力ばかりでなく、あらゆる状況の変化への同化能力を彼らの中に発達させた。
…それだけにとどまらずユダヤ人は、すべてを明るい光の下に見るという、砂漠で
培ったもうひとつの能力、すなわち文学的・哲学的な思考や経済活動などの分野で
発揮される、そのずばぬけた抽象能力を携えて、世界各地に離散して行ったのであ
る。》

●637●ピーター・ゲイ『神なきユダヤ人』(入江良平訳,みすず書房)

 著者は、「誰であれ信仰をもつ者は、原理的に、精神分析を発見できなかったの
だろうか」と問いを提出する。「最初の精神分析家は、神なき[ゴッドレス]ユダ
ヤ人でなければならなかったのだろうか」。

《フロイトが精神分析家になる前から無神論者だったことを証明する必要はない。
私が証明したいのは、むしろ、フロイトが精神分析家になったのは、多分に彼が無
神論者であったためであるということなのだ。》

《この最後の主張[引用者註:フロイトの精神分析と、フロイトを「善きキリスト
教徒」と呼んだフィスターの神学が、ともに愛を人生の中核とみなしているもので
あるとする主張]はそう唐突なものではない。フィスターと同様、フロイトもはっ
きり精神分析における性愛[エロティシズム]を牧会[パストラル・ケア]の核心
にある愛になぞらえている。彼はこれとほぼ同じことをユングに語り、精神分析と
は「本質的に言って、愛によってもたらされる癒しです」と述べている。》

《私の示唆したいのは、フロイトの規定されざるユダヤ性の感覚なるものが、獲得
形質の遺伝についての彼の執拗な信念の一特殊事例ではなかろうかということであ
る。(略)フロイトは自分のユダヤ性を、なんらかのかたちで系統発生的な素質の
一部をなすものとみていた。一九二二年、彼はフェレンツィを相手に、自分の内面
から湧き起ってくる「奇妙な、密かな憧憬」について考えをめぐらせた。「これは
おそらく私の祖先からの遺伝に由来するものでしょう──オリエントと地中海世界、
まったく異なる種類の生活への憧憬、現実にうまく適応していなかった幼年時代後
期からの願望なのでしょう。」古代に対するフロイトの情熱、彼が何年もかけて勤
勉に収集した飾り板や小彫刻類に対する情熱は、幾重にも多元決定されている。し
かしこの「有史以前に対する偏愛」が形成された理由の一つは、それらが一度も訪
れたことがないけれど、彼が密かに自分の本当の故郷だと考えていた世界を思い起
こさせる力をもっていたからだということは間違いない。これこそフロイトが『ト
ーテムとタブー』のヘブライ語版への序文の中で伝えたかったことだった。》

 以上、思いつくまま任意の抜き書きを重ねてみたものの、本書が埋蔵する尽きせ
ぬ鉱脈の一端をすら紹介することはできない。いずれにせよ私は、本書を読んで自
分自身の貧弱なフロイト像を更新させられた。これだけは書いておこう。

●638●J.ドイッチャー『非ユダヤ的ユダヤ人』(鈴木一郎訳,岩波新書)

 柄谷行人氏がある講演で聴衆に一読を勧めていたので読んでみた。読んでみてち
ょっと興奮した。この書物には、何と言えばいいのか、圧倒的な真実とでも形容す
べきものが潜んでいる。

《かれら[引用者註:スピノザ、ハイネ、マルクス、ローザ・ルクセンブルグ、ト
ロツキー、フロイトなど]はすべて決定論者である。すなわち多くの社会を考察し、
身近にいろいろな「人生のあり方」を学んだかれらは、人生の基本的な法則性を把
握したのである。かれらの思考様式は弁証法的である。なぜなら諸国家、諸宗教の
限界線上に生きたかれらは、社会を流動の中に捕えるからである。かれらは現実を
静的にではなく、動的に理解している。》

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