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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.187 (2003/10/13)
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 □ 東秀紀『荷風とル・コルビュジエのパリ』
 □ 長谷川堯『都市廻廊』
 □ 川勝平太『文明の海洋史観』
 □ 米本昌平『知政学のすすめ』
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このところ、毎日が忙しく、思うように本が読めません。読めても、感想が書けま
せん。で、こういうときのための、「昔読んだ本」シリーズ。
 

●631●東秀紀『荷風とル・コルビュジエのパリ』(新潮社)

 著者は、永井荷風とコルビュジェという──ともに今世紀初頭のパリに遭遇し、
以来、自らの芸術の主軸に都市との関係を据えたことを唯一の交点とする以外は─
─まったく正反対の思想と経歴をもつ二人の芸術家の足跡を対比させている。

 荷風は、随筆『日和下駄』に示されているように、江戸時代以来の風景のうちに
具体的な理想都市空間を見い出していったのだが、東氏によれば、その原体験は裏
路地や墓地といったパリの「暗色世界」にあった。

《狭い路地だが、人々の生活の匂いがふんぷんとし、古くからの記憶がこめられて
いる街角。人々が生まれ、成長し、泣き、喜び、そしてひっそりと死んでいく場所。
さまざまの痕跡と景観が、想像力をかきたて、物語を育んでいく小路。オスマンの
改造の際に取り壊しを免れた、そういう「暗色世界」のパリこそが、住民たちにと
って住みやすく、離れがたいものにしている、この都市の本質であり、文明の本質
であり、文明の圧力や技術の発展を越えて、なおパリを生き続けさせていくものだ、
と荷風は見て取ったのである。》

 そもそもパリは、今世紀初頭に城壁が撤去されるまで中性都市の性格を保持して
いた。中世都市とは、東氏によれば、狭い道路をもち「一つの区域や建物にブルジ
ョワジーから労働者まで雑多な人間が同居し、働く場と生活する場が混在した、コ
ンパクトで高密度な都市空間」のことなのだが、それは荷風の理想都市そのものだ
ったのである。

 これに対してコルビュジェが見たパリは、オスマンによって新設されたブールヴ
ァール(大通り)であり、マチスやピカソによって新しい芸術の潮流が胎動してい
た活気あふれる都市であった。それは、「あらゆる人と情報が集中し、展開する世
界都市」であり「古典と前衛の芸術が共存し、理性的な精神と感性的な情緒の交差
する都」だったのである。

 このようなパリ体験の質の違いを反映して、コルビュジェの理想都市は、高層建
築や高速道路に象徴されるように機械化・工業化される社会の未来を楽観視したも
ので、荷風のそれとはまったく対照的なものだった。

 しかし、著者によれば、晩年のコルビュジェが手がけた建築作品──ロンシャン
礼拝堂、ラ・トゥーレット修道院、未完に終わったヴェネツィアの病院──は、「
かつての機能や効率性優先とは異なった、精神的な方向に修正し、より高い次元で
完結させようと」したものだった。とりわけラ・トゥーレット修道院は、「人々が
自然とともに生き、日々の安らぎと平穏を祈る中世都市の再現」としての集合住宅
だったのである。

 著者が引用しているインタビューで、かつて「住居は住む機械である」としたコ
ルビュジェが次のように語っている。

《住居とは家族にとっての神殿である。その中にこそ、人間の幸福の大きな部分が
あると私は信じている。なぜ私がそれ程人間の幸福にこだわるのかは分からないが、
人間の痛みを和らげる努力をすること、生きる喜びをもたらすことを私は愛してい
る。》

 こうしてコルビュジェは大きな軌跡を描いた後で、荷風と同じ場所に立つことと
なった。しかしそれは決してコルビュジェの挫折でも変身でもない。あるいは若き
コルビュジェが師事したレプラトニエが、スイスで展開しようとしていたアーツ・
アンド・クラフツ運動──「大量生産の工業技術が進行する中で、もう一度中世以
来の職人芸を見直し、自然の世界へと回帰することによって、芸術を復権させよう
という運動」──への復帰でもないだろう。それはあくまでも、機能主義、合理主
義をより高い次元で完結させようとする努力の結晶だったのだ。

 荷風・ラスキンとコルビュジェ、あるいは中世主義の陰翳とモダニズムの光。こ
れらは単純な対立関係にあるものではない。造園における「景」と「用」のように、
両者は実は不即不離の関係にある。

●632●長谷川堯『都市廻廊 あるいは建築の中世主義』(中公文庫)

 現代の都市を語るとき、本書に示された洞察を抜きにすることは許されない。た
とえば著者は、ハワードの「ガーデン・シティ」の源流は、中世都市ヴェネツィア
をこよなく愛したジョン・ラスキンの建築美学、すなわち「中世主義」にあると書
いている。

 中世都市は、原理として「囲い地」である。ここで原理としてという意味は、城
壁のように物理的に囲まれている場合だけではなく、たとえば堺の町には壁のかわ
りに堀(水の囲壁)があったこと、ヴェネツィアにとってアドリア海の海水が都市
壁であったこと、「固体の海」ともいえる砂漠地帯や山岳都市では地理的条件その
ものが自然の囲い壁として働いたこと、さらにはユダヤ教やキリスト教の支配する
世界において洪水のなかのノアの箱船が都市の原像であったことをも含めて考える
ためだ。

 囲まれることによって内部空間が成立し、とりわけアーバン・インテリアとして
の街路と建築が、「人が玄関の扉をあけて家へ入ったとたんに自分の家の内部を身
体化するのと同じように、都市門をくぐって一歩足を都市内に踏み入れた時に、市
民たちに故郷のくつろぎを、あるいは母胎のなかの親しさを一挙に身体化させてし
まう」ものとして成立しているとき、都市は「囲い地」としての内密性や居住者ど
うしの濃密な交わりに満たされるだろう。

 囲まれた都市は、「内攻する空間を醸造する」。マーケットとしての広場、内面
性の共有を祈りのかたちで表現する神殿や寺院(中世ヨーロッパの場合、カテドラ
ルは垂直性の表現を強調した)、そして祝祭。とりわけ表通りと裏通りからなる街
路は、様々な都市の記憶を痕跡として保存し、人々の出会いの場となる。

《ヨーロッパ中世都市の大部分がそうであるように、都市の道路は、まがりくねっ
た見透しのききにくいものの方がふさわしい。なぜ都市の街路はまがりくねってい
るのだろうか。極く単純にいえば真直ぐな道を通すにはある程度集中化された権力
が不可欠なのだ。…しかし都市にはそうした権力の集中は禁物であった。理念とし
ては、同じ船に乗り込んだものとして運命をひとつにしていた都市民たちにとって、
例外的に生きのびる唯一の権力者というイメージはやはり許せないものであるはず
であった。道は細くまがっていることによって生き、自由なのだ。…この紆余曲折
をくりかえす街路に面して〈囲い地〉の中に自らを閉じ込めた者たちの住居や商店
や仕事場をおさめた、二、三階建の建物が建ちならぶ。このように街路に直面して
連続する家屋とその街路の屈曲は、生物の内臓の管のようなものに見える。…市民
は街路を通過するコミュニティの栄養(とりすましていえば情報といったことにな
ろうか)をそこから吸収するのである。》

 永井荷風が江戸切図を懐中にし、日和下駄をカラカラ鳴らして歩いた東京の裏通
りも、著者がいう「管」であった。『日和下駄』に描写されているもの、たとえば
市区改正(当時の東京の都市計画事業)から取り残された「市中の廃址」は、「管
」を通して荷風が吸収(観察)したコミュニティの情報、すなわち囲い地としての
都市の記憶にほかならなかった。

●633●川勝平太『文明の海洋史観』(中央公論社)

 川勝氏は本書で「庭園の島」というコンセプトを掲げている。

《日本人が「家」と「庭」を一体とした生活様式をもち、緑したたる景観を作りあ
げれば、“庭園の島(Garden Islands)”の評判を得て観光客が増えるに違いない。
それは内需拡大と観光客増大という一石二鳥の経済効果をもたらすばかりか、日本
文化の再生となり、生活に自信と誇りを与えるであろう。日本固有の価値である「
自然との調和」を、暮らしの立て方の基礎である「家」「庭」一体の本来の「家庭
」を再構築することによって実現できるのである。宮沢賢治が岩手県の理想型を作
ろうとしたように、多様な自然の理想型が各地で実現すれば、日本は花のある“庭
園の島(Garden Islands)”として、「太平洋に浮かぶアルカディア(理想郷)」
と呼ばれるにちがいない。「太平洋に浮かぶ“庭園の島(Garden Islands)”日本
」は夢ではない。日本人の生活風景はかつてそう呼ばれたように「アルカディア(
理想郷)」「エデンの園」たりうる。》

 川勝氏の説くガーデン・アイランズ論は、二つの要素をもっている。

 その一は、日本型のガーデン・シティ(田園郊外)がはらんでいた可能性を現代
において再評価する契機をもっていることである。ここでいう日本型田園都市の可
能性とは、大屋霊城が花苑都市論で述べていた「精神的の楽天地」としての「職工
村」のアイデアに見られるような、都市をその居住者の精神的充足においてとらえ
る発想──生活美学を通して都市を考える観点──をいう。

 川勝氏の提案は、大都市とこれに従属する郊外住宅地(田園郊外)といった旧来
の関係を、情報インフラをはじめとする社会基盤の整備による職住一体化(大屋霊
城にならって、これに「遊」を加えることもできるだろう)によってくつがえし、
さらにこれを都市部と過疎部(多自然居住地域)の関係として列島全体にまで拡張
しようというものだ。

 その二は、都市を「島」と見たてることによって、多様な歴史、文化、風土から
なる群島として都市のネットワーク(連携)を構築する視点を提示していることで
ある。

 その背景には、マルクス由来の唯物史観とこれに抗する梅棹忠夫の生態史観をと
もに「陸地史観」として批判し、独自の「海洋史観」を提唱する川勝氏の文明論的
な展望がひかえているのだが、ここでは、「群島」としての水平的な都市のネット
ワークが国境という(陸地史観的な)囲いを越えて、西太平洋の島々(川勝氏のい
う「豊穰の半月弧」)へとつながっていくものであることを確認しておきたい。そ
れは、ハワードがガーデン・シティを都市群として構想していたことの現代版と見
ていいだろう。

 川勝氏のガーデン・アイランズ論は、中央集権的あるいは帝国主義的な権力構造
を不断に解体しつつ、都市連合としての国土構造の骨格と国際的な関係構築の方向
までも示そうとするものであり、まさに21世紀の理想都市構想にふさわしいビジョ
ンではないかと思うのである。

●634●米本昌平『知政学のすすめ』(中央公論社:1998)

 この本は現代人の必読書である。私は断言する。以下は、本書の「要約」。

 ──社会的脅威に対する政治的対応、たとえば地球環境問題や地震対策も含めた
広義の安全保障対策を有効に講じていくためには、「知」と「政」の一体化を図り、
社会的道具としての国家=公権力の活用による理想社会の実現をめざすこと、すな
わち科学研究と広義の政治的課題を一体化させ、政治的課題・問題解決のために人
類の知的貯蔵庫を組み立て直し活用する「知政学」が確立されなければならない。

 しかるにわが国の現状を見ると、明治以来の政治とアカデミズムの分離(「ダー
ティ」な政治と世俗にかかわらないことを旨とする「象牙の塔」の分離)や、冷戦
時代のイデオロギー的二分思考(「体制」派と国家=巨悪説に立脚する「反体制」
派の対立)の影響もあって、政策立案作業の官僚独占とそれを支える国民的信念と
からなる「構造化されたパターナリズム」が蔓延している。

《政策立案は中央官僚(お上)の専管事項とするイデオロギーが、日本全体を覆っ
てきた。霞ヶ関には優秀な人間が集まっているという神話と、あたかもすべての監
督責任が中央省庁にあったかのような了解の上で、何かことが起こるとただちに、
政府は何をやっている! と批判し要望をぶつける社会的態度が蔓延したのである。
そして、大学アカデミズムも含めて、霞ヶ関以外には具体的な政策提案を行う能力
はどこにもなく、また霞ヶ関以外のものはこれをすべきではない、という社会解釈
が共有されている。私は、このような権力観を「構造化されたパターナリズム(
structural paternalism)」と呼んできた。》

 こうした「構造化されたパターナリズム」から脱却し、21世紀へ向けた「知政
学」を確立していくための戦略は、次の通りである。

 まず、行政機構は自分たちが活用すべき社会的道具であると見定めて、個々人が
それぞれの問題意識と関心にそってともかく調査や研究を開始し、知的な主体とし
て自らを築いていくこと。

 そのためにも、大学アカデミズムを解体再編し、たとえば国立大学の自治体への
移管により、医療・福祉・環境といった地域レベルの知的課題に関する研究センタ
ーとしてこれを再編し、調査研究と行政サービスの融合、行政とアカデミズムの交
流を図るとともに、その研究活動の一般市民への解放、いいかえれば「消費として
の研究」(公共的課題に即した生涯学習)を支えていくこと。

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