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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.186 (2003/10/05)
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 □ 大川勇『可能性感覚』
 □ 鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』
 □ ウィトゲンシュタイン/野矢茂樹訳『論理哲学論考』
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●628●大川勇『可能性感覚──中欧におけるもうひとつの精神史』
                           (松籟社:2003.2.20)

 『ユリシーズ』や『失われた時を求めて』と並び立つ二十世紀文学の巨峰『特性
のない男』。世紀転換期ヴィーンを生きた「知性の作家」ムージルの手になるこの
「哲学者の小説」の主人公ウルリヒは可能性感覚を、つまり「存在することも可能
であろうすべてのものを考え、存在するものを存在しないものよりも重要視しない
能力」(ムージル)をもつがゆえに特性のない男になる。

 著者によると、可能性感覚は次の三つの要素が渾然一体となった意識感覚もしく
は思考能力のことである。第一に、現にあるものを別様でもありうるものと見なす
こと、すなわち存在物にたいする「偶然性の認識」。第二に、現実の背後に可能性
として潜在する無数の世界を呼び起こすこと、したがって無限の多様性を保証する
「多元主義への傾斜」。第三に、現実という固定した枠組みからの超出をうながす
こと、いいかえれば現実を虚構化し、これとは別の現実に向かう「ユートピア的思
惟」。

 この可能性感覚を生み出した精神史的水脈をたずねて、著者はまずライプニッツ
の可能世界論へと遡行し、次いで『セヴァランブ物語』(ヴェラス)や『フェルゼ
ンブルク島』(シュナーベル)といった近現代のユートピア文学、さらにはサイエ
ンス・フィクションの流れ、エピクロスやクザーヌスに受け継がれていった世界の
複数性の観念をたどる。

 そしてフロイトとケルゼンとウィトゲンシュタインを、とりわけマッハを生んだ
世紀転換期オーストリア=ハンガリー二重帝国の知的風土を丹念に叙述し、最後に
マイノングやマンハイムとの親和性を論じながら「実験意識にもとづいたユートピ
ア的思惟」──《いうまでもなく、それはユートピアを「可能性」と等置し、さら
には「実験」と倒置して、ユートピア生成の過程を「研究者が複合的な現象のなか
でひとつの要素の変化を観察し、そこから結論を導きだす」行為と同一視したムー
ジルの思考法でもあった》(426頁)──がもつ現代性、つまり工学の時代におい
て文学的創造力がはらむ意義を論じる。「可能性人間の発展はまだ終わっていない
」(ムージル)。

 独文学者としての領分を大胆に越境していくその姿勢はまことに好ましく、あと
がきに予告された後続書、それは「現実を超越する意識」を核心とする教養につい
ての研究だというのだが、これもまた大いにそそられる。

●629●鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた
     ──哲学的思考の全軌跡1912−1951 』(講談社現代新書:2003.7.20)

 思考は日付を持っている。少なくとも、生きることがすなわち哲学することであ
ったウィトゲンシュタインの「哲学的生」に刻みつけられた日々の思考の記録は。
(ウィトゲンシュタイン自身は、その哲学的思考の最小単位を「ベメルクンク」す
なわち「考察」と呼んだ。著者は、それを「救いの言葉」という。)

 ウィトゲンシュタイン・クロニクルとも言うべき本書の魅力は、編集以前の膨大
な考察が記された遺稿への「遺伝子操作」にも似た文献学的腑分けを経て再構築さ
れた「常に自己の生と救済を目指した個人的で私的な営み」の異例な苛烈さと、そ
の果ての無名の幸福へと到る「長い思考の旅」の全貌を描ききったところにある。

《ある男が奇妙で複雑な哲学的問題について生涯考え続けたとしよう。彼の思考が
生み出したものは何の役にも立たず、誰の関心も惹かなかったが、彼は哲学的思考
のおかげで生きることができ、その果てに安らかに死ぬことができた。この男の生
涯は幸福だったのであり、男の哲学的思考は彼にとって比類なき価値を持っていた
のである。》(7-8頁)

 著者によると、ウィトゲンシュタインが生涯考え続けた哲学的問題の一つは言語
(論理)であり、いま一つは生(独我論)であった。そして、この二つのテーマの
内在的な結びつきを探ることがウィトゲンシュタインの思考の究極の目的であった。
以下、この三つの問題について述べられた本書のハイライトの部分を、前後の脈絡
を飛ばして引用しておく。それぞれのキーワードは「論理神学」と「私哲学」と「
魂有る「私」」である。

《『論考』でのウィトゲンシュタインは、自己の論理的神秘主義に背き、安易な神
秘主義に転落してしまったのだが、『論考』が示した論理的神秘主義という理念そ
のものは極めて大きな意味を持っている。それは我々の時代における「神」に関す
る語り方の、一つの可能性を示したといってもよいだろう。それは我々の時代にお
ける神学の一つのあり方、論理神学と呼びうるものである。(中略)論理神学とは
論理と言語の限界を論証的に示すことにより、超越的存在を間接的に意味する営み
である。》(86-87頁)

《そこ[『哲学探求』]で独我論と独我論的衝動は抑圧されているのではない。ウ
ィトゲンシュタインは自らの徹底した哲学的思考により病理からすでに救済された
のである。従って「哲学者は問題を、病気を治療するように扱う」(『探求』§255)
という有名な「治療的哲学観」も、哲学的小言辛兵衛としての批判哲学の表明(も
しそうだとすれば、ウィトゲンシュタインとはいかにいやな男か)ではなく、自ら
の生を救済し導いてきた唯一可能な生き方としての哲学的思考の表明だと理解でき
る。(中略)こうした極めて私的な営みとしての哲学のあり方を(私小説という言
葉に倣って)私哲学と呼びうるだろう。》(314頁)

《魂を持った「私」の存在こそ言語ゲーム、つまり言語を可能とするのであり、そ
れなくして言語ゲームは単なる模倣と反応でしかない。これこそウィトゲンシュタ
イン…の最後の思考というべきものである。人は魂を持つことによってのみ語る存
在となることができる。(中略)こうしてウィトゲンシュタインはその長い思考の
旅の果てに、言語の根底としての「私」、魂を持った「私」という存在を見出した
のである。言語ゲーム・言語は公的論理によって規定されている。しかし公的論理
はあくまで人間の活動の化石化した痕跡にすぎない。それは言語ゲームに形を与え
ることはできても、力と命を与えることはできない。言葉が力を持ち、我々が言葉
に動かされ、言葉を生きるのは、我々が言葉を通じて自らを魂有る「私」として在
らしめるからに他ならない。かつてL.W.という人間に愛されすぎたために深い淵
の中へと失われた「私」という名の小さな魂は、こうしてL.W.自身によって淵か
ら再び引き上げられたのである。》(415-417頁)

●630●ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
                    (野矢茂樹訳,岩波文庫:2003.8.19)

 「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(坂井秀寿訳『論理哲学
論考』、法政大学出版局)。「話をするのが不可能なことについては、人は沈黙せ
ねばならない」(奥雅博訳『ウィトゲンシュタイン全集1』、大修館書店)──い
ま手許にある二つの訳を較べると、前者の方が断然好み。でも、後者には「草稿一
九一四‐一九一六」が載っていて重宝。これまで、中央公論の世界の名著版も含め
て、私にとっての秘教の聖典『論理哲学論考』は、常時持ち運ぶにはやや重かった。
やっとハンディな文庫本になった。それも、名著『ウィトゲンシュタイン『論理哲
学論考』を読む』を書いた野矢茂樹さんの訳で。うれしい。ちなみに、野矢訳では
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」。

 文庫カバーに「極度に凝縮されたそのスタイルと独創的な内容は、底知れぬ魅力
と「危険」に満ちている」とある。この「危険」の意味について、訳者解説では次
のように書かれている。「それにしても、『論考』という著作は妖しい光を放って
いる。読む者を射抜き、立ちすくませ、うっとりさせる力を擁している。それはお
そらくすばらしいことなのではあろうが、危険でもある。うっとりしながら哲学を
することはできない。」──橋爪大三郎氏が朝日新聞(10月5日)の「カジュアル
読書」欄のコラムで、「邪魔なラッセルの序文を後ろに回すなど、気がきいている
」と書いている。同感。

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