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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.185 (2003/09/23)
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 □ 松岡正剛『本の読み方(四)』
 □ 松岡正剛『本の読み方(五)』
 □ 松岡正剛『山水思想』
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●625●松岡正剛『本の読み方(四)──編集格闘技』
              (デジタオブックレット010,デジタオ:2003.8.25)

●626●松岡正剛『本の読み方(五)──日本語の気分』
              (デジタオブックレット011,デジタオ:2003.8.25)

 松岡正剛がいう「編集」の概念がいまだによくわからない。たとえば連載第四十
五回「言葉を喋るように書いた男」で、松岡正剛は言文一致の実験を生み出した二
葉亭四迷の生き方のうちに「ひとつの編集哲学の典型」を見ると書き、そのすぐ後
で次の定義を与えている。「編集とは、一見バラバラになってしまったものをなん
とかしてくっつけようとする活動のことなのである。気分と言葉をつなげ、映像と
物語を重ね、哲学と人生をつなげること、それが編集なのだ。」

 ここまでなら、まだその雰囲気はわかるような気がする。しかし、第四十六回(
最終回)「編集工学的読書術」で「読書は言葉を媒介にした編集ゲームである」と
規定し、キリスト教や仏教を例に挙げて「歴史を綴ること、物語をつくること、伝
達すること、すべて編集である」と述べ、最後に「いや、そもそも思考をすること
や話すということが立派な編集なのだ」と書いているのを目にするや、とたんに茫
漠としてくる。

 ヒントはたぶん二つあって、一つは、コンテンツ(だけ)ではなくスタイルだと
いうこと。いま一つは、編集の主体とは何か(あるいは「編集の歴史」を駆動する
ものは何か)ということなのだろう。「漱石を読むことは漱石の主体的な表世界に
接するというだけではなく、漱石によって編集された世界の一部に接地するという
ことなのだ。」(最終回)

 ここに出てくる漱石をシェイクスピアに置き換えて、たとえば「われわれがダン
テ、あるいはシェイクスピアの詩を読みかえしたとする、その時われわれはなんら
かの形でそれらの詩を書いた瞬間のシェイクスピア、あるいはダンテになるのであ
る」(『ボルヘス、オラル』)や、「翻訳とは、移植したいという渇望とは、シェ
ークスピアをバントゥー語に持ち込むことが肝要なのではない。バントゥー語をシ
ェークスピアに持ち込むことなのだ」(リチャード・パワーズ『黄金虫変奏曲』)
と結びつけて考えるならば、編集の主体(それはけっして生身の漱石やシェイクス
ピアのことではない)をめぐるひとつの思考のかたちが見えてくると思う。

 第三十五回「ぼくがどんな本を書いてきたのか、教えてあげる(下)」で、松岡正
剛は自著『知の編集工学』について「ぼくはこの本で編集工学のノウハウを披露す
るふりをして、実はぼくが以前から「編集的世界観」とよんできた編集工学思想を
展開してみせた」と書いている。この本は以前に読んだ。再読して松岡式「編集的
世界観」の精髄を確認しておこう。(それから『知の編集術』も再読しておこう。)

 ──第三十八回「鏡の国のアリス」での「読書は自分の中のアリスとテレスを発
見することでもある」という指摘が面白かった。「アリスは本の中で迷い、謎をか
けられ、夢中になったり逃げ出したくなったりする。読み終わると、ダストシュー
トから放り出されたように、ポンと外界に戻ってくる。テレスはどこか気がつかな
いところ、うずくまっている。読んでいくうちに、その姿がはっきりし、やがてそ
の正体が見えてくる。」

 それから、同じ「鏡の国のアリス」に出てくる「ぼくは露伴を読むのが好きで、
青年時代から何度も渉猟してきた」という言葉も。松岡正剛は現代の幸田露伴だと、
前々から直観的に(つまり、あまり根拠なく)思ってきたことの一つの証拠(?)
が得られた。

 補遺。『山水思想』に「中世はコトをモノにした時代だった。方法が文化になっ
た時代なのだ。芸術が自立する構想を初めてつくりあげた時代だった」(34頁)と
いう文章が出てきた。それはほとんど「中世は編集の時代だった」というのに等し
い。その「編集」について、松岡正剛は次のように書いている。

《雪舟は絵画上の編集をはじめたのである。
 ここで「編集」といっているのは、事実や様式の集積から自由にイメージを引き
出すことをいう。もうすこしわかりやすくいえば、変化をつくり、関係を動かし、
新たに生まれてくる意味を汲み上げながら発見することである。
 日本人はそのような編集が下手なわけではなかった。むしろ編集は得意であった。
仏教世界でいうのなら、すでに古代に傑出して道昭に、あるいは最澄や空海に、ま
た道元や重源に先行していた方法である。また、文芸世界では人麻呂や家持に、貫
之や定家に開花していたものである。それは日本文化史が秘める独特の方法、すな
わち「引用性と独創性の対同」ともいうべき妙技だった。
 それを初めて山水画の領域で実験したのが雪舟だった。》(86頁)

 ちなみに、次の文章を読むと、山水とはまさに編集である、そして編集とは方法
であり、方法とは思想である、ということがわかる。《確信できるのは、「山水と
は方法の自由のための世界である」ということである。水墨画が描こうとした山水
とは「山水という方法」だったということである。》(432頁)《私はこういう方
法こそが思想であり、方法こそが芸術であり、方法こそがデザインで、方法こそが
音楽だとおもっている。》(436頁)

●627●松岡正剛『山水思想──もうひとつの日本』(五月書房:2003.6.10)

 二○○○年、NHKの視聴者アンケートによる日本の美術作品一○○選の特集で、
俵屋宗達や葛飾北斎を尻目に第一位に輝いたのは長谷川等伯の『松林図屏風』だっ
た。著者が「透明な奔放」あるいは「水水しい」と形容するその画風は、中国の水
墨山水画に例を見ない日本独自の方法、すなわち「余白」と「湿潤」を特徴とする
「山水思想」の奇跡的な出現を告げるものであった。

 本書はこの等伯による日本画の「発見」を中心に据え、水墨画の導入・模倣から
和様山水の出現へと到る「中国離れ」の前史と、江戸中期の俳諧や文人画や俳画に
おける「遊芸」を例外として、その「方法の魂」とも言うべきもの(負の介在)が
見失われていった後史とを、著者の個人史を織り込みながら丹念に、また東アジア
とヨーロッパの動向を交錯させながら大胆に叙述した作品である。

 「和の山水」のうちに結晶した日本的なるものの観念と感覚と方法を余すところ
なく摘出し、たんに美術史上のことを超えて、西洋文化の意匠をまとった近代日本
の「鍵と鍵穴の関係」にまで説き及ぶ。編集史観ともいうべき著者の方法=思想は、
いよいよ深遠の域に達しつつある。

《まず中国的な山水がある。これは当時の日本から見れば、「真の山水」のモデル
ともいうべきものである。それが日本に移行されるにしたがってサイズを変え、画
境と心境の合致に進むにあたっては激しい消去と限界の精神をともなった。道元の
思想の特色はそこにある。
 そこには実在の山水よりも「思えば山水」ともいうべき発想への転換がおこって
いる。枯山水とは「仮山水」でもあったのだ。
 つまりは、どこかで「負の介在」がおこったとおもうべきなのである。
 枯山水は、あたかも山水の実在を否定するかのような“無化”をおこしているか
に見える。けれども、そうではなかったのだ。“無化”をおこしていそうなのだが、
それとともに、その石ばかりの石組に日本人は峨々たる遠山と滔々たる水流を見た。
それを見る心の中には水しぶきがあがっていた。“無化”ではなかったのだ。
 ここには、どうも無から有への、あるいは半有への転位のようなものがある。い
や、思索と作為の途中にのみ「半ばの無」がかかわったようなのだ。したがってこ
のような事情については、私はこれを「無」と言わないで、「負」とよぶべきだと
考えている。つまりは私があらかじめつかった用語でいえば、ここには「負の介在
」があるということなのである。
 その「負の介在」が、おそらくは中国的山水と日本的山水を決定的に別のものに
した“何か”なのではあるまいか。》(371-372頁)

 補遺。中公文庫から出たばかりの『遊学』に「道元」の章がある。そこで著者は
『正法眼蔵』の山水経から「而今の山水は古仏の現成なり」云々を引いている。こ
の「而今の山水」のくだりは『山水思想』でもとりあげられていて、同書のほとん
どハイライトをなしている。『遊学』の原著は一九八六年刊で、執筆時、著者三十
そこそこ。既にその頃から著者の「山水思想」は芽吹いていたのだ。

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