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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.184 (2003/09/15)
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 □ 柴田元幸『アメリカ文学のレッスン』
 □ スチュアート・ダイベック/柴田元幸訳『シカゴ育ち』
 □ J.D.サリンジャー/村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
 □ 村上春樹・柴田元幸『サリンジャー戦記』
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ある時友人に「アメリカ文学はすごいね」とうっかり口をすべらせたことがある。
すかさず「たとえば?」と訊かれて「アーヴィングとかピンチョンとか…」と口ご
もってしまった。

ちょうどその頃「二十世紀世界文学血読百編」という試みを始めたばかりだった。
それは別の友人との会話でプルーストもジョイスもマルケスも(ついでに源氏物語
も)まともに読んでいなかったことを深く恥じてのこと。当時はまだ十数冊ほどし
か進んでいなかったのだが、フィッツジェラルドからミラー、ジェームズにフォー
クナー、アーヴィングにカポーティと、たまたまアメリカ製のものが続いていた。

それらの作品が造形する世界はいずれも鮮烈な印象とともに、それまでほとんど海
外の現代小説に接することのなかった私の臓腑に染み込んでいった。そうした経験
が先の不用意な発言につながったのだが、考えてみるとそれは何もアメリカ文学の
すごさなのではなかった。

「血読百編」の試みはいつの間にかあいまいになってしまったけれど、アメリカ文
学への関心、というより傾倒はその後も(件の発言の「責任」をとるかのように)
細々とながら続いていった。ピンチョンには相変わらず手が出ないものの、やがて
オースターを知り、パワーズに惹かれ、そしてそれらの文学体験へのそれと気づか
ぬ導き手が翻訳家・柴田元幸だった。

──というわけで、以下、柴田元幸さんの『アメリカ文学のレッスン』の随所にち
りばめられた「アメリカ文学の一般的法則」の抜き書きと、とりわけ力のこもった
その「エピローグ」から、本書のタイトルの由来を示す部分の抜粋。

◎アメリカ文学の一般的法則

「アメリカ文学に出てくる幽霊や悪魔はしばしばそれを見る人の分身である」「幽
霊の正体見たり 自分自身」(40頁)
「アメリカでは誰でも冨と成功を手にするチャンスがあるという理念を信じたがゆ
えに、人が破滅に追いやられる」(56頁)
「自己創造の意志が外の世界に投影されるとき、アメリカ文学では「館」を建てる
(あるいは買う)」(74頁)
「ヨーロッパ文学において人間と人間を隔てる基本的な線引き規準が〈性差〉と〈
階級〉にあるとすれば、アメリカでは三つ目の要素として〈人種〉が加わる」(83
頁)
「アメリカ文学には house はあっても home はない」「基本的に、人と人が向き
あう文学というより、人が人に背を向けて世界[自己のイデアを投影すべき場]と
向きあう文学だから」(84頁)
「目には見えなくても、たしかにそこにある。善意はおそらくなさそうな、悪意か、
もしくは無関心に染まったシステム。どうやらこれが、現代アメリカ文学における
組織の典型的な貌であるように思える」(103頁)
「さんざん言われてきたように、元々アメリカ文学は、基本的に父親不在の文学で
ありつづけてきた」(106頁)
「アメリカ文学において、父と息子の物語とは基本的に、息子が父の圧制を乗り越
える(あるいは乗り越えそこなう)話か、息子が父から叡智を伝授される話である。
/母と息子の物語は、母の干渉・過保護に息子が反逆する話か、諦念とともにそれ
を容認する話である。/母と娘の物語は、ある時点に到るとある種のライバル関係
か、もしくは同胞関係が生じる話である。/そして父と娘の話は、これが一番迷う
ところなのだが、父と息子の物語同様、娘が父の圧制を乗り越えるか乗り越えそこ
なう話か(ただし乗り越えるにしてもその乗り越え方は父と息子に較べて概しても
っと屈折している)、あるいは逆に、娘が父の無力さに、さらには狂気に、共感す
る話であるように思える」(136-137頁)

◎アメリカ文学のレッスン・その1(自分と世界を更新すること)

「発見すべき〈他者〉が現在のアメリカ文学からは消えかかっているのではないか
」(176頁)
「〈外部〉とは時に、空間化された未来のことだろう。そして〈他者〉とは時に、
理想化された自分のことだろう。未来が、少なくとも明るい未来が見えず、理想の
自分などというものも思い描きにくくなっている今日、〈外部〉や〈他者〉が見え
にくくなっているのは当然かもしれない。……だがそのこと以上に、自己が他者か
ら滋養を得る、中心が周縁によって活性化される、というシナリオの非対称性が、
いまや問題になっているのではないだろうか」(179-180頁)
「パワーズの描く世界にあっては、人間は世界を作る存在であり、世界によって作
られる存在でもある。対象が一枚の写真であれ、一人の他人であれ、第一次世界大
戦であれ、我々はつねに共犯関係に巻き込まれ、つねに共謀関係に追い込まれてい
る。世界を解読するたび、我々は自分というファイルを更新している。解読に「正
解」はない。世界というファイル、自分というファイルの両方をどう豊かに更新す
るかが問題なのだ。それは、自分が他者の奉仕を受けて活性化される、というのと
は微妙に違う。こうした考え方を通して、読み手は、自分が世界とどうかかわった
らよいかについてのレッスンを受けることになる」(183-184頁)

◎アメリカ文学のレッスン・その2(消費から翻訳へ)

「世界は翻訳でしかない、翻訳以外の何物でもない。だが逆説的なことに、言い表
わしがたいことに、それはまさにほかでもない、ここという場所の翻訳なのだ」「
翻訳とは、移植したいという渇望とは、シェークスピアをバントゥー語に持ち込む
ことが肝要なのではない。バントゥー語をシェークスピアに持ち込むことなのだ」
(リチャード・パワーズ『黄金虫変奏曲』)
「シェークスピアとバントゥー語の関係は、もちろんアメリカ文学と日本語の関係
でも同じである。自分にどんな六分儀が作り出せるのか、まったく心許ないけいれ
ども、アメリカ文学を「消費」するにとどまらない、新しいアメリカ文学「翻訳」
法につながる発想のレッスンがここに見えていると思う」(186頁)
 

●621●柴田元幸『アメリカ文学のレッスン』(講談社現代新書:2000.5.20)

 柴田元幸の文章は、いくつかの翻訳書の解説や後書きで目にしたことがある。簡
潔、的確に事柄の本質を衝き、それでいて書き手の息継ぎが聞こえてくるようない
い文章だと思った。翻訳文が素晴らしいだけではなくて、名うてのエッセイの書き
手でもあることは前々から耳にしていたが、どういうわけか翻訳書以外の柴田本を
読む機会がなかった。

 『アメリカ文学のレッスン』は、タイトル通りアメリカ文学への再入門を果たす
つもりで手にした。実際、ふんだんに挿入された実作からの部分的翻訳や巻末の索
引、ブックリストを眺めるにつけ、また「前口上」と「エピローグ」をはさんで「
名前」「食べる」「幽霊の正体」「破滅」「建てる」「組織」「愛の伝達」「勤労
」「親子」「ラジオ」といったキーワードのもと、マーク・トウェインからリチャ
ード・パワーズまで自在かつ縦横に繰り出される話題に翻弄されるにつけ、そこか
ら垣間見られる未開拓の文学空間(私にとって)の深さと広さに圧倒された。

 しかし本書を読んで私が強く惹かれたのは、アメリカ文学そのものというより、
むしろアメリカ文学に向かう柴田元幸の姿勢と覚悟であり、何よりも洒脱にして格
調高いその文章の魅力だった。

●622●スチュアート・ダイベック『シカゴ育ち』
              (柴田元幸訳,白水Uブックス:2003.7.10/1992)

 一つの街の記憶、そこで生まれ育った幼少期の記憶、あるいはそこに流れ着きそ
こを離れていった人々の記憶。それらがきれぎれの音や光や匂いの記憶と綯い交ぜ
になって、またポーランドやスペイン、ギリシャ、ウクライナといった旧世界の言
葉とも響き合い、様々に変容する水のイメージを重層的にまといながら、まるで散
文詩のように丹念に綴られていく。

 「冬のショパン」や「荒廃地域」、「夜鷹」、「熱い氷」といった珠玉のように
硬質で美しい七つの短編と、それらを食前酒かデザートのように包みこむ七つの掌
編(川端康成の『掌の小説』に触発されたという)。どこかベンヤミンの『ベルリ
ンの幼年時代』を思わせる比類ない文学的純度と言語的質感を湛えた連作集。「誰
かが何かをずっと欲しがっていたなら、自分のものになったことはなくても、やっ
ぱりそれはその誰かのものじゃないだろうか? そしてそれは、なくしたものじゃ
ないだろうか?」(208頁)

 ──訳者の柴田元幸さんがUブックス版に寄せた後書きで「いままで訳した本の
なかでいちばん好きな本を選ぶとしたら、この『シカゴ育ち』だと思う」と書いて
いる。

●623●J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
                     (村上春樹訳,白水社:2003.4.20)

 ニューヨークに着いたホールデンは、二十分くらい電話ボックスの中でぐずぐず
して結局誰にも電話をかけず、ほとんど放心状態のままでタクシーに乗る。「セン
トラルパーク・サウス通りの近くに、アヒルのいる池があるじゃない。わりと大き
な池だよ。あのアヒルたちって、池が凍っちまったらどこに行くんだろうね?」「
俺のことをからかってんの?」「いや、そうじゃなくて、ただ知りたかっただけだ
よ」(9章,101-102頁)

 物語の後半、ろくでもないバーですっかり酔っぱらい、手持ちの金が尽きかけて
タクシーに乗る余裕もなくなったホールデンは、「ずぶずぶに切ない」心をかかえ
て公園に向かう。「池はある部分は凍り、ある部分は凍っていなかった。でもアヒ
ルはただの一羽もいない。…もしまだそのあたりに居残っているとすれば、アヒル
たちはきっと水辺近くの、草のわきとかで寝ているはずだと僕は考えた。おかげで
池にあやうく落っこちそうになったわけさ。ともあれ、アヒルは一羽もいなかった
ね。」(20章,255頁)

 タクシーの運転手から狂人でも見るみたいな目で見られ、「知らんね、マック」
と素っ気なくあしらわれたホールデンは、ここでも、ろくでもないバーの電話ブー
スから出てちょっとした会話を交わしたろくでもないピアノ弾きから「おとなしく
家に帰りなって、マック」と、とてもフレンドリーとは言えない態度であしらわれ
ている。(マックって、誰だ?)

 この凍った池のアヒルたちが、「だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さ
な子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところ」(22章,286
頁)というイメージと重なっていて、その重なりが死んだアリーと生きているフィ
ービー、「僕」と「君」、スペンサー先生とアントリーニ先生等々の人物の分岐や、
電話とタクシーと「マック」で対句的につながってく場面の対称ともパラレルにな
っているわけだ。

 だからどうということはなくて、ただそれだけのことなのだけれども、もう一つ
どうでもいいことを書いておくと、物語の終盤、ホールデンが回転木馬に乗ったフ
ィービーを眺めている場面にさしかかったとき、昔読んだベンヤミンの文章を思い
出した。それは、『一方通行路』の「引き伸ばし写真」に出てくる「回転木馬に乗
った子供」をめぐる短い文章の一節だ。「万物の永劫回帰ということは、久しい以
前から子供の知慧になっている。そして生とは、大昔からある、支配の陶酔であっ
て、その中心には、轟々と響き渡るオーケストリオンが、王室財宝として鎮座して
いるのだ。」(ちくま学芸文庫『ベンヤミン・コレクション3』)

●624●村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』
                          (文春文庫:2003.7.20)

 村上春樹は『白鯨』と『グレート・ギャツビー』と『ライ麦畑でつかまえて』の
三人のヒーローについて、「志は高く、行動は滑稽」という共通点を指摘した。こ
れは柴田元幸さんが『アメリカ文学のレッスン』(63頁)で紹介していることだが、
これを読んで、アントリーニ先生が「無価値な大義のために、なんらかのかたちで
高貴なる死を迎えようとしている」ホールデンに、手許にとっておくようにと手渡
した一文を想起した(『キャッチャー・イン・ザ・ライ』24章,312-313頁)。

《未成熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一
方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ。
》(精神分析学者ヴィルヘルム・シュテーケル)

 本書に収められた「対談2『キャッチャー』は謎に満ちている」で、村上春樹は
『キャッチャー』は「地獄めぐり」の物語だと言っている。「普通だったら、こう
いうのはひとつの通過儀礼になるわけですよね、いろんなひどい目や奇妙な目にあ
って、それをひとつひとつ乗り越えて、身体にしみこませて少年が大人になってい
くみたいな。」「そうですね。」「ところが、まったくなっていないんですね。」
「なっていないですね。…」「出来事はみんな並列的で、積み上がっていかない。
…」(156頁)

 つまり『キャッチャー』は、未成熟(イノセンス)対成熟(フォニー)の図式に
のっとったイノセンス礼賛やアドレッセンス(思春期)賛歌の物語ではなく、まし
て抵抗と成長と和解の物語などではなくて、あくまでも「ホールデンが十六歳だか
ら成立する話」だというのである。

《つまり主人公であるホールデンは、少年時代のイノセンスからは既にしりぞけら
れた存在でありながら、大人の世界に入るための資格も得られないでいます。部分
的にはすごく成熟で、視点もクリアなんだけど、自分自身の客体化というのはまだ
なされていない。それは十六歳という設定だからできることでもあります。…それ
から彼は社会階級的に見ても、やたら狭い、あえて言うなら特殊な世界に属してい
る。彼が懸命に移動する範囲も、マンハッタンの中の、すごく限定された場所です。
『キャッチャー』というのは、この小さなエリアの中にピンポイントで設定される
ことによって、有効に成立している小説なんです。》(村上,165頁)

 ──本書は、村上春樹の「『キャッチャー・イン・ザ・ライ』訳者解説」が読み
たくて購入した。それはとても力のこもったいい文章だった。

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