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■ 不連続な読書日記 ■ No.183 (2003/09/13)
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□ 小川洋子『博士の愛した数式』
□ 河合隼雄・中沢新一『仏教が好き!』
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●619●小川洋子『博士の愛した数式』(新潮社:2003.8.30)
無性に数学の本が読みたくなって、それも、これまでから散々読み散らかしてき
た(それにしては、いまだほとんど身につかない)数論関係の入門書、啓蒙書の類
にどっぷりとつかりたくなって、休日の午後、前々から目をつけていた『なっとく
するオイラーとフェルマー』(小林昭七著)を買いに近所の本屋に出かけたけれど
も在庫切れ。しかたなく新刊書の棚をひやかしていて『博士の愛した数式』という
タイトルに惹かれ手にとってぱらぱら眺めていたら、あの「オイラーの公式」が出
てきたので瞬発力で買い求め、その日のうちに一気に読んだ。戸田ノブコの淡い色
調の挿画とも響き合う静かで透明で忘れ難い味わいを持つちょっと不思議な作品だ
った。小川洋子の作品を読むのはこれが初めて。『村上春樹と柴田元幸のもうひとつの
アメリカ』(三浦雅士著)で、川上弘美や多和田葉子、伊井直行と並び柴田元幸注
目の若手作家として小川洋子の名前があがっていたことも(それと意識したわけで
はないが)レジ直行のきっかけになったのかもしれない。川上弘美(先日、NHK
教育で放映された第3回「詩のボクシング」全国大会でジャッジをつとめていて、
写真で見た通りの「美貌」だった)は最近少しずつ読むようになったけれど、多和
田葉子と伊井直行は気になりながらもいまだ未読。(多和田葉子の『エクソフォニ
ー』が『博士の愛した数式』と一緒に書店の棚に並んでいて、これも衝動買いしそ
うになった。)そういえば、川上弘美の新作(『光ってみえるもの、あれは』)も出ている。そ
の川上弘美の『センセイの鞄』は、七十代の国語の元高校教師「センセイ」とかつ
ての教え子で三十代後半の離婚歴のある「ツキコさん」との「あわあわと」した交
情を描いた作品だった。(といっても、どういうわけか読みそびれサイド・ストー
リーの『パレード』を読んだだけなのだけれど、この作品のことは書店の新刊コー
ナーで見かけた時から読まなくてもわかるような気になっていて、いまではすっか
り私の「愛読書」の一つになっている。)十七年前の自動車事故の後遺症で八十分しか記憶が続かなくなった六十四歳の
元数学教授「博士」と父親を知らない二十八歳の未婚で子持ちの「家政婦さん」、
その十歳になる息子で熱烈なタイガースファンの「ルート」(頭のてっぺんが平ら
なので「博士」がつけた愛称)を交えてのプラトニックでイノセントな交情を、19
92年(ワイルズによってフェルマー予想が文字通り最終定理になる前年)の元気だ
った阪神の戦いの軌跡に重ね合わせながら淡々と描いた『博士の愛した数式』には
『センセイの鞄』とどこか似通った雰囲気がある。それが深いのか浅いのか、濃い
のか薄いのかは別にして、魂のようなものが身体と言葉を通り越して直接交わり相
互に浸透しあうピュアな抽象世界が「あわあわと」と形容するしかないリアリティ
でもって作品のうちにくっきりと設えられていた。ところで「博士の愛した数式」とは何かというと、「1−1=0」(197頁)や
江夏の背番号28が完全数であることを示す式「28=1+2+4+7+14」も
その候補なのだが、やはり(吉田武が『オイラーの贈り物』で「人類の至宝」と名
づけた)オイラーの公式「e^iπ+1=0」(eは自然対数の底、πは円周率、
iは虚数で√−1)のことだろう。《πとiを掛け合わせた数でeを累乗し、1を足すと0になる。
私はもう一度博士のメモを見直した。果ての果てまで循環する数と、決して正体
を見せない虚ろな数が、簡潔な軌跡を描き、一点に着地する。どこにも円は登場し
ないのに、予期せぬ宙からπがeの元に舞い下り、恥ずかしがり屋のiと握手をす
る。彼らは身を寄せ合い、じっと息をひそめているのだが、一人の人間が1つだけ
足し算をした途端、何の前触れもなく世界が転換する。すべてが0に抱き留められ
る。
オイラーの公式は暗闇に光る一筋の流星だった。暗黒の洞窟に刻まれた詩の一行
だった。》(176頁)ここでたとえば「博士」をπに、「家政婦さん」をeに、「ルート」をiにあて
はめ、1は一神教の父なる神の、0は仏教でいう空もしくは母胎(マトリックス)
の象徴であるなどとこじつけて、父親不在の家族小説とも言うべきこの作品を分析
したみせたところで、何も語ったことにはならない。「数は人間が出現する以前か
ら、いや、この世が出現する前からもう存在していたんだ」(32頁)。小川洋子が
この数学的プラトニズムを標榜する「博士」を記憶障害者として描き、事故以前の
凍結された記憶のうちに(「生涯で最も早い球を投げていた江夏」とともに)「永
遠に愛するN」を封印させたことの意味をそこに読み取るべきだ。この世が出現す
る前からもう存在していた抽象世界でのピュアなラブ・ストーリー。●620●河合隼雄・中沢新一『仏教が好き!』(朝日新聞社:2003.8.30)
9.11直後の2001年10月19日から2003年1月8日まで、『小説トリッパー』に
連載された計六回に及ぶ対談の記録。対談というより、「生きている仏教徒」中沢
新一が変幻自在の教師役を、「魂と臨床の科学者」河合隼雄がしたたかな生徒役─
─「うん、うん」「はい、はい」「そう、そう」「ええ、ええ」「なるほど」「あ
あ、そうですか」「ええ、そうですね」「はあ、それは面白いね」「いや、本当に
面白かった」──を担って、「宗教の先にあるものをめざす宗教」(14頁)として
の仏教や「縄文時代の仏教」(198頁)としての日本仏教、あるいは野生の思考に
根ざした「アジアの思想的源泉近くに生えている『原仏教』」(259頁)の核心を
縦横に語り合った講義録。いや、語り合うというよりは、時に「ちょっといかがわしい身のこなし」(258
頁)や善男善女を煙にまく胡散くさい語り口でもって、世間の常識(ドクサ)に逆
ねじをくらわせるどこか嘘っぽい方便を(ゴータマ・ブッダのように八万四千通り
とまではいかないまでも)存分に織りまぜながら、二人の「トリッパー」(踊るよ
うに歩く軽やかな歩行者、人をつまずかせる者)が競うようにして、「楽になるた
めの正しい教え」(185頁)としての仏教、もしくは「『癒し』の向こう側にまで
突き抜けることで、私たちのたましいを根源的に癒す力を持った仏教」(259頁)
について融通無碍に「騙り」合ったライブ版・仏教エンターテインメント。この「いかがわしさ」や「胡散くささ」や「嘘っぽさ」(カバーと本文にちりば
められたしりあがり寿のイラストが、「ぽわーっ」としたその雰囲気をよく伝えて
いる)こそ、当代きっての知的エンターテイナーたる両人の資質であり魅力なので
あって、たとえば中沢新一が『緑の資本論』や『カイエ・ソバージュ』シリーズに
通じる一神教論や資本主義論を繰り出し、河合隼雄が『神話と日本人の心』で取り
組んだ中空構造と個人の確立の問題(アマテラス‐ツクヨミ‐スサノオの三神がか
たちづくる普遍的な中空構造からはじかれたヒルコ=男性太陽神をいかに取り入れ
るか)を念頭においてこれに応じるとき、それらの「怪しげ」なたたずまいのうち
には、「科学も文学もいっしょにした、大日如来の知恵の学」(253頁)へと通じ
る「仏教の働き」が躍動している。──収められた六つの対談はどれも面白いものだったが、なかでも仏教における
「婦人問題」を取り上げた「仏教と性の悩み」と、数学科出身の河合隼雄と生物学
専攻から脱落した中沢新一が「別の科学」について語る「大日如来の吐息」が興味
深い。《仏教の本質とは、ですから極端なパラドックスだと思います。ですけども、人間
が「自然教」から飛躍しようとして生み出した解決法としては、いちばん高度だっ
たと僕は考えています。一神教の解決法では、女性を抑圧してしまいますからね。
仏教はそれよりも人間の自然にフィットしています。一神教は女性を抑圧した上で、
商品世界という女性イメージ的な世界を発達させました。この抑圧形態が、いまグ
ローバル資本主義として、アジアの全域を支配しようとしています。「アジアよ、
覚醒せよ」ですね。それには、仏教とは何かを考えてみるのが、いちばんの早道だ
と思います。つまり、やっぱり問題は「婦人問題」だということです。》(中沢,
119頁)《こういうタイプの数学[「群論」の規則体系が働くオーストラリア・アポリジニ
の親族構造]は、メソポタミアやエジプトでは発達しませんでした。大国家が発達
した地帯では、実用的な計算のやり方とか方程式の解き方や、測量の技術なんかは
発達したんですが、西欧が十九世紀の後半になってようやく理解し始めた、新しい
タイプの数学の考え方は、むしろ国家も物質文明も持たなかったアポリジニの世界
で、はるか昔から生きていたわけですね。近代までの科学は、国家というもののあ
り方と結びついて発達してきましたが、いわゆる現代数学、現代科学の思考は、国
家のなかにいる人間の思考とは違う世界ですでに先取りされていた、と言えるかも
しれません。》(中沢,221頁)〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
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