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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.181 (2003/08/30)
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 □ 松岡正剛『分母の消息』(三)
 □ 松岡正剛『本の読み方』(三)
 □ 松岡正剛『帝塚山講義』(三)
 □ アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理』
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●610●松岡正剛『分母の消息(三)──景色と景気』
              (デジタオブックレット007,デジタオ:2003.6.25)
●611●松岡正剛『本の読み方(三)──初恋コスモス』
              (デジタオブックレット008,デジタオ:2003.6.25)
●612●松岡正剛『帝塚山講義(三)──生と死をみつめた人々』
              (デジタオブックレット009,デジタオ:2003.6.25)

 「分母の消息」は、前回からひきついだ「場面の問題(場面の特定に関する問題
)」──「問題は、このような「内外の一線」がつくりあげた場所とは何なのかと
いうことなのだ。ところが哲学や思想のなかで最も研究が遅れているのが、この場
所をめぐる問題なのである。」(あとがき)──をめぐって、風水(feng-sui)か
ら景気、ヒア・ゼア(here-there)観念の発生へ、そして蠱術へと説き及ぶ。「古
代においては、「ここ」と「むこう」の景色をつなげるにあたっては、ひょっとし
て鳥や虫たちによるコミュニケーション・ルートを活用する方法があった」(39頁)。

 「本の読み方」では、「個別知(パーソナル・ナレッジ)」「共同知(コミュニ
ティ・ナレッジ)」「世界知(グローバル・ナレッジ)」の区分による「読書のイ
ンターフェイス」をめぐって、松岡流読書生活が存分に披露される。「世界知は哲
学や宗教ばかりでできているわけではなかったのである。世界知を支えているのは、
実はその時代時代の宇宙観や生命観をふくめた科学思想だったのである」(51頁)。
「愛の経済学」をめぐる章がとりわけ興味深い。

 「帝塚山講義」は、オリゲネスをはじめとする教父たちの神学論争から修道院運
動、宗教改革まで、キリスト教の情報編集術(知と愛と罪と悪をめぐる)をめぐっ
て奔放に講義が進んでいく。回心後のパウロが新しい信仰のあり方を異教徒たち相
手に広めていった。「まあ、いまの企業が新しく私情や顧客を開拓しようとするよ
うなものですね」。「わずか数年で、キリスト教徒になった異教徒の数が、キリス
ト派のユダヤ人の数を追い抜いてしまう」のだから、パウロの布教活動は「すごい
営業だよね」。ギリシア伝来の「ロゴス」を理想とするローマ人たちにキリスト教
が受け入れられるのは大変なことだった。「だって、イエスが死んでから三日後に
蘇っただなんてことを、理論で武装しなくちゃいけないんですからね」。帝塚山学
院大学の一回生は、教団と神学の発生をめぐるキモにあたる箇所で(笑)の反応を
示している。

●613●アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理──カントとラカン』
                 (冨樫剛訳,河出書房新社:2003.2.28/2000)

 キリスト教(一神教)が解らないと、カントもラカンもたぶん解らない。そもそ
もの発端はパウロの回心で、西方神学の端緒となったアウグスティヌスの回心とい
うビッグ・イベントもひかえている。「回天」なら自前の歴史でなんとなく雰囲気
がつかめるが、「回心」となるとまるで手に負えない。

 ジュパンチッチは、倫理的主体の「無からの創造」をめぐるカントの命題につい
て、次の一文を引用している(52頁)。《これは漸進的な改革によっては達成され
えないだろう。むしろこれは、彼の心術の革命によって成し遂げられねばならない
……。彼は、ある種生まれ変わることによってのみ、いわば新しく創造され直すこ
とによってのみ、新しい人間になることができる。》(カント『たんなる理性の限
界内の宗教』)

 ここで「カントの命題」とは、「主体は、自らの無意識に従属している[サブジ
ェクト]──あるいは、隷属している──と同時に、最終的には、その無意識の主
体[サブジェクト]──その無意識を選択した者──でもあるのだ」(51頁)とか、
「主体の存在なしに自由はありえないが、この主体の誕生は、すでに自由な行為の
結果である」(58頁)と説明されるものだ。

 刑法に「原因において自由な行為」という理論がある。酒に酔うと粗暴になる体
質を利用し、泥酔状態(心神喪失状態)で殺人を犯した者は刑法上の責任を免責さ
れないということだが、これは「カントの命題」の形而下ヴァージョンである。

 ジュパンチッチは、先の引用を受けて、カントとラカンを互いに引き寄せる。

《スラヴォイ・ジジェクによる解説を借りて、ラカンの考える倫理的行為について
まとめておこう。行為[アクト]は、行為者を根源的に変化させるという点で、「
行動」[コンダクト]とは異なる。行為の後、私は「以前の私ではない」。行為の
中で主体は消滅し、そして再び生まれる。つまり、主体は一時的に、皆既蝕におけ
る太陽や月のように、消えるのである。それゆえ行為とは、常に「犯罪」、主体が
属する象徴界からの「逸脱」である。》(101-102頁)

 こうしてジュパンチッチは、ラカンがいう「ザ・リアル」(不可能なもの)のま
わりを堂々巡りする欲望の倫理──「フロイトによる無意識の発見の思想的出発点
となった倫理革命、これを引き起こした人間としてのカント」(ジジェク「序」)
が発見したもの──を突き抜けていく。──本書序章の末尾に書きつけられた文章。

《この本は、新しい倫理のための枠組みを立てる試みである。倫理の地平を「生命
」に限定してしまうような(ポスト)モダニズム世代の倫理とは異なる倫理、また、
主人の言説の上に構築された倫理[引用者註──「命を失うことよりも悲しいこと
は、生きる理由を失うことである」(ポール・クローデル)もしくはその衰弱した
代替物としての「生命ほど尊いものはない」]を超えるような倫理、これが以下に
おいて私が目指すものである。》(20頁)

 ──本書を読み終えて、重ねて思う。キリスト教が解らないと、カントもラカン
もきっと解らない。(もしかすると、「文学」だって解らないかもしれない。)

 「回心」とはおのれ自身の「空洞」を、すなわち「欲望の主体」を見出すことだ。
意識(現象)や心術(ものそれ自体)のレベルに属する主体から根源的な自由のレ
ベルにおける超越論的な主体へ、欲望から欲動へ、そして快楽から享受へ(生命か
ら情報へ?)。だが、無際限な「発生」にとりかこまれた身体(アジア的身体?)
には、無と無限をめぐる「創造」の秘蹟(新しい人間への回心?)は成就しえない
のではないか。

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