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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.180 (2003/08/24)
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 □ 三浦雅士『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』
 □ アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート『〈帝国〉』
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「エキサイトブックス」に掲載されたインタビュー「村上春樹と柴田元幸とアメリ
カの憂鬱」(2003年7月15日)で、三浦雅士さんは次のように発言している。
 ※ http://media.excite.co.jp/book/presents/miura/p01.html

《19世紀から20世紀にかけて、大体において、小説で描かれる人生というのは、
青春とイコールだったわけです。それがどうもうまく行かなくなっちゃった、とい
うことを僕は『青春の終焉』(2001, 講談社)で書きましたが、この本はその先の
文学に関する中間報告みたいなものでもあります。》

《ものが物質になりきることが死ぬということであるならば、あの世とはすでに自
分が知っている世界を指すんじゃないか、この世からあの世へ降り立つ冥界下降譚
は、実は僕らが毎日経験していることなんじゃないか、それこそが一番根源的な問
題ではないか――というのが村上春樹であり、柴田元幸です。彼らにとって、幻想
を発生させる場所の仕組みこそが、関心の的なんですね。》

《メランコリーは、受け入れたくない「現実」の世界へ入っていかなければならな
いときに発症する病気みたいなものです。「現実」に対して距離を取りたいから、
今起こっていることはすでに終わってしまったことなのだと考えるわけ。そういう
心の状態のほうが楽だから。ああ、こんなふうにして人生は過ぎていくんだな、と、
目の前で起こっていることを、まるで遠い昔のことのように遠くから眺めているよ
うな感覚、記憶としての現在。そんなメランコリーを村上春樹は作品化することに
成功し、同じ思いを持つ多くの人々の心を捉えたといえます。》

《現実だと思っていることがひょっとして幻想かもしれなくて、あらゆるものが無
意味かもしれないことに気がつけば、まったく違う目で世界を見て、まったく違う
ように生きていくことが出来る。文学にはそれぐらいの力があるし、社会とか経済
とか政治を解く非常に重要な鍵が、その中に潜んでいる。》

《僕は本の最後で、駆け足でアメリカという国家そのもののことを書きましたが、
それはもう少しじっくり取り組んでいかなきゃならない問題だと思っています。い
ま、世界経済や軍事を牛耳っているアメリカでは、生産性の高い「大人たちの現実
世界」のほうがどんどん強くなってきているけれど、ブッシュがやっていることな
んてただのゲームだし、そこに集まっている一握りの連中だってゲームの駒になっ
ているに過ぎない。でもその規模が大きくなっていくものだから、もうひとつの世
界、「少年たちの生々しい現実」の世界もそれに合わせて大きくならざるを得なく
なってきている。だから、オースター、ダイベックやミルハウザーのようなおとな
しいものから、パワーズやエリクソンのような暴力的なものまで、強烈なメランコ
リーを漂わせた小説がもっともっと出てくるだろうし、その傾向はさらに強まって
いくだろう。》

《それはアメリカだけじゃなくて世界文学も同じで、村上春樹と柴田元幸が立ち会
っているのは、そんな世界文学の変容の瞬間なんじゃないか。そしてその変容とい
うのは、僕らが興味を持って真剣に見つめていかなくちゃいけないことなんじゃな
いか、と思うんです。》

つまり『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』は──木村敏さんの『時間
と自己』を無手勝流に援用するならば──、「アンテ・フェストゥム」(前夜祭)
的未知性に深く浸蝕された意識から「ポスト・フェストゥム」(祭りのあと)的メ
ランコリーに覆われた意識へ、そして「イントラ・フェストゥム」(祭りのさなか
)的な「永遠の現在の現前」という時間構造を特徴とする意識へといたる、「世界
文学空間」の変容のプロセスをラフ・スケッチした「中間報告」である、というこ
とになるのでしょう。

私はそこに、『〈帝国〉』が深い影を落としているように思えてならないのですが
(世界文学空間=〈帝国〉の自己意識=幻想を発生させる場所?)、ネグリ/ハー
トが政治=経済=倫理の領域で取り組んだ課題に、三浦雅士さんは幻想=身体=文
学の領域で取り組んだという、シンクロニカルな出来事だっただけかもしれません。

──というわけで、しばらく中断していた『〈帝国〉』を一気に通読して、ちょっ
と途方に暮れています。そこにあるのは、歴史への後付け的な理論化と最終的な楽
観論(実践=経験への丸投げ)にすぎず、要するに「ユートピア的実験理性」とで
も言うべきものの単なる蒸し返しなのではないか。いや、そうではない。徹底的に
精緻な理論化を果たした者のみが、実践へ夢を託すことが赦されるのであって、こ
こにあるのは、内在的な構成的権力(法理論で「憲法制定権力」と呼ばれているも
の)がたどるべき理路と実践的経路の見取り図なのである。この二つの気分が相半
ばして、評価、というよりこの書物に対する態度が定まりません。

こういう時は性急な断定を避けて、たとえば前半部分(カントの部)だけ読んで息
詰まり放置していた柄谷行人さんの『トランスクリティーク』や、もしかすると〈
帝国〉の一つの先駆形態だったかもしれないハプスブルク帝国崩壊期の精神史を扱
った書物群、たとえば大川勇さんの『可能性感覚』などを再読・通読して、二つの
気分が一つに熟成するのを待つに限ります。
 

●608●三浦雅士『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』
                           (新書館:2003.7.11)

 『ライ麦畑でつかまえて』の魅力は文体にある。当時、といっても私がこの野崎
孝訳を手にしたのは出版(1964年)後十年以上経った大学生の頃のことだったのだ
が、読み始めてすぐいかにも都会風でくだけた口語表現が鼻につきはじめ、シャレ
っけだけの中身が薄っぺらいありがちな小説に思えて早々に放棄してしまったこと
を、今でもちょっとした後悔(我慢して読み進めておけばよかった)とともに思い
出す。

 でも、あの文体がもたらした独特の感覚の記憶だけはずっと身体に染み込んでい
て、それは──それ以前、高校の頃に読んだ庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』
四部作とひとつながりになって──私の文学的感受性のようなものの古層をなして
いる。言文一致や心身一如とは違う、何と言えばいいのだろう、社会や他人との距
離の取り方、自分自身への対峙の仕方に力んだ構えがなく、ありのままの無垢な自
分への憧憬などといった文学趣味とは完璧に無縁なその文体(言語化され客観化さ
れた感覚や雰囲気、時代の気分の表現)のうちには、凛とした倫理的原理とでも言
うべきものが確かに感じられた。

 これと同じ感覚を味わったのは村上春樹の小説を読むようになってからのことで、
ポール・オースターの作品にもその匂いを嗅ぎ取ることができたように思うのだが、
本書第一章に出てくる翻訳リストを眺めているうち、どうやらそうした私の文学的
感受性のかなりの部分が(村上春樹という屈折点を介して)柴田元幸という同世代
の翻訳家に直接負うか、少なくともその気分や雰囲気を共有しているものだったこ
とに気づいた。その気分は、三浦雅士が「村上春樹はアメリカ文学だ」(そして村
上春樹がアメリカ文学にじかに接続した現場を柴田元幸が目撃することになった)
と言う時の「アメリカ」のうちに根ざしている。

 ──日本文学は八○年代の村上春樹とともにアメリカ文学=世界文学空間にじか
にくっついてしまった。それは、もともと世界の雛形=ミニアチュールとして、世
界を追憶すべき場所=世界の索引=新世界として誕生したアメリカが今世紀末に唯
一の超大国となり、世界の警察=世界の自己意識になると同時に、アメリカ文学が
メランコリーすなわち自己意識という病を映し出す役割をになったことを、村上春
樹もまたになっていたということだ。

 三浦雅士はこのことを、『ノルウェイの森』で「死は生の対極としてではなく、
その一部として存在している」と書いた村上春樹は「時代に漂うメランコリーを、
人間に普遍的な冥界下降譚に注ぎ込んで見せたのである」として、たとえばポール
・オースターとの「驚くほどの類似性」の指摘を通じて論証してみせた。

 ここでいう「冥界」=「異界」とは彼岸、すなわち「あの世」のことで、三浦雅
士は「言葉はこの世に通じているとともに、あの世にも通じている。言葉こそあの
世への入り口なのだ。言葉ははじめからあの世にかかわっている。彼岸とは言葉の
こと、物語のこと、文学のことなのだ」「あの世を、世界文学空間と呼んでもいい
し、世界歴史空間と呼んでもいい」と書いている。

《けれど、逆に、世界文学空間、世界歴史空間のほうがこの世であって、あの世こ
そこの錯綜し混迷した現在ただいまの現象、音と光と匂いに満ちた現象にほかなら
ないのだということだってできる。現実を伝えると称するテレビや新聞こそ、むし
ろ世界歴史空間、世界文学空間に属しているといってもいいからだ。テレビや新聞
が伝える現実とは、実際は文学にすぎない。言語化された事実の集積にすぎない。
テレビの映像がファイルとライヴという言葉を付して放映されるのは人間にはその
区別がつかないからだ。歴史的事件とは、最初から文学になっている事件のことで
あって、生々しい現在のことなどではない。現実を直視せよなどというけど、その
現実とはたいていは人間関係のことにすぎない。そして人間関係のほとんどすべて
は、幻想、すなわち文学にすぎないのだ。》

 ──三浦雅士がいつにないコロキアルな文体で、あたかも村上春樹=柴田元幸の
「ヴォイス」を批評文のうちに「翻訳」したような感覚で、翻訳家兼大学教師への
長編インタビューという前代未聞の試みを交えて粗描した「もうひとつのアメリカ
」あるいは「世界文学空間」は、一つの時代の終わりを告げるメランコリーな気分
に(そしてたとえばあの世とこの世が純粋会話劇=家族団欒図[CONVERSATION
PIECE]のうちに共在する未聞の時代の始まりへの緊張に?)つつまれている。

《世界文学はいまアメリカの悲哀をたぶん同じように味わっているのだ。(中略)
もちろん、世界文学の変容というこの現象はいまはじまったばかりだ。世界文学と
いう意識そのものが十九世紀的なもの、科学主義的なものなのだから、何が起こっ
たって不思議じゃないけれど、どうやらいまはじめて二つの現実、あの世とこの世
の関係が、だれの目にもとても見やすい状況になってきたのだ。人間は、ふつう考
えられているよりもはるかに異様で奇怪な世界を生きている。》

●609●アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート
   『〈帝国〉──グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』
                 (水嶋一憲他訳,以文社:2003.1.20/2000)

 資本主義と一体となった近代国民国家(柄谷行人の『トランスクリティーク』に
よれば、「資本制=ネーション=ステートの三位一体的な構造」)は、空間的な「
外部」と時間的な「他者」を糧とした。ここで言う「空間」は、領土や都市‐農村
といった区画だけでなく、内在と超越、此岸と彼岸といった形而上学的な区画割り
を含む。また、他者を「時間的」と形容するのは、たとえば国民(ネーション)の
アイデンティティが歴史を発生場所とする幻想であると、経験や教育(啓蒙)を通
じて主体性が確立される(と考えられた)こと、あるいはエネルギー革命や技術革
新が生産時間を短縮すること、より端的には価値が労働時間ではかられたことを念
頭においている。

 空間的外部は、政治権力の存在基盤であった。何よりも政治権力は領土とともに
立ち現れ、境界確定者として、内部と外部の媒介者として振る舞う。内在的な諸力
の錯綜による矛盾を外部(神であれ悪の帝国であれ)への言及でもって、とりわけ
政治的危機の演出によって解消する。こうした政治権力の超越論的なあり方を時間
軸に沿って論理展開することで、資本主義経済は最終決着を繰り延べる。都市と農
村の賃金の差異や生産技術の革新を通じて利潤を獲得すること(工業経済)、細胞
分裂的な差異そのものを生産すること(情報経済)。

 そして今、グローバル化による「外部」の消失(境界の欠如)と、情報化や大交
流による均質化を通じた「他者」の解消(歴史の終焉)がもたらされ、国民国家と
資本主義は根本的な変質を余儀なくされている。新しい地図の作製と新しい時間性
の構築、新しい共同性の構成へ向けた転換期を迎えている。

 ──これまでのところは、『〈帝国〉』の要約ではない。ヨーロッパ近代の権力
と資本主義的生産様式をめぐる本書の系譜学的叙述は、以上のような平板で図式的
な整理をはるかに凌駕するとてつもない濃度を持っている。とりわけ、スコトゥス
‐スピノザ‐ニーチェ、あるいはマキアヴェッリ‐トクヴィル‐ヴィトゲンシュタ
インといった「内在性の平面」や「構成的権力」をめぐる思想的系譜の摘出は、実
に的確である。しかし、『〈帝国〉』の大半を占めるそうした叙述は、ネグリとハ
ートが本書で提示した〈帝国〉という概念の理論的背景をなすものにすぎない。

 「今日私たちは、帝国主義から〈帝国〉への移行、言いかえれば、国民国家から
グローバルな市場の調整への移行に立ち会っている」。来るべき〈帝国〉は領土を
持たない。つまり、〈帝国〉はアメリカではない。それは、核兵器と貨幣とコミュ
ニケーションを手段とするグローバルな管理ネットワーク(「単一の支配原理のも
とに統合された一連の国家的かつ超国家的な組織体」)である。

 「〈帝国〉が具体的なかたちをとるのは、言語とコミュニケーションとが、言い
かえれば、非物質的労働と協働とが支配的な生産力になるときである」。つまり、
〈帝国〉はマルチチュード(これもまた〈群衆〉とでも表記すべき概念である)に
寄生する。そこでは、腐敗が遍在している。アリストテレスの「生成消滅論」を踏
まえるならば、マルチチュードが交雑による共通種「生成」の担い手であるのと裏
腹な関係において、〈帝国〉の本質は「消滅(腐敗)」である。

 「ただマルチチュードのみが、その実践的な実験をとおしてモデルを差し出し、
いつ、いかにして、可能的なものが現実的なものに生成するかを決定するだろう」。
だが、マルチチュードによる「愛のプロジェクト」がもたらす「モデル」について、
著者たちは、ただアッシジの聖フランチェスコ伝説を持ち出して、「存在の歓び」
や「愛、素朴さ、そしてまた無垢」といった美しい言葉をちりばめるだけである。

 要するに、本書は徹底的な、ラディカルなまでに徹底的な理論の書なのだ。「し
かし、理論を軽視してはならない。(略)新たな実践はそれまでの理論を総体とし
て検証することなくしてはありえないのである。」(『トランスクリティーク』序
文)

 ──本書を読んで印象に残ったこと。その一、潜在的なものと可能的なものとの
関係について。ネグリ/ハートにとって「潜在的なもの」とは、「マルチチュード
に属する活動する諸力(存在すること、愛すること、創造すること)の集合」であ
る。以下は、「潜在的なものから可能的なものを介しての現実的なものへの移行、
それは根源的な創造の行為である」(448頁)という文章に付された原注。

《私たちの潜在性や潜在性と現実性の関係についての概念構成は,ドゥルーズがベ
ルグソンから導いてきたものとはいくぶんか異なっている.ドゥルーズの場合,潜
在的なものから現実的なものへの移行と可能なものから現実的なものへの移行=推
移を区別するからである.ベルグソンがこれを区別し,潜在的なもの‐現働的なも
のの組み合わせを可能的なもの‐現実的なものの組み合わせの上位においたときの
主要な関心は,存在の創造力を強調し,存在は数ある可能世界が類似を基礎におく
単一の現実世界に縮減されたものではないこと,存在はつねに創造の活動であり予
測不可能な新奇性であることに力点をおくためだった.(中略)たしかに私たちは
潜在性の創造的諸力を強調することの必要性を認めるが,このベルグソンの言説で
は足りないのである.というのも私たちはそれに加えて,創造された存在の現実性,
その存在論的重み,そして不確定性から必然性を形成することで世界を構造化する
諸制度についても強調する必要を感じているからだ.》(522頁)

 その二、エッセ・ノッセ・ポッセの三つ組。(力を所有することではなく、力に
帰属すること。アポリジニのように、土地を所有するのではなく、土地の生態系に
所属すること。──個人的な覚書として。)

《政治的自律や生産的活動の状態にあるマルチチュードを示すために、私たちが用
いたい名、それはラテン語で posse ──活動性としての力を表わす動詞である。
ルネサンスの人文主義において、esse-nosse-posse(在る‐知る‐力をもつ)の三
つ組は、構成的哲学というパラダイムにおける形而上学的核心を表現している。(
中略)つまり、ポッセとは膨張する構成的過程において、知と存在をともに編み込
む機械なのである。》(505頁)

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