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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.179 (2003/08/16)
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 □ ソール A.クリプキ『名指しと必然性』
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前回とりあげた保坂和志さんの『カンバセイション・ピース』と今回の『名指しと
必然性』は、たまたま同時進行的に読んだがゆえなのでしょうが、同じ「問題」を
めぐる「小説的思考」と「哲学的思考」の華麗な競演のような関係をとりむすんで
いました。

それは『カンバセイション・ピース』の「チャーちゃん」という固有名が指し示す
(死後の)実在(復活)の問題が、クリプキの「固有名=固定指示子」説にかかわ
っていたり、個別と総体(普遍)の関係とか神という「媒介項」をめぐる内田高志
(『カンバセイション・ピース』の語り手)の考察が『名指しと必然性』の議論の
背後にある(と私が思う)中世神学上の問題と密接に関係していたりと、ほとんど
全編にわたって対応関係(必ずしも見解の一致ではなくて)が見いだせるものです。

それは私がそういう色眼鏡で見たからなのかもしれないし(たぶんそうではないか
と思う)、あるいは、もそも言葉でもって規定される哲学的(もしくは神学的)問
題にはそれほどのレパートリーはなくて、だからおよそ哲学的(もしくは神学的)
問題を扱った文章には(その「問題」に対する執筆者の身体感覚のようなものを抜
きにすれば)必ず何らかの対応関係が見いだせるものだったのかもしれません。

そう考えると、『カンバセイション・ピース』と『名指しと必然性』が対応してい
るというのは私の「発見」でもなんでもなく、ただそのようなフィルターでもって
二つの本を同時に評することもできるといった「趣向」の域を超えるものではあり
ません。

それはともかく、ここ三回ばかり、なんとか私の「発見」にかたちを与えておきた
いと苦闘してきましたが、どうやらここにきて力が尽きたようです。以下の文章に
その痕跡(残骸)が示されているように、『名指しと必然性』をちゃんと自分のも
のにすることさえできない(とりわけクリプキの議論と中世普遍論争との関係)の
ですから、どだい無謀な試みでした。

──このテーマには、いつの日か力の回復をまってふたたびチャレンジしてみたい
と思っています。(こうしてまた、私の「夏休みの宿題」が重いものになっていく。)
 

●607●ソール A.クリプキ『名指しと必然性──様相の形而上学と心身問題』
                              (八木沢敬・野家啓一訳,産業図書:1985.4.1)

(その1)
 保坂和志が「言語哲学というのは理屈の勝った子供がそのまま大人になったよう
なもので、明らかに間違っていることは誰にでもわかるけれど、その間違いを指摘
するとなると骨が折れる」と書いている(『言葉の外へ』)。分析哲学系の本はそ
れほど気を入れて読み込んできたわけではないので軽々しく総括することはできな
いが、これまでの限られた経験のなかで私はほぼこれと似た感想をいだいてきた。

 要するに、うまく乗れると知的興奮(三浦俊彦がいう「ロジカル・ハイ」のよう
なもの)を覚えることができるし、場合によっては様々な「問題」への応用可能性
(というより、問題が問題でなくなる局面打開へのインスピレーション)を感じる
ことさえできるのだけれど(錯覚かもしれない)、総じていうとやたら論争的で賢
しらな議論が微に入り細にいり展開されていることにだんだんと退屈の虫が疼き最
後には「だからどうなんだ」と癇癪をおこしてしまうのが通例だった。

 クリプキが『名指しと必然性』で議論していることも、フレーゲに始まる「現代
指示理論」をめぐる論争のうちにきちんと位置づけて理解するとそれなりに刺激的
だし面白いのだと思う。でもそんなことは本当はたいして刺激的でも面白くもない。
なにしろ「理屈の勝った子供がそのまま大人になったようなもの」なのだから、い
くら天才的頭脳が繰り出す華麗な論証が有無をいわせぬ説得力をもって迫ってきた
としても、「だからどうなんだ」という凡庸な大人の感想は揺るぎもしない。

 子供がこねる理屈など所詮大人の理屈の引き写しでしかない(子供には理屈など
なくて、あるのはただ身体だけ)。だから「子供がそのまま大人にな」るのは本当
は大変なことだ。身体感覚に根ざした子供の「問題」(世界や「私」といった存在
への神秘感のようなもの)を原形のまま保持しながら「大人」の世界観(世界と「
私」の折り合いのつけ方のようなもの)を自覚的に、つまり言葉でもって理屈をつ
けて語るためには、徹底した論理的思考に耐えるだけの強靱な力(存在力とでも呼
ぼうか)が要る。『名指しと必然性』はこの尋常でない力が生み出した真正の「ロ
ジカル・ハイ」をもたらせてくれた。

 クリプキが本書で示したテーゼ──固有名は対象の性質にかかわらない純粋な指
示語であって、いかなる可能世界においても同じ対象を固定的に指示する、そして
名前の同一性(宵の明星=明けの明星=金星)はもし人間がそのことをアプリオリ
に知ることができないとしても必然的に真である──は、理屈以前の(言葉を覚え
たばかりの頃の)子供の直観に根ざしている。

 それはちょうど、保坂和志の『カンバセイション・ピース』に出てくる「チャー
ちゃん」という名が「九二年の十月に生後二ヵ月か三ヵ月ぐらいのときに道で迷っ
てお腹をすかせてニャアニャア鳴いているところを拾った茶トラの猫で、四年後に
白血病を発病して死んだ」といった記述には置き換えることのできないある実質を
もっていて、しかもそれは「チャーちゃんはただ私や妻の記憶の中に生きつづけて
いるというようなことではなくて、もっと強く実在する感じがなければならな」い
と語られる時の(現実世界と諸可能世界を通じた)実在感を伴うものであって、た
とえ「チャーちゃん」が別の猫に生まれ変わったとしてもやっぱりそれは「チャー
ちゃん」でしかないというほどに強いものであることに呼応している。

 ただし「ロジカル・ハイ」はここまで(第一、第二講義)で、クリプキが第三講
義で固有名に関するテーゼを自然種名に適用して、アプリオリではないが必然的に
真である科学的同一性の問題を論じ始めると、そしてそこに「世界を創造しつつあ
る神」をもちだして「熱=分子運動」(必然的)と「脳の物理的状態=心理的状態
」(偶然的)の違いを論じたり、とりわけ「もしある物体が一塊の物質にその起源
を有するならば、それは他のいかなる物質にも起源を有することはできなかった」
(222頁)──「人は自分が現実にそこから生まれて来たものと異なる精子と卵子
から生まれて来ることはありえなかった」(227頁)──という見解が示されるあ
たりで、私はクリプキが示す「見取図」(大人の世界観)についていけなくなる。

 そこには何か大切なものが欠落しているように思えてならない。その何かは、『
カンバセイション・ピース』に出てくる「目で見ることができるのは個別だけだけ
れど個別は総体がなければ形にならない」(249頁)とか、「宇宙の根本法則とい
う発想そのものが神なしにはありえないのだから、科学は神という媒介項を使って
神がいない世界を描くという、起源として矛盾したことをしている」(395頁)と
いった考察と深く関係しているように思うのだが、いまのところこれをちゃんと言
語化することができない。

(その1・補遺)
 現代指示理論におけるクリプキの位置を手っ取り早く概観するには、冨田恭彦著
『哲学の最前線──ハーバードより愛をこめて』の第二章がとても便利。そこでは
「ヨーロッパ言語哲学の今日的形態の一つ」である指示理論が、個と普遍の関係を
めぐる普遍論争や、フッサール現象学にも通じる「志向 intentio」概念といった
ヨーロッパ中世哲学の問題と密接にかかわっていることが示唆されている。

 またクリプキが「指示の固定性」と呼んだもの、つまりある特定の対象を固定的
に指示し続けるという固有名が示す確定記述とは異なる「在り方」について、サー
ルが、たとえば「“相対性理論を発見した人”という記述で、今後はどのような場
合でもアインシュタインを指示することにしようね」といった取り決めによって確
定記述の場合でも同じ対象を指示し続けるようにできる、と簡単に片づけたのとは
「別の観点」で考えておく必要があると注文をつけている。

 これらは『名指しと必然性』のほとんど核心部分をついた指摘だと私は思うのだ
が、アメリカ現代哲学の「ガイドブック」と銘打たれた本書では残念ながらただ示
唆されたりほのめかされるだけ。

 もう一つ書いておくと、ローティに焦点をすえた第三章の最後に「補足」として、
クワインやデイヴィッドソンやサールやローティの著書が様々な形で「心の哲学」
に関わっていること、そしてローティの見解がロールズやノージックやドゥウォー
キンらのアメリカ政治・社会哲学と密接な関わりを持っていることが指摘されてい
る。──このことは、前々回の「前口上」で書いた私の「夏休みの宿題」のテーマ
に密接に関わっている。

(その1・余録)
 ──以前書いた文章(「ヒューム熱・草稿」)からの抜粋。
   ※ http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/ESSAY/TETUGAKU/29.html

 中世普遍論争について。──坂部恵著『ヨーロッパ精神史入門』で引用されてい
るパースの文章。

《考え深い読者よ、政治的党派心のバイアスのかかったオッカム的な先入観──思
考においても、存在においても、発達過程においても、「確定されないもの」(the
 indefinite)は、完全な確実性という最初の状態からの退化に由来する、という
先入観を取り払いなさい。真実は、むしろ、スコラ的実在論者──「定まらないも
の」(the unsettled)が最初の状態なのであり、「定まったもの」の両極として
の、「確実性」と「決定性」は、概していえば、発達過程から見ても、認識論的に
も、形而上学的にも、近似的なものを出ない、と考えるスコラ的実在論者の側にあ
るのである。》

 これに対する坂部氏の解説。──スコトゥス派とオッカム派の対立は通常、個と
普遍のプライオリティ如何という問題をめぐるものとされるが、パースはその論争
点をずらした。対立はそれに先立って「確定されないもの」と「確定されたもの」
のどちらを先なるものと見るかにあるのであって、「むしろ、(パースはそこまで
明言していませんが)、個的なものをどう捉え、ないしはどう規定するかにかかわ
るものである」。

《すなわち、個的なものを、元来非確定で、したがって(ここが肝心のところです
が)汲み尽くしえない豊かさをもち普遍者や存在をいわば分有するものと見なすか、
それとも、まったく反対に、それを、いわば第一の直接与件として、しかも単純で
確定された規定を帯びた、世界と思考のアトム的な構成要素と見なすか。/「実在
論」と「唯名論」の対立の因ってくるところは、このような考え方のちがいにある
とおもわれます。》
 

(その2)
 本書には1970年1月プリンストン大学で行われた講義の記録が収められていて、
その第三講義の冒頭でクリプキはそれまでの講義を通じて「なしとげられたこと」
を自ら三つあげている。第一に、名指し(naming)は対象の性質にかかわらないこ
と。つまり名前は確定記述(指示対象を一意的に同定する性質の束)に還元できな
い純粋な指示語であって、その機能は最初の命名儀式以後の共同体における伝統に
よって受け渡されてきたものである。

 第二に、名前は「固定指示子」であること。つまり名前はあらゆる可能世界にお
いて同じ対象を指示する。ここで「可能世界」とは指示対象が現実世界でもつ性質
をもたないような反事実的状況のことで、クリプキによると「可能世界は、われわ
れがそれに結びつける記述的条件によって与えられる」(50頁)ものであって、「
強力な望遠鏡で発見される(discover)ものではなく、約定される(stipulate)
ものである」(51頁)。(だから、ある固定指示詞があらゆる可能世界において同
じ対象を指示するというとき、対象の諸可能世界にまたがる同一性の規準、貫世界
同一性の規準は必要ない。)

 第三に、異なる名前が同一であることが真ならば、それはあらかじめアプリオリ
に知ることができないとしても必然的に真であること。つまり同一性とは対象とそ
れ自身との間の関係なのであって、だから「宵の明星」と「明けの明星」と「金星
」とが同一であるということは必然的に真であり、私たちの経験的=科学的な知見
に左右されない。もしこの主張に困惑を覚えるとすれば、それは認識論的な「アプ
リオリ性」と存在論的=形而上学的な「必然性」とを混同しているからである。

 クリプキは、第一と第二の講義で「固有名」に関連して述べられたこれらのテー
ゼを第三講義で猫や水や熱、光といった一般名辞にまで拡張して、たとえば「熱は
分子運動である」といったアプリオリではないが必然的な理論的=科学的同一性の
問題を論じる。そして最後に、ある物理的状態(脳状態)とそれに対応する心理的
状態(痛み=直接的な現象学的性質)との間に想定される同一性は理論的同一性で
はない(偶然的に成り立つ同一性である)ことを論証し、心身問題に関する唯物論
(心脳同一性)を退けている。

 ──さすがは天才クリプキ。その議論はいささかの理論的混濁も概念的不純物も
含まず、純粋な思考の力でもって最短距離で「実在」の真相に迫っている。その結
論を受け入れるかどうかは別にして、ここには確かにクリプキにとっての哲学的問
題が、いやクリプキ自身の「哲覚」(身体のありかたに根ざした哲学的な問題感覚
)に裏打ちされた固有の「生」の問題が息づいている。このことを見失うとき、『
名指しと必然性』は一見きらびやかな業界的ジャーゴンに彩られた出来合の哲学問
題をめぐる、知的だが退屈な議論の書でしかないだろう。

 それではクリプキが本書で取り組んだ哲学的問題(私が本書のうちに読み込んだ
私自身の哲学的問題というべきかもしれない)とはいったい何か。おそらくそれは、
あらゆる可能世界がそこにおいて(その様相的性質として)記述される「現実世界
」の実質は何かということ、いやそもそも生命や神経システムを含む物質的世界と
言語的に構築された世界(異界=彼岸=あの世を含む)が複合する「現実世界」が
存在することそのものへの驚きだったのではないか。

 名前(固有名であれ一般名辞であれ)が純粋な指示語であって指示対象の性質に
かかわらないこと、そして名前はあらゆる可能世界において同じ対象を指示するこ
と、さらに名前の同一性は存在論的に必然的な真理であること。これらのテーゼ、
なかでも確定記述(諸性質)に置き換えることのできない固定指示子としての名前
が現実世界(その様相的性質として記述される諸可能世界を含む)に対して孕む「
過剰性」もしくは「超越論的」といってもいいあり方のうちに、クリプキの哲学的
問題の特質が露呈している。

 それはきっと、現実世界の実質をめぐる問題の系、たとえば死者の名(固有名で
あれ戒名であれ)を刻み(墓)、死者の名を口にすること(祈り)が現実世界(こ
の世)においてもつ意味、あるいは生き残った者の記憶のうちに生き続けるといっ
た事態を超える死者の実在(あの世からの魂の召還あるいは物質的な転生や復活)
をめぐる問題と密接に関係しているに違いない。

 ──論理学とは神なき神学である。より深く神秘を感じうる者こそが、より明晰
な論理を語る。

(その2・補遺)
 現実世界の実質。その起源と生成プロセス、構造と稼働メカニズムをめぐる問題。
──私にとってのそれは、現実を現実たらしめている根本的な「性質」とは何か、
いいかえれば現実世界を名指す名前はあるかということである。そしてそのとき、
そのように名指す者(命名者=観察者)とは一体誰なのかという問題でもある。

 クリプキは第一講義で、神という名辞は「唯一の神的存在として神を記述してい
るのか、それとも神の名前なのか」(29頁)と問うている。もっともそれは、確定
記述と名前という「言語の中に間違いなく存在する区別」をめぐる議論に関連して
通りすがりに軽くふれられた程度のもので、クリプキはすぐその後で「われわれは、
そのような例に煩わされる必要はない」と一蹴している。

 しかし、第三講義の「分子運動と熱の同一性」と「痛みと脳状態の同一性」の違
いを論証するくだりで、「世界を創造しつつある神」をもちだし「神は人間や動物
といった観察者を創造する前に、光を創造した」(180頁)云々と詳細に論じてい
ることを重視するならば、クリプキにとって(私にとってというべきかもしれない
)「神」もしくは世界の起源の問題は現実の現実性もしくは現実世界の名指しをめ
ぐる問題の中核をなしている。

(その2・余録)
 ──以前書いた文章(「「私」がいっぱい」)からの抜粋。
   ※ http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/ESSAY/TETUGAKU/17.html

 永井氏は「他者」論文で、「ある特定の人物が現実の両親とは別の両親から生ま
れることが出来たかどうか」という問題を立てこれを否定したクリプキの議論を紹
介していました。

《ある一人の人物が彼の実際の起源とは異なる精子と卵子から生まれて来た可能性
はない、という私の先の見解は、暗にデカルト的な見方の拒絶を示唆している。独
立に存続する精神的実体としての魂や心という観念が、われわれにはっきり理解で
きるとすれば、どうしてそれは特定の精子や卵子といった特定の物質的対象と必然
的に結びつかねばならないことがあろうか。…私が私の実際の起源とは異なる精子
と卵子から生まれてくることを想像するのは難しいという事実は、われわれが魂や
自己という概念をそれほど明確には理解していないことを示しているように思われ
る。》(『名指しと必然性』産業図書,232頁)

 「デカルト的な見方」を擁護する立場に立つ永井氏は、当然クリプキのこの主張
を認めません。

《クリプキこのような見解の根底には、一種の神学的な前提が潜んでいるように思
われる。すなわち彼は、世界を創造する神の視点から、それもこの現実世界を時間
的な順序に従って物理的に創造していく神の視点から、世界を見ているのである。
[略]もちろん私は、クリプキのこの主張をまったく認めない。われわれは「起源
」を[ある個体をその個体たらしめている:引用者註]本質的性質とみなすクリプ
キの見解を正しいものと仮定したのだから、エリザベス二世や永井均やクリプキが
彼らの実際の起源とは異なる精子や卵子から生まれてきた可能性は否定している。
しかし、〈私〉が彼らと運命をともにすべき理由はまったくないのである。》
(『〈私〉の存在の比類なさ』36-7頁)

 神といえば、「他者」論文ではこれ以外に、特定の諸性質をもった人間を生み出
すスピノザ的な「神あるいは自然」と、〈私〉の創造者でありかつ〈私〉を識別で
きる唯一の他者であるデカルトの神の名があげられていました。ここでいわれるク
リプキの神とスピノザの自然とはほぼ同義で、生命や神経システムを含む物質的世
界の、すなわち宇宙の創造者のことを意味しているのだと思います。

(これに対して、デカルトの神が創造するのは〈私〉や〈時間〉といった〈情報〉
にほかならないと私は考えているのですが、自分でもちゃんと定義できない概念を
もちだしてみても議論は始まりませんので、ここでは永井氏の論文のフォローに徹
することにします。)

 さて「独在性と他者」では、スピノザ(=クリプキ)的な神とデカルトの神は合
成され、現実世界はこれらの神がそれぞれもたらす二種の奇蹟──世界がこのよう
に存在しこの私が現にかくあるものとして存在すること(スピノザ的奇蹟)と、こ
の世界にあってこの私が〈私〉でないことも〈可能〉であったにもかかわらず現に
〈私〉であること(デカルト的奇蹟)──が折り重なってできた複合態として把握
されています。

 このような複合的な「世界」のとらえ方は、実は「他者」論文でも示されていた
ように思うのですが、単独性水準の導入を介してこそ、より鮮明にかつ深く叙述す
ることが可能になったのではないかと私は見ています。

 たとえば永井氏は、上述の二種の奇蹟に関連づけて、二つの仮想現実──その一
つは「スピノザ的奇蹟」に関連する「可能世界」(例:この私が生まれなかった世
界)で、いま一つは「デカルト的奇蹟」に関連する「別の世界」(例:この私以外
の人間あるいはその他の存在が〈私〉であった世界)──を思い描いています。

 そして、前者の「可能世界」をめぐる思考が現実世界とは異なる時空をもった世
界(宇宙)の存在を帰結するのに対して、後者の「〈私〉に関する別の世界」の思
考にあっては、現実世界(この私が〈私〉である世界)と同時に同じ場所に、相互
に重なり合いながらも無限の距離によって隔てられた「他者の世界」(別の〈私〉
の世界)が帰結されるのです。

《だが、この独在者の複数化の思考は、成就した瞬間に消滅を余儀なくされる。独
在するはずの〈私〉が、複数の《私》のうちの一つに転落するからである。矛盾的
・逆説的な仕方で複数個存在しうる〈私〉を、〈魂〉と表記するならば、〈魂〉は
垣間見られたとたんに「魂」に転落するのである。他者とは別の独在者である。だ
が、このことが承認された瞬間、他者はあいならぶ単独者となるのだ。》(81頁)

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