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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.178 (2003/08/10)
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 □ 保坂和志『カンバセイション・ピース』
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「ほぼ日刊イトイ新聞」に連載された糸井重里との対談で、保坂和志が語ったこと。

★『カンバセイション・ピース』を書いた動機──人と建物の「関係」、記憶にリ
 アリティを与えること

◎今回の『カンバセイション・ピース』っていう小説には建物がありまして、「ま
 えの小説で、風景のことを書いたから、今度は、建物と人間の関係というのを、
 ひとつ、書こうかな」っていうことなんですけど。
 いちばん大事なのは、「住んでる人と建物の間に生まれたやりとり」っていうか、
 その人と建物の「関係」だろうということなんです。
◎そして、もうひとつ、この小説を書いた動機は、「人は、過去の記憶によって守
 られている」ということでして。
 たとえば、ミステリーだと、「確かだと思っていた記憶が、ガラガラガラガラと、
 崩れていって、現在の自分があやうくなる」というのが、小説の主流というか、
 パターンですよね。
 でもそうじゃなくて、本来、ふつうの人間っていうのは、断片的に持っている過
 去の記憶によって、守られて生きているんですよね。で、それを、いちいちつっ
 ついたりしない。
 記憶の中では、襖一枚を隔てたり、壁を隔てた向こうに、人がいることがわかっ
 ていたら、「見える」ってことに、なるんですよ。
 そういう記憶を小説の中で立ちあげて、その記憶にリアリティを与えるっていう
 のが、ぼくがこれを書く、最初の動機だったんです。

★リアリティの問題──死んだネコはもういちど戻ってくる

◎今回の小説でも、死んだネコのことを思って、「死ぬことと、いなくなることと
 は、別なんだ」と、語り手が考えているんだけど。
 この小説は、「いなくなることは、消えることとは別の次元のことなんだ」とい
 うことを、いかに構築していくかの話でもあるんですよ。
 そのことを書いていく途中で、発見した言葉があるんですよ。
 「神の子が死んだということは、ありえないことであるがゆえに事実であり、葬
 られた後に復活したというのは、信じられないことであるがゆえに確実である」
 ありえないがゆえに事実であり、信じられないがゆえに確実であるという……。
 「めちゃくちゃな論理をいうやつがいるなぁ」と思いますよね?
 この言葉を、ぼくは、ポーの小説のなかで発見したんですけど、哲学辞典を見た
 ら、西暦2世紀前後にいたテルトゥリアヌスという人の、実際の言葉で。
 この矛盾した言葉の矛盾というのが、大きな段差になっているというか、すごい
 力を持っているんですよね。矛盾自体が、推進力になるというか。
 この言葉を小説の中でも書いて、で、そこから、小説の道が、またひとつ、グッ
 とこう、山道が険しくなっていくんですけど。
◎ぼくは、リアリティっていう問題をずっと考えてきてるんですが、リアリティっ
 ていうのは、「ただ、科学的に客観的にある」っていう問題じゃないんです。
 「ある」っていってる自分までがまきこまれるダイナミックなサイクルを持って
 いる状態が、リアリティなんです。
 このリアリティの中に入っていくと、自分自身の土台があやうくなっていくとい
 うか、土台が、別にものへ変わっていくという。
 ステレオタイプな意味でのリアリティの他に、言葉を持つ人間として、言葉に引
 きずられるのが、もうひとつのリアリティの生成なんじゃないか、ということを
 考えたんですよ。
 ◎小説って、書いている本人の中にも、登場人物をかたちづくるタネしかないのと
 同じように、言葉を書いていくことで、言葉によって、引きずられるわけですよ。
 自分が書いたものなんだけど、それを自分の目で読むことで、それがまた新しい
 力になって、その力に、引っぱられていくわけですよね。
 だから、小説を書くことで、「ネコや人が、物理的にいなくなることは、もうい
 ちど戻ってくるということなんだ」というリアリティを、作りだせるんじゃない
 か?
 そういう風に、思ったんです。

★『カンバセイション・ピース』の最終的な課題

◎「最も実感とは遠い、論理で突き通したテルトゥリアヌスの言葉の力」と、もう
 一方で、「言葉を知らない、幼児期の自分自身の言葉」という、言葉には、両極
 があるんだけど、日常で使っている言葉は、その両極がない、穏当な言葉なんで
 すよね。子どもにとって、まだ、人間の「言葉」と「音」は、ちゃんと区別でき
 ていない。
◎ぼくは、子どもの時、よく空耳がありまして、母親が「気のせいだよ」って言っ
 ていたのを、「木のせい」だと思っていたんです。「せい」は、妖精の精じゃな
 くて、「おまえのせいだ」の「せい」ですけど(笑)。
 そういう、まだ完成していない、いちばん、言葉と距離のある状態の言葉と、そ
 れと、さっきのテルトゥリアヌスのような、言葉として無茶に完成された言葉。
 その両端を結びつけるのが、この小説の最終的な課題だなと思って、それに気が
 ついて、最後の最後の章を書いていった。もうホントに山道がぐんぐんぐんぐん
 険しくなっていく感じだった。
◎最終章は、「そのふたつの言葉をくっつけることなんだ」と、自分で気がついて、
 それで、たぶんくっついたと思うんだけど、自分でも、やっていて、「なんてす
 げえことを考えてるんだ!」と思った。 すごいですよ、最後の章。

★『カンバセイション・ピース』の中の隠れたモチーフ

◎『カンバセイション・ピース』の中に、虫の話をするキャラクターが出てくるん
 です。
 アリって、ほんとに不思議なのは、虫の死骸とか甘いものがあると、ゾロゾロゾ
 ロゾロ、出てくるでしょう? ものすごく集団でひとつのことをやる。
 この小説の中の隠れたモチーフって、それだと思うんですよ。
◎この小説の語り手っていうのは、横浜ベイスターズファンで、しょっちゅう、横
 浜球場に行ってるわけ。
 で、横浜球場のライトスタンドで、野球を見ているんです。外野で騒ぐタイプの
 人間。そこで、みんなで一緒にメガホン叩いて、というのをずっとやっている人
 なんです。ひとりひとりの意志を超えて、球場全体が動いていくっていうか。野
 球場の中でも、ピッチャーもバッターも、スタンドもボールもバットも、ひとつ
 ひとつが、別々なんだけど全体として何かになるという……。その感じが、ずー
 っと、好きで好きでしょうがない人が、この小説の語り手なんですね。
◎ファシズムとスポーツっていうのは、同じ根っこから出た別のもので。
 同じ根っこから別に進化したものだから、もう、同じものには、ならないんです
 よ。進化をたどると、馬になったものと犬になったものとの共通の祖先は、きっ
 と、なんか、ある。だけど、馬は絶対に犬にならない。
 おたがいは、進化しあわないんです。だから、ファシストと野球場は、一緒にな
 らない。

★その他の語録

◎小説っていうのは、読む時間の中にあるもんなんだ。
◎「言葉」を持っていることが、記憶をカッチリさせる元凶の一種ではあるんだけ
 ど、文字っていうのは、話したり、ただ思ったりするだけの「言葉」以上に、人
 間のなかにあるものじゃなくて、ある種、テクノロジーの世界なんです。
 だから「文字に書く」ということは、人間本来の姿ではないものに、委ねちゃう
 ことなんですよ。
◎でも、「神様」って、最初から結果を知ってるわけでしょう?
 ぼくはやっぱり、書きながら、タネとか萌としてのキャラクターを作っていくわ
 けだから、神とはだいぶ違う。
◎音楽は、音で鳴っているものを言葉で説明しようとしても伝わらないってみんな、
 わかっていますよね。
 「小説」と「小説を説明する言葉」って、一見、同じ言葉に見えてしまうから、
 説明したら小説が伝わると思われがちだけど、まったく、別の言葉なんですよね。
 小説の中にある言葉って、小説の中でしか、味わうことができないし、感じるこ
 とができないんです。
◎小説を続けながら作りあげていくのが、小説の言葉の原則だから、無原則のよう
 なものなんですよね。その原則は、小説を説明する人の原則とはまったく、意味
 が違いますから。
◎やっぱり、小説って、読まれないと小説にならないっていうか。
◎書いている人も、書きつづけている行を読みながら書いているんだから、書くっ
 ていうのは読むことなんです。
◎誰かがどこかで読んでいる時だけ、その小説は、存在しているのであって。
 まず、いけないのが、本の解説でも、評論家の評論でも、読み終わった前提で書
 くでしょう?
◎芸術の力っていうのは、日常語によって説明させられるものじゃなくて、日常を、
 照らすものなんですから。
 その芸術や表現や作品があることで、日常の美意識とか、言葉づかいとか、思考
 様式とかが変わるものが、芸術だから。
◎だって、この小説は、ローズ引退の話なんですよ。
 

●606●保坂和志『カンバセイション・ピース』(新潮社:2003.7.30)

 最初は“CONVERSATION PEACE”だと思っていた。強いて訳すなら「会話的平和」
で、保坂和志がこの作品で書こうとした内容にそくしていえば、死者の記憶が匂い
のようにまとわりついた場所(まるで墓を思わせる古い家)で生者と死者が会話を
交わしながら共生する究極の平和。それを、「話の糸口」とか「会話をはずませる
小物」(死者の思い出の縁となる家具や装飾品がいっぱい残された古い家)を意味
する“CONVERSATION PIECE”とかけあわせているのかなと思っていた。

 会話といっても、もちろんそれはたとえば祈りであったり、死者の思い出を語り
継ぐ生者たちの一方的なコミュニケーション(あるいは第6章で叙述されている、
死者を思わせる登場人物たちが延々と繰りひろげるまるで噛み合わない多方向のコ
ミュニケーション)でしかない。

 けれどもコミュニケーションの語源的意味は「共に生きる」ということなのだか
ら、“CONVERSATION PEACE”は、存在様式を異にする死者と生者が、言語的に構築
された一つの世界(小説的思考がひらく時空間のことで、物語的世界とは違う)の
うちに共生する可能性を追究した小説にふさわしいタイトルだと思った。

(そういえば、『小説修行』で語られた「遠く離れた二人の人間が同じときに同じ
ことを思っていたかどうかとか、百年後に生きる人間がいまの私たちの努力をわか
ってくれるかどうか、というチェーホフに始まったモチーフ」に、保坂和志は『残
響』と『世界を肯定する哲学』で、それぞれ小説的思考とエッセイ的思考をもって
取り組んでいた。

 死者の世界と生者の世界、あの世とこの世、記憶と知覚、言葉以後と言葉以前、
総体と個別等々を、切り離しつつ媒介する「抽象」を言語=会話でもって構築する
『カンバセイション・ピース』の「神学的」ともいえる作業は、コミュニケーショ
ンの可能性もしくは不可能性をめぐるこれまでの仕事の集大成だったのかもしれな
い。)

 保坂和志は朝日新聞(大阪・2003年8月5日付夕刊)のインタビュー記事で、19
96年に死んだ愛猫(チャーちゃん)のことを念頭におきながら、「『生きる・死ぬ
』ということと『いる・いない』ということは、ほとんど同じだと思われるけど、
僕は違うと言いはりたい。ただ物理的に『ある』というだけじゃない、別の『あり
方』が存在することを考えたかった」と語っている。

 この物理的な「いる・いない」とは別の死者(死猫)の「あり方」について、保
坂和志は『カンバセイション・ピース』の中で、「別種のリアリティ」とか(116
頁)「魂の余韻」(208頁)とか「空欄」(354頁)とか「シミュラークル」(385
頁)とか「幻想」(396頁)とか、いろんな語彙や概念を使って思考を重ねている。
その最終的な到達点は、作品の最底部でずっと流れていた浩介のブルース・ギター
の音や綾子の歌に託して語られる。

 それは、たとえばロバート・ジョンソンや「オートマティック」やモーツアルト
の音楽がもつ「容れ物の力」(389-390頁)がもたらすものであり、あるいは「暫
定的なフレーム」としての私が媒介項となって橋渡しする季節の移ろいの中で、か
つての伯母の「声がすることがいまと一緒にある」(409頁)といった、視覚と聴
覚、空間と時間が融合する「抽象」のうちに実現するものでもある。

《私というのは暫定的に世界を切り取るフレームみたいなもので、だから見るだけ
でなく見られることも取り込むし、二人で一緒に物や風景を見ればもう一人の視線
も取り込む。言葉のやりとりでその視線を取り込むのではなく、視線を取り込むこ
とが言葉の基礎となる。/白樫の葉が月明かりに小さな光を反射させれいるのは空
からでなければ見ることができないけれど、そういう視界を私は持っていて、それ
も私がこの場所に固定されているのではなくて暫定的なフレームみたいなものだか
らだ。》(409頁)

 音楽という容れ物が人間や植物や死んだ動物たちに対して及ぼす浸透力や、暫定
的なフレームが複数の過去の声を「いま・ここ」に喚起する力になぞらえられる会
話(死者との会話もしくは死者のもう一つの「あり方」を構築する会話)。だから
こそ、『カンバセイション・ピース』は“CONVERSATION PEACE”と綴られることが
ふさわしいと私は思っていた。

 ところが先のインタビュー記事によると、『新潮』連載のタイトルを決める日の
テレビで『ベニスに死す』をやっていて、保坂和志は同じルキノ・ヴィスコンティ
の『家族の肖像 Gruppo di Famiglia in un Interno/Conversation Piece』を思
い出したらしい。この映画に出てくる老教授は、十八世紀の英国などで流行した上
流階級の家族を描いた絵画を収集していたのだが、この一家団欒図(家族の肖像)
のことを美術史の言葉で“CONVERSATION PIECE”という。

 なるほど、そうするとこの作品は和やかで温かな会話につつまれた一家団欒の情
景を、視覚や聴覚によってではなく言語的に表現したものだったのだ。『言葉の外
へ』に収められた「所感」というエッセイの中で、「これから書こうとしている小
説」つまり『カンバセイション・ピース』について、「それは信じがたいことに生
きることの充足感が最大の関心事となる」と書かれていたことと照らしあわせるな
らば、言葉を通じて言葉の外にあるリアリティと接触すること(死者や死猫との団
欒)のうちに「生きることの充足感」を描くこと、そしてそれがまた日常のありふ
れた情景(目で見ることができる個別)をなりたたせている根底に息づくリアリテ
ィ(目に見えない総体)でもあるということを、視覚や聴覚とは異なる抽象的な次
元において叙述することをめざした作品が『カンバセイション・ピース』だったの
だ。

 それでも私は、最初の直観にしたがって、この男女三人ずつ六人の登場人物と三
匹の猫による九重奏楽団(a nine-piece band)あるいは一組のベースボール・チ
ームが奏でる会話の「かたち」のうちに表現されるものを、あの世とこの世をつな
ぐ「会話的平和」と名づけておきたいと思う。(スティービー・ワンダーに“CONV
ERSATION PEACE”というタイトルのアルバムがあることだし。)

 ──ところで、村上春樹は『ノルウェイの森』で「死は生の対極としてではなく、
その一部として存在している」と書いた。このことに着目して、三浦雅士は『村上
春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』で次のように指摘している。

 日本文学は八○年代の村上春樹とともにアメリカ文学にじかにくっついてしまっ
た。それは、もともと世界の雛形=ミニアチュールとして、世界を追憶すべき場所
=世界の索引=新世界として誕生したアメリカが今世紀末に唯一の超大国となり、
世界の警察=世界の自己意識になると同時に、アメリカ文学がメランコリーすなわ
ち自己意識という病を映し出す役割をになったことを、村上春樹もまたになってい
たということで、村上春樹は「時代に漂うメランコリーを、人間に普遍的な冥界下
降譚に注ぎ込んで見せたのである」(70頁)。

 ここでいう「冥界」=「異界」とは彼岸、すなわち「あの世」のことで、三浦雅
士は「言葉はこの世に通じているとともに、あの世にも通じている。言葉こそあの
世への入り口なのだ。言葉ははじめからあの世にかかわっている。彼岸とは言葉の
こと、物語のこと、文学のことなのだ」(74頁)と書いている。

 そうだとすると、保坂和志が『カンバセイション・ピース』で取り組んだ、物理
的な「いる・いない」とは別の死者の「あり方」(裏返していえば、たとえば「暫
定的なフレーム」としてのもう一つ別の「私」)についての思考は、あの世とこの
世の二つの世界をめぐる冥界(異界)下降譚とは異なるもう一つの物語の「かたち
」を、いやそもそも物語とはまったく異なる小説的思考のあり方そのもの(哲学で
も科学でも宗教でもない、小説という表現形式が固有にもつ存在喚起力)をめぐる
ものでもあった。

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