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■ 不連続な読書日記 ■ No.177 (2003/08/09)
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□ 井上達夫『現代の貧困』
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関係を切り結んだかをめぐる長すぎる、そして結構のさだまらない前口上。──ここ数年、私の「夏休みの宿題」のテーマは心身問題(より限定して、心脳問
題)だった。今年も、訳者によって「様相の形而上学と心身問題」という副題が与
えられた『名指しと必然性』の再読(正確には、数年前から「中断」していた読書
の再開)と同時に梅雨明けを迎え、副読本に選んだネーゲルの『コウモリであると
はどのようなことか』を横目で睨みながら、でもしだいに眼光が柔和(いや、胡乱
)になり、ギシギシと蝉の鳴き声のいっぱいつまった脳髄がゆっくり溶け始める(
つまり、午睡の)快楽をつかのま享受したまでは例年通りの夏の初めの通過儀式だ
った。そうこうしているうちに保坂和志の『カンバセイション・ピース』が出たので、さ
っそく入手して同時並行的に読み進めていると、クリプキが「直観的に言って、固
有名は固定指示子である」(56頁)、つまり固有名はあらゆる可能世界において同
じ対象を指示すると書いていることと、保坂和志が「チャーちゃんはただ私や妻の
記憶の中に生きつづけているというようなことではなくて、もっと強く実在する感
じがなければならなくて、そうでないと死ぬ前の一ヵ月間の白血病による苦しみも
消えないし、もっとつづいていたはずの命が四年数ヵ月で中断された悲しみも消え
ない。私の気持ちの中で消えるのではなく、チャーちゃん自身としてそれが消えた
ということを私が見るか、見ないまでも強く感じることができなければならない」
(354頁)と書いているときの「チャーちゃん」とがダブってきた。と、まあここまでは、心は言葉でできていて、固有名は実在を指示する(それが生
存のものであれ死滅したものであれ、つまり「この世」のものであれ「あの世」の
ものであれ、あるいは「ある」のであれ「ない」のであれ)、そして固有名を含む
言葉は脳内過程をともなう、とかなんとか理屈をこねて、心身(心脳)問題と結び
つけることはできる。保坂和志が『カンバセイション・ピース』で書いた家と記憶
の関係、あるいは抽象と感覚の関係が心身問題と同型もしくはそのヴァリエーショ
ンだとこじつけることもできる。もう少し書いておくと、『カンバセイション・ピース』には家についた幽霊の話が、
というより幽霊をめぐる「会話」が繰り返し出てきて、それがチャーちゃんという
死んだ猫をめぐる「私」の思考と不可分になっている。幽霊が媒介するのは「この
世」と「あの世」なのだが、この「あの世」というのはクリプキがいう可能世界の
一つで、クリプキは「可能世界は、われわれがふと出会ったり望遠鏡で眺めたりす
る遠方の国ではない」「可能世界は、われわれがそれに結びつける記述的条件によ
って与えられるのである」(50頁)と書いている。つまり「あの世」は私たちの「
会話」のなかに「ある」ということだ。「祈り」という会話の中に「ある」と言っ
てもいい。* ここで少し脱線すると、三浦雅士は『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリ
カ』で、日本文学は八○年代の村上春樹とともにアメリカ文学=世界文学空間に
じかにくっついてしまったと書いている。それは、もともと世界の雛形=ミニア
チュールとして、世界を追憶すべき場所=世界の索引=新世界として誕生したア
メリカが今世紀末に唯一の超大国となり、世界の警察=世界の自己意識になると
同時に、アメリカ文学がメランコリーすなわち自己意識という病を映し出す役割
をになったことを、村上春樹もまたになっていたということで、三浦雅士はこの
ことを、『ノルウェイの森』で「死は生の対極としてではなく、その一部として
存在している」と書いた村上春樹は「時代に漂うメランコリーを、人間に普遍的
な冥界下降譚に注ぎ込んで見せたのである」(70頁)として、たとえばポール・
オースターとの「驚くほどの類似性」(105頁)の指摘を通じて論証してみせた。ここでいう「冥界」=「異界」とは彼岸、すなわち「あの世」のことで、三浦雅
士は「言葉はこの世に通じているとともに、あの世にも通じている。言葉こそあ
の世への入り口なのだ。言葉ははじめからあの世にかかわっている。彼岸とは言
葉のこと、物語のこと、文学のことなのだ」(74頁)と書いている。あるいは「
あの世を、世界文学空間と呼んでもいいし、世界歴史空間と呼んでもいい。/け
れど、逆に、世界文学空間、世界歴史空間のほうがこの世であって、あの世こそ
この錯綜し混迷した現在ただいまの現象、音と光と匂いに満ちた現象にほかなら
ないのだということだってできる。現実を伝えると称するテレビや新聞こそ、む
しろ世界歴史空間、世界文学空間に属しているといってもいいからだ。テレビや
新聞が伝える現実とは、実際は文学にすぎない。言語化された事実の集積にすぎ
ない。(中略)歴史的事件とは、最初から文学になっている事件のことであって、
生々しい現在のことなどではない」(274頁)とも。──いたずらに長い挿入をさらに引き延ばすと、私も以前から村上春樹とオース
ターの「類似性」に惹かれていて、三浦雅士がいつにないコロキアルな文体で、
あたかも村上春樹=柴田元幸の「ヴォイス」を批評文のうちに「翻訳」したよう
な感覚で綴った本書を読んで、とても興奮したのだが、これと同じ枠組みを使っ
て、あるいは「世界文学空間」における微妙な位置のズレを孕みながら村上春樹
と保坂和志の「類似性」を論証することができるかもしれないと思った。少なく
とも、『カンバセイション・ピース』の「私」が「年表みたいな記憶の癖」(23
頁)をもっていることや、第6章でのあの死者を思わせる人物たちが、墓=異界
を思わせる古い家のなかで延々と続けるまるで噛み合わない会話の意味などを考
えるとき、とても役に立つ枠組みなのではないかと思う。だから『カンバセイション・ピース』の「私」が「死んでからが人生なんだよね」
(104頁)と言うとき、死ぬまでの人生と死んでからの人生を通じて固有名(「チ
ャーちゃん」とか「イエス・キリスト」)はただ一つの実在を指示しているのであ
って、残った者の記憶のうちに生きているといった「心理学」的な出来事などでは
なく、もっと具体的かつ物質的なかたちで、その名を織り込んだ「会話」のうちに
死んだ者(死んだ猫を含む)は「復活」するといった趣旨のことが考えられている。* 少し先走ると、井上達夫は『現代の貧困』の、いわゆる55年体制以後の「コン
センサスの専制」に呪縛された日本社会のコミュニケーションのあり方を「自他
融合型」から「会話型」へと構造転換しなければならないと主張するくだりで次
のように書いている。《「会話」の英語表現“conversation”は、語源的には「
共に生きる(to live with)」という意味合いをもつ。共生は自他の合一ではな
く分離を前提にする。それは、容易に融和しがたい他者、脅威でさえある他者と
の共存の緊張を引き受け、かかる他者との関係構築をはかる営みである。》(240頁)ところで『カンバセイション・ピース』には、「アリなんかだってすごいじゃない
ですか」「一匹一匹はどうせ何にもわかってないんだろうけど、全体としてはちゃ
んと仕事になってるんですから」と森中が言い、「じゃあ、脳と一緒だな」「一つ
一つのニューロンはどうせ何もわかってないんだろうけど、全体としてちゃんと仕
事をしてるじゃないか」と浩介が応じるのを聞きながら、横浜ベイスターズファン
の「私」が横浜球場のスタンドにいる自分たちのことを考える場面が出てくる(76頁)。* 「ほぼ日刊イトイ新聞」に連載された糸井重里との対談で、保坂和志は次のよう
に語っている。《ひとりひとりの意志を超えて、球場全体が動いていくっていう
か。野球場の中でも、ピッチャーもバッターも、スタンドもボールもバットも、
ひとつひとつが、別々なんだけど全体として何かになるという……。その感じが、
ずーっと、好きで好きでしょうがない人が、この小説の語り手なんですね。》これがやがて、九対八で負けた対広島戦を横浜球場で観戦した帰りに「こんなこと
を考えるのはきっと、個別の中にしか総体があらわれないからで、目で見ることが
できるのは個別だけだけれど個別は総体がなければ形にならない。だから負けた試
合はどんな試合でも悔しい」(249頁)と考察する場面につながっていくのだが、
このあたりから私の気分は「心身問題」から個別と総体(普遍)、個と全体をめぐ
る「政治哲学」の問題へと微妙にズレていく。もちろん、ここにはかなりの飛躍が
ある。* 保坂和志が『カンバセイション・ピース』でしきりに「神」のことに言及するこ
とと関連させるならば、キリスト教神学でいうキリストの問題、つまり無限なる
神が有限な人間に「受肉」するという破天荒な教義をめぐる弁証や、中世普遍論
争の意味といったことと重ねあわせて、心身問題と政治哲学との間をつないでみ
せることもできそうに思うのだが、これはやってみなければわからない。飛躍はあるし唐突ではあるけれど、とにかく気分として心身問題よりも政治哲学の
問題へと向かっていったのだから、それはそれでしかたがない。だから今年の「夏
休みの宿題」は、心身の関係ならぬリベラリズムとコミュニタリアニズムの関係(
それらは同じ次元で対立するものなのかどうか)といったことになりそうで、その
ためにはまず、学生の頃やり残した宿題、たとえばジョン・スチュアート・ミルの
『自由論』にきちんと取り組むことからはじめてみようかなどと考えているのだが、
何しろこれは気分によるものなので実際のところはやってみなければわからない。* そういえば、『名指しと必然性』でも「名前には外示(denotation)はあるが内
示(conotation)はない」という『論理学大系』でのミルの学説が重要な狂言回
しの役割をになっていた。
●605●井上達夫『現代の貧困』(双書現代の哲学,岩波書店:2001.3.7)
経営組織論に「統治」の概念を導入しようとしていた教授のもとで勉強していた
ことがあった。ちょうどその頃、翻訳が出たばかりの『アンチ・オイディプス』を
使って新しい組織論を打ち立てたいなどと、今から思うと赤面ものの「構想」をい
だいていた。ネグリ/ハートの『〈帝国〉』に「生産の領域においてポストモダニズムの思考
は、経営管理と組織化の理論の分野に、おそらく最大の直接的なインパクトをあた
えた」(201頁)と書いてある。そういうことと関係があったのかどうかわからな
いが、当時の私は『アンチ・オイディプス』を「倫理の書」と評したフーコーの言
にいたく刺激をうけて、経営組織における意志決定を「実践的推論=司法過程」の
概念で分析し、そこに法的答責性(アカウンタビリティ)ではない倫理的応答性(
レスポンシビリティ)としての「責任」を導入するための枠組みを設えたいと考え
ていた。ちょっとした実践哲学ブームともいえる当時の出版事情もあってか、法哲学や政
治哲学関係の本がいつになく目にとまるなかで、私の問題意識にぴったりと重なり、
のみならず実際に読んでみてとても多くの示唆を得た書物が井上達夫の『共生の作
法─会話としての正義』だった。この本はその後も折にふれて読み返してきたのだ
が、残念ながらいまは後輩に譲って手元にない。2年前に岩波から「双書現代の哲
学」の一冊として『現代の貧困』が刊行されたときは、すぐさま入手して読み始め
た。でも、やや生硬な文章がくどく感じられて、というよりその時の私自身の関心
がそこにはなかったからなのだと思うが、そうそうに断念して放置していた。本書のあとがきに、「リベラリズムの普遍主義的な政治哲学と道徳哲学が欧米中
心主義、文化的覇権性、歴史的文脈主義などの問題をいかに克服しうるかを考察す
る別著」が予告されている。その姉妹編が出たら、そのときこそあらためて頁を繰
ってみようと思っていた。先日、書店の新刊本の棚をひやかしていて『普遍の再生
』が刊行されたことを知った。そこで、あわてて本書を読んだ。(引き続き『普遍
の再生』に取り組むかどうかは、気分次第でどうなるかわからない。)──「本書において、経済的自由主義と区別された政治哲学としてのリベラリズ
ムが、現代日本社会の閉塞状況を解明し打開する『貧困の哲学』を構築するための
重要な思想資源を提供することを示したい」。著者は序文でそう書いている。「自
律的な価値形成力の貧困による生の貧困化」と「それに伴う変革の主体の貧困化」
を克服するために、「私たちの社会の構造的変革にとって根本的な重要性をもつ三
つの貧困の位相に照明を当てたい」とも。ここで言われる「三つの貧困」とは、同質社会の神話にもとづく「関係の貧困」
と中間共同体の専制による「共同性の貧困」、そしてコンセンサス原理(コンセン
サスの専制)がもたらす「合意の貧困」である。著者によると、これらは戦後日本
を支えてきた「三種の神器」、すなわち天皇制、会社主義、55年体制にそれぞれ
対応している。この「三種の神器」の呪縛力と闘うための武器こそが、「民主主義
より根源的な原理」としてのリベラリズムの政治哲学である。以下、それぞれの「
貧困」をめぐる緻密な論考が展開されるのだが、ここではそれらの議論の根本にあ
るものを取り上げる。およそ政治を論じようとする者には、理想とする政治社会についてのイメージと
いうものがあるのだろう。著者のそれは、たとえば次のように記述される。これは、
三つの豊かさの概念のうち、生活の「質の豊かさ」が実現された社会を「思考実験
」的に叙述した後に出てくる文章だ。(「三つの豊かさ」とは、「量」の豊かさと
「質」の豊かさと「関係」の豊かさのことで、著者はそれぞれに関連する政治状況
として、55年体制、参加型民主主義・分権化による地方自治の活性化、司法消極
主義の解消による立憲的人権保障制度の確立をあげている。)《何か大切なものが、ここには欠けている。何が足りないのか。それは、自己の内
奥を揺さぶるような異質な生のあり方との出逢いである。多様な生の諸形式が交錯
し、衝突し、刺激しあい、誘惑しあうことにより、互いの根を深め、地平を広げあ
うような豊かさである。多様なものが棲み分けるのではなく、むしろ相互に侵犯し
あうことにより、互いを活性化し、ダイナミックに発展してゆくような豊かさがな
い。〈質の豊かさ〉はあっても、異質なものが競合し共生する〈関係の豊かさ〉が、
そこにはないのである。》(60頁)著者は続けて、単一の範型・目標の達成度を競う「達成型競争」(エミュレーシ
ョン)と異質なものの間の相互啓発としての「探求型競争」(コンペティション)
という二つの競争を対比させながら、規格化された「生活の質」への横並び平等的
要求の充足が「関係の豊かさ」の犠牲の上にもたらされる危険性を指摘している。
これは、後の「合意の貧困」をめぐる議論の中に出てくる二つの競争の概念、すな
わち「特殊権益の跋扈により政治の機能停止をもたらす利益抗争としての競争」と
「公共的価値のより良き解釈を試行錯誤的に追求する本来の意味での政治的競争」
とパラレルな関係にある。ここに頻出する数々の美しい言葉は、いずれも「空文」である。著者はさらに、
いわゆる55年体制以後の「コンセンサスの専制」に呪縛された日本社会のコミュ
ニケーションのあり方を「自他融合型」から「会話型」へと構造転換しなければな
らないと主張するくだりで、次のように書いている。これもまた「空文」である。《「会話」の英語表現“conversation”は、語源的には「共に生きる(to live with)
」という意味合いをもつ。共生は自他の合一ではなく分離を前提にする。それは、
容易に融和しがたい他者、脅威でさえある他者との共存の緊張を引き受け、かかる
他者との関係構築をはかる営みである。》(240頁)また、「共生の経験としての会話」は、「自他の異質性の自覚と人格的別個独立
性の相互承認」と「相互変容への開放性」と「合意の限界の自覚と対立の受容」と
いう三つの特質をもつというのだが、これらも「空文」である。そもそも、民主主
義であれ、著者がいう「民主主義より根源的な原理」としてのリベラリズムであれ、
いずれもその実質的な内容を示すことなどできない「空文」である。経験に先立つものを経験を通じて培うこと。たとえば、死者と「共に生きる」こ
と。著者がいう「共生」や「会話」は、この根本矛盾にさらされている。著者の議
論の無効性、あるいは政治をめぐる思想一般の無効性を言い立てようというのでは
ない。根本矛盾の自覚なくして政治思想は語れないと言いたいのである。〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
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