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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.175 (2003/07/27)
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 □ 安岡章太郎『私の[ぼく]東綺譚』
 □ 島村菜津『スローフードな人生!』
 □ 櫻井よしこ『迷走日本の原点』
 □ 梁石日『アジア的身体』
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●594●安岡章太郎『私の[ぼく]東綺譚』(新潮文庫:2003.7.1/1999)

 傷病兵の無聊をいやした一冊の書物。安岡章太郎が、個人史と時代の転変を織り
まぜながら、自らの荷風体験の一部始終を綴ったこの小さな本は、解説の高橋昌男
がいう「私評論」がもつ独特の陰翳をまといながら、文学という営みの底の深さ、
いや、文士という生き方の業の深さをあざやかに浮き彫りにしてゆく。

 読者は、安岡章太郎の文章の力に乗せられて、いつしか永井荷風の名作の核心─
─この小説の真の主題は天然自然というものに在る。「何度も言うように、季節の
変り目がこの小説の主題であり、人の生別死別に匹敵する程ドラマの激しさを感じ
させるものが其処にある。」──へと案内される。

 「ストーリーも平板だし、叙述も格別際立ったものであるようにも感じられない。
それでいて読み終ると、極めて上質のコンソメ・スープを口にしたような。こくの
ある味わいを覚えるのである。」この評言は、そのまま本書にあてはめられる。木
村荘八の挿絵、新聞写真、そして荷風自身が撮影した数葉の写真が、読後の余情を
濃いものにしてくれる。

●595●島村菜津『スローフードな人生!──イタリアの食卓から始まる』
                        (新潮文庫:2003.5.1/2000)

 哲学者は長年「方法的懐疑」に磨きをかけてきた。これに対するジャーナリスト
の常套手段は「方法的わからずや」(アイロニカルではない批判精神)である。目
から鼻に抜ける理解力ではとりこぼしてしまうものを、腑に落ちるまで時間をかけ
て、たくさんの人の話を聞き、現地に赴き体験を重ねながら少しずつ、かたつむり
のようにスローに理解し、素材ごと読者に伝える。

 著者は、最初に訪れたイタリア北部の片田舎で、スローフード協会の副会長シル
ヴィオさんから「すべては関係性の問題なんだ。人と人、人と自然とのね。他者と
いかにコミュニケーションをとっていくのか。大地からの恵みをどうやって口まで
運ぶのか。そういう根源的な関係性の問題の根底に食というものがあるんだ」とき
かされる。そこからジャーナリストの旅が始まる。

 ローマの反マクドナルド闘争を通じて、ファーストフードとスローフードの単純
ではない関係に思い至り、イタリアワインや山羊のチーズの生産者、アグリトゥリ
ズモ(農業と宿泊施設がひとつになった田舎の宿)の経営者に取材し、またスロー
フード協会が進める「味の教室」に参加し、遠くロシアの家庭やイタリアの「スロ
ータウン」で共食(コンヴィヴィウム)の楽しさを知る。

 そして最後に、「大げさな言い方をすれば、スローフードとは、口から入れる食
べ物を通じて、自分と世界との関係をゆっくりと問い直すことにほかならない」と
シルヴィオさんの言葉の意味を理解し、「人類の壮大な夢を託したスローライフ」
の実践者たることを決意する。──小泉武夫さんが誉めている。「こんなに大切な
ことを書いた島村なっちゃん、偉いぞ」。

●596●櫻井よしこ『迷走日本の原点』(新潮文庫:2003.4.1/2001)

 櫻井よしこの文章は保守系月刊誌でよく目にした。(最近では「週刊ダイヤモン
ド」の連載を時折ながめている。バックナンバーがHPで読める。
[http://www.yoshiko-sakurai.jp])いささかの個人的感懐や埋め草的駄弁を交
えず、鋭く事の本質を抉り真一文字に結論を導く「純粋時評」ともいうべき硬派・
辛口の筆鋒は、その風貌と語り口のやわらかさもあってか、一種独特の品格と奥深
さをたたえている。そこで主張されている議論に賛同するかどうかは別にして、怜
悧な怒りと揺るぎない信念に裏打ちされた紛れもない「論」がくっきりと確かに立
ち上がっている。

 「櫻井よしこ、魂の直言集」と銘打たれた『迷走日本の原点』は、そうした時論
とは趣を異にして、壊死寸前の日本の惨状をもたらした原罪と、もう一つの日本を
希望をもって展望する起点を「奥深い歴史」のうちに探った書物である。俎上に上
るのは、経済至上主義や「吉田ドクトリン」といった戦後日本のイデオロギー、金
融、官僚、系列、教育といった疲弊した制度、領土や国防や国家観、憲法改正や在
日韓国人といった未解決問題で、ジャーナリスト・櫻井よしこは、あくまで事実と
歴史に即して、自らの「論」が立ち上がるべき原点を特定していく。著者の「論」
を受け入れるかどうかを云々する前に、まずここで特定された事実(歴史)を吟味
する冷静な作業が必要だ。論争の書とは、このような書物を言うのだと思う。

 誰の言葉かは忘れたが、政治と行政を見切るためには税制と農政をウォッチすれ
ばよいという。本書でも「税制が日本人の自立を阻んでいる」と「バラマキ農政の
アリ地獄ふたたび」の二つの章で、国家総動員法(1938年公布)に関連する戦費調
達税制(直接税中心主義や源泉徴収制度)と食糧管理法(1942施行)以来の、税制
と農政の迷走ぶりが詳細に報告されている。とても説得力がある文章だと私は思う
のだが、さてそこからどのような「論」を立ち上げるべきかと考えたとき、微妙な
違和感が拭えなかった。(それは、約80種の租税特別措置が税の公正を、ひいては
国民の自立心を損なっているという主張と、農業を自立させるために国は農業への
口出しをやめ、税制や行政措置を一刻も早く実施すべきであるという主張との間に
政策的整合性が認めがたいといったことだけではない。)

 櫻井よしこの「論」の根っこには、国というものに対する揺るぎない信念がある。
個人のアイデンティティや自立の根拠とは、究極のところ国である。「個人の存在
を粒だたせ、光らせていくと同時に、個人の総合体としての国を意識し、国益を考
えていくことが重要な世紀に入ったのだ」(あとがき)。しかし、そこで言われる
「国」とは、究極のところ諸個人と制度に尽きるはずだ。税制であれ農政であれ、
もちろん金融や教育、社会基盤であれ、宇沢弘文が「社会的共通資本」と呼ぶ一切
のものが、必ずしも「国」という観念によらずとも厳密に(工学的に)考察できる
はずだ。

 櫻井よしこの「論」が根底に据えた「国」という観念がまとうロマンティシズム
の薄皮を慎重に剥いだときにこそ、たとえば最終章「フリーター200万人の漂流
」で、フリーターを日本の閉塞を突破する人材へと転じるため、政府は大胆に若者
たちを海外で学ばせるプログラムを組むべきだといった「現実的」な政策提言が生
まれてくる。

 附録。松岡正剛の千夜千冊(691夜)でも櫻井よしこの作品(『大人たちの失敗』
)が取り上げられていた。例によってリンクの張り方が秀逸なので、いくつか例を
拾っておく。

◎「仮に櫻井よしこが何者であるかをまったく知らないままにこれを読んだとして
も、きっとその読者の心を打つものがはっきりしていて、その響きがこちらにもド
クドク伝わってきそうなところが、いいのである。」
 →ハンナ・アレント『人間の条件』
◎「政治評論や時事評論はゴマンと読んできたが、このように主題に負けないでい
られるのは、ジャーナリストとしてはそうとうに稀有である。」
 →清沢洌『暗黒日記』
◎「この人は本気で日本を憂いているのである。」→新渡戸稲造『武士道』

●597●梁石日『アジア的身体』(平凡社ライブラリー:1999.1.15/1990)

 ヤン・ソギルの本は初めて読んだ。梁石日が中上健次をどう批判しているのかを
知りたくて、関連しそうな文章にざっと目を通しているうち、思わず読み耽ってし
まった。

 馳星周が「解説──失われた身体への憧憬」で、「梁石日の書く人物たちに共通
した特徴──他者を飲み込んで顧みない情念と、肉体の圧倒的な存在感。このふた
つは、日本人がとうに失って久しいものだ。/情念と肉体。このふたつが共存する
ところに、おそらくは本書のテーマである「アジア的身体」が依ってたつ基がある
」と書いている。藤原新也が『全東洋街道』の、たしかトルコの娼婦の写真に添え
たキャプションに「人間は肉でしょ。気持ちいっぱいあるでしょ」と書きつけてい
たのを思い出した。

 梁石日が言う「アジア的身体」のなんたるかは、たとえば「アジア的身体につい
て」と題された文章や、岡庭昇との対談「アジア的身体──在日の思想とはなにか
」を読めば、わかる。でも、読んでわかることだったら、それは実は最初からわか
っていたこと、あるいは言葉のうちにあらかじめ書き込まれていたことにすぎない。
言葉でもって言葉を突き抜けてみせるのが、梁石日がこだわる「文学」であるとす
るならば、本書について言葉で語る前に、まず梁石日の小説を読んでみなければな
らない。

《差別には必ず身体が介在してきますが、同時に暴力も介在してきます。私たちは
暴力を肉体的な行為と見なしがちですが、テロルを孕んだ精神的行為であると考え
るべきです。そしてそこには必ず身体が介在している。》(「アジア的身体につい
て」)

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