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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.172 (2003/07/05)
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 □ 松岡正剛『分母の消息』(一)(二)
 □ 松岡正剛『本の読み方』(一)(二)
 □ 松岡正剛『帝塚山講義』(一)(二)
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松岡正剛の「千冊千夜」は、読み始めたら止まらない。大量生産される規格化され
た「書評」群とは一線を画して、書物と著者と文化史と個人史をめぐる、ちょっと
比類のないデータベースを編み上げている。

所々に張られたリンクがめっぽう面白い。たとえば、第七百三十三夜(2003年03月
14日)で取り上げられた、アウグスティヌス『三位一体論』。アウグスティヌスに
よれば、知識は「時間的なものにおける理性的な精神の職務」にあたるもの、知恵
は「観想すべき永遠なるものに専念する精神の職務」なのである。ここに出てくる
「時間的なものにおける理性的な精神の職務」がディドロ+ダランベール『百科全
書』に、「観想すべき永遠なるものに専念する精神の職務」がアーサー・C・クラ
ーク『地球幼年期の終わり』につながっている。

こうしたリンクが無尽にからまっていって、何が何だかわからない途轍もない世界
が出現する。それはそのまま、希代のネットワーカー(現代のライプニッツ?)に
して文人(現代の幸田露伴?)たる松岡正剛の「編集セカイ」につながっている。

松岡正剛の方法、というより本質を示すキーワードは「網羅」と「圧縮」と「経路」
だと思う。松岡自身のオリジナルな文章、発言をペーストしておく。

◎網羅──「千夜千冊」の第六百八十三夜、西村三郎『文明のなかの博物学』

《モーラ。
 ぼくはモーラに徹することをつねに心掛けてきた。いつもではないが、必ずや定
期的にモーラに挑む。
 モーラは神の名前でも、女の名前でもない。モーラとは「網羅」のことで、日本
では古来よりモーラを「尽し」とよんできた。『古事記』から水戸光圀の『大日本
史』にいたるまで、平安の『口遊(くちずさみ)』から馬琴の『南総里見八犬伝』
にいたるまで、また塙保己一の『群書類従』や大槻文彦の『言海』のように、現象
や産物や流行や言語を尽して並べることは、それ自体がメソッドであってコンテン
ツだったのである。
 ぼく自身のモーラ作業は『全宇宙誌』あたりに始まって、『アート・ジャパネス
ク』『日本の組織』『情報の歴史』というふうにエスカレートして、その後は60万
冊から200万冊におよぶ書籍を“知図”として配置する「ISIS図書街」や、最
近になってとりくんでいるDVD一人語りで日本史を18巻にわたって走り抜ける「
松岡正剛の高速日本史」企画(NTT-EI発売)などになっている。モーラの形
も変わってきた。
 なぜこんなにもモーラに挑むかととえば、モーラをしてみなければ見えてこない
ものがたくさんあるからだ。とくに方法である。たとえば「見立て」の手法はモー
ラから生まれるし、「かぎり」はモーラが見えなければ限れない。もっと大きいの
はモーラによってのみ「世界模型」が見えてくるということである。

 ふつうモーラは「網羅主義」などと揶揄されて、およそ工夫のないダサイ方法だ
とみなされている。だが、これはまったくまちがっている。むしろモーラの工夫こ
そが歴史を変えてきた。そう見るべきなのだ。
 その代表的な例が博物誌や百科事典や本草学や辞書である。その対象範囲はまこ
とに広い。なぜならそもそもアリステレスがモーラであって、仏典がモーラなので
ある。『倶舎論』やフランシス・ベーコンの「森の森」がモーラであって、ダンテ
の『神曲』や『本草綱目』がモーラなのである。どうしてモーラなき思想や方法の
解発がありうるか。》

◎圧縮──『分母の消息(一)──花鳥風月の逆襲』

《花鳥風月とはひとつの圧縮であった。コンデンセーションである。これを情報圧
縮と言ってもいいが、ただしコンプレッションではない。コンプレッションではな
くコンデンセーションであろうとしたところ、そこに古代から中世への、さらにい
えば乱世への転換の意志があった。
 つまり花鳥風月という圧縮は、たぶん「主題の圧縮」ではなく「方法への圧縮」
なのである。クロード・モネの水連なのだ。執拗にくりかえして水連を描けば、主
題のほとんどは方法の中に移行しはじめる。主題だけが縮小され分散されて圧縮さ
れるのなら、これは対象をマイクロフィルムでコピーし、これをまた適当にブロー
アップしてプリントしているのとかわらない。たんなる"切り売り"である。"ダ・
カーポ"である。そうではなく、方法そのものが主題の本文を引きとり、方法の中
に主題が溶けて内包されていくことがコンデンセーションになる。
 だから、この方法は、ポップコーン片手にいいかげんな記号の快感に酔うブラン
ド志向のように安全きわまりない「類型の維持」なのではなく、むしろ、何度ここ
ろみたところではかない結果が見えているロックシーンの一致団結のように、はな
はだ危険で臆病な「類型の衰弱」なのだ。しかし、だからこそ、ぞっとするような
こともおこる。》(第二章「外来するトワイライト・カテゴリー」)

◎経路──「自著本談:遊T」の第5回「情報は継承される」
        ※ http://www.eel.co.jp/03_wear/02_selfread/Yu/main05.html

《僕は義理堅いところがあってね。コンテンツがいいならメディアは関係ないとい
うタイプではないと先ほど言いましたが、だれかが情報をもたらしたなら、その人
が大事だ、という博徒のような仁義をもっていた。情報は運ばれるものだから、運
んできた人に敬意を表したいんですね。
 例えば僕に『マルドロールの歌』を教えてくれたのは予備校の夏期講習で一緒に
なった橋本綱という女の人なんですよ。「ロートレアモンという男がいてね、『マ
ルドロールの歌』というのがあるのよ」ってね。なんで教えてくれたのかもわから
ないけども、いまなら自由が丘のケーキ屋さんでみるようなその名前が新鮮でね。
しかし、そうか、そういう詩人がいたのかと思って、乏しい資料でみてみると、と
んでもない詩人だったのです。そうするとその女性が僕の中にマルドロールと一緒
に入る。僕が『マルドロールの歌』について書こうとすると、同時にその女性につ
いても書くことになるんですね。いま、千夜千冊でやっているのはこのことです。
 つまり、その情報が僕のところに運ばれてきたその時の情景、それにかかわるも
のが重要なわけです。誰かが、「ヘーゲルがね」とか、「ニーチェがさあ」という
とき、どこでそれを知ったのか。ニーチェが直接言ったわけではないだろう、誰か
から、あるいは岩波文庫から、あるいは学校の先生から“ニーチェ”という名前を
聞いたときがあるでしょう、と情報の経路を考えます。それを継承していくのが文
化であり、責任とは言わないけども仁義というものではないか、という思いがある
んです。》
 

●580●松岡正剛『分母の消息(一)──花鳥風月の逆襲』
              (デジタオブックレット001,デジタオ:2003.4.25)
●581●松岡正剛『分母の消息(二)──場面主義』
              (デジタオブックレット004,デジタオ:2003.5.25)
●582●松岡正剛『本の読み方(一)──皮膚とオブジェ』
              (デジタオブックレット002,デジタオ:2003.4.25)
●583●松岡正剛『本の読み方(二)──鍵と鍵穴』
              (デジタオブックレット005,デジタオ:2003.5.25)
●584●松岡正剛『帝塚山講義(一)──人間と文化の関係』
              (デジタオブックレット003,デジタオ:2003.4.25)
●585●松岡正剛『帝塚山講義(二)──なぜ人間は神を作ったか』
              (デジタオブックレット006,デジタオ:2003.5.25)

 写真で見る松岡正剛は、どこか右翼の思想家を思わせる。以前TVで放映された
その風貌には、知性派ヤクザの凄みが漂っていた。この人の語る言葉は、なよやか
でいながら切れ味鋭い匕首を隠している。でも、その文章は衒いも外連もなく、歯
がゆいまでにただ淡々と綴られていく。リアルタイムで『遊』に驚愕した鮮烈な体
験からすると、あまりに物足りなかった。(唯一、『情報の歴史を読む』が例外的
に面白かった。ただしそれは宇宙開闢から古代、中世あたりまでのことで、近現代
になるとやや走りすぎで興が醒めた。)

 ところが最近、見方が変わってきた。この「天使の取り分」とも言うべき「欠落
」をはらんだ文章のうちに、読み手の力量に応じていかようにでも掘り出すことの
できる濃縮された情報が、どれほど惜しげもなく盛り込まれていたことか。(たと
えば『山水思想』などを読むと、衒いとも外連とも無縁な淡々とした文章のうちに、
何かしら濃厚で圧縮された文化の核心のようなものが掘り出され、無造作にちりば
められている。現代のライプニッツとも言うべき希代のネットワーカー・松岡正剛
の方法、というより本質を示すキーワードは「網羅」と「圧縮」と「経路」の三つ
だと私は考えているのだが、そのすべてがこの本には濃縮されている。)

 松岡正剛の未刊行の文章が「松岡正剛編集セカイ読本第一期」(全三巻十四冊)
として、一時間で読めるブックレット形式で毎月三冊配本されることになった。高
速(1987年から「夜想」に連載された『分母の消息』)、中速(1994年から「ダイ
ヤモンド・エグゼクティブ」に連載された『本の読み方』)、低速(1998年の講義
録『帝塚山講義』)の三部構成で、松岡正剛が松岡正剛になっていく全プロセスの
記録集と言ってもいい。

 その第二回配本分まで読んだ。松岡正剛の文章が最後まで、これほど面白く読め
たことはかつてなかった。マーキングやメモ書きをつけたり、ドッグ・イヤーを折
ったりせず、ただ黙々と語りに聴き入ったので、その藝を心地よく堪能した充足感
だけがしっとりと残って、中身はあまり覚えていない。(いま、ふと思い出したの
だが、松岡正剛はシオランの愛読者だった。)

 一つ、とても気になる文章があった。『場面主義』に収められた「映像からの脱
出と注意の様式」の章に出てくるもので、松岡正剛の思考と方法にとって最重要な
事柄がそこで語られ始めているように思うのだが、いまだにうまく腑に落ちてこな
い。(『分母の消息(三)──場面主義』で、名所の設定や記憶における「場面の問
題」と「そこに思いを向ける」という注意のダイナミズムとの関連について、「別
の角度」からとりくまれているらしい。引き続き、一時間読書を継続して、松岡正
剛の「編集セカイ」に遊んでみることにしよう。)

《このところ私は、ある根本的なことを考えている。うまく考えられずに困ってい
ると言ってもよい。
 あるいは、世の中の思想というのは、結局のところはパターンの中にはまった議
論に終始していて、どうも当たり前の疑問の大半については放置したままになって
いるため、たとえば、次のような問題を前にしたときに、ほとんどどんな参考書も
見当たらないので、やむなく独力で思考をはじめるのだが、やはり世の中の思想は
よくしたもので、こうした面倒をうまく排除しているのだということに気づかされ
ている、そう言ってもいい。
 その私を悩ませている問題というのは、われわれはどのように風景を見ているの
かということ、なぜ、ここがいい風景だと思ってそこを切り取っているのかという
ことである。もう少し広げていうのなら、われわれにとって「そこに思いが向く」
とはいったいどういうことなのかということだ。それを考えたいのである。》(『
場面主義』52頁)

《私の考えはこうである。
 実は、場面の特定こそが思考の法則なのだということだ。そしてそこには手続の
法則があるということなのである。(中略)
 おそらく、われわれの生活には名所が必要なのである。風景はもともとのんべん
だらりとつながっているものであるが、こんな切れ目のない風景の中ではわれわれ
は生活ができない。そこで、世界という「界」が必要になる。これは限界という方
法、すなわち界を限るという方法だ。(以下、略)》(『場面主義』60-61頁)

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