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 ■ 不連続な読書日記                ■ No.171 (2003/06/29)
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 □ 石川忠司『孔子の哲学』
 □ 檜垣立哉『ドゥルーズ』
 □ 郡司ペギオ‐幸夫『私の意識とは何か』
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●577●石川忠司『孔子の哲学 「仁」とは何か』
             (シリーズ・道徳の系譜,河出書房新社:2003.6.30)

《例えば「弟子[ていし]、入りては則ち孝、出でては則ち弟、謹しみて信あり、
汎く衆を愛して仁に親しみ……」(学而6)を、「若者よ、君たちは、家の中では
親孝行し、社会に出ては従順にふるまい、身を慎んで誠実であれ、人間をひろく愛
して仁に親しみなさい」みたいにパラフレーズしてみると、漢文ヴァージョンを読
んだときに生じた魂の高揚がほとんど消え、高揚どころか逆に不快なむかつきすら
覚えるのはどうしてか。》(118-119頁)

 どうしてか、と訊かれても困るが、この感覚はとてもよくわかる。著者は続けて、
白川静の『孔子伝』から「孔子のことばにはイデアがある」「そのイデアは、日常
の問答の間にも、美しい旋律をなして流れる」を引き合いに出した上で、「結局、
『論語』の中の孔子の言葉とは、彼自身の精神の活動力と緊張とがそのままイデア
=ロゴスのかたちをとって奇跡的に現れたものにほかならない」と結んでいる。

《ここではイデア=ロゴス、すなわち「すぐれた哲人」の唯一的な〈内容=本質〉
自体がいわば剥き出しになって放り出されているのであり、これは正確にはもはや
言葉ではなく、あらゆるタイプの媒体や橋渡しを拒絶するし、したがって一切の流
通や交換やパラフレーズを受けつけない。》(120頁)

 だから著者は、『論語』は「孔門のブルース」(116頁)だと言うのである。ハ
ーバート・フィンガレットが『孔子──聖としての世俗者』で、孔子の学説におい
て「仁」とは「個人が『仁』を行おうと決心すること」であって、それは愛や真心
といった人間の内面の奥深くに秘められた心的な場所で進行する隠された過程など
ではなく、逆に堂々と天下万民の前に曝け出された外的かつ公共的な「実体」にほ
かならないとして、何かの楽曲を演奏しているときのパフォーマーを例にあげたこ
とを受けて、著者はこう書いている。

《あるギタリストがジョン・リー・フッカーの「ブギ・チレン」を弾き語っている
としよう(できればスペシャリティ盤に収められているヴァージョンが望ましい)。
この場合、ぼくたちはただ外的=物理的な音響(音声)に耳を傾けているだけで、
彼が演奏に込めたさまざまにブルーな感情、すなわちディープなブルース的「決心
」をきちんと知覚することができる。たとえ音を外したとしても、やはりただ聴い
ているだけで、彼がどの音を目指していたのか、どんなブルーな塊をガッと吐き出
すつもりだったのかをはっきりと理解できる。いずれにせよ、何もギタリストの頭
をカチ割って、わざわざ演奏中の内面的な意図だの伝記パルスだの脳内のニューロ
ンの活動だのを調べなくってもいい。》(19-20頁)

 このような外的な「現われ」のうちに捉えられた「仁」を出発点として、著者は、
アレンカ・ジュパンチッチの『リアルの倫理──カントとラカン』に準拠しながら、
主体の三つの概念(自発的に行動したつもりでその実決定論に翻弄されている一般
的な主体、世界の因果法則を受け入れそれを法則たらしめつつそのシステムを背後
から密かに補填している無意識の「主体」、そもそも無意識の「主体」を選択した
ところの第三のレベルの自由な〈主体〉)を腑分けした上で、生きていること自体
が「仁」であると喝破する。

《そして、こうした一筋縄ではいかない事態を一言で簡潔に表現すれば、「ぼくた
ちの世界、およびぼくたち自身は、どうしようもなく祝福されている」といった感
じになりはしないか。第一のレベルの素朴な主体(理性や内面や心理や意志)から
離れ、ジュパンチッチが言った意味でのシステムに「盲従」することにより自由と
真の〈主体性〉の次元が開かれるここ伝統世界=実在世界=外的世界では、誰もが
自分の名と責任において正確に苦しみ、喜び、悲しみ、楽天し、ひっくり返り、と
きに見苦しく、ときに開き直って右往左往する。この地点は世界のどん底だろう。
人間が生きていることの「意味」や「価値」が丸ごとぶちまけられ、グツグツと沸
き立っている。「仁」=道徳とは、同じことだが真の〈主体性〉とは、何であれ外
的世界がぼくたちにもたらすさまざまな現象的帰結の果実をすべて味わい尽くす「
どん欲さ」、もしくは「打たれ強さ」を指すとここで言い切ってしまっていい。》
(45-46頁)

 この言い切りが「素人仕事」(あとがき)の真骨頂で、以下、著者は、ベンヤミ
ン(「暴力批判論」)やドストエフスキー(『白痴』)を持ち出して、「仁」にか
なった(高貴な)殺人と「不仁」の(下賤な)殺人の区別を論じ、孔子の「仁」は
人間を尊重するがこの人間は生命とイコールではない、と論証する。《要するに、
孔子もベンヤミンも、〈人間〉をたんなる「(人間の)生命」を超えた遙か高みに
あるものと考えている。》(69頁)

 さらに、等しく外面的な「礼」(伝統によって定められた型)との関係をフロイ
トの超自我と欲望のそれに譬えて、生命力に溢れた「仁」の放埒な性格にプレッシ
ャーをかけ、その荒々しいエネルギーを奪い「聖」の方向へと矯正を行う一種の監
視者・教育者として「礼」を捉える。そして、最後に、孔子の現代性に説き及ぶ。

《人間の誰もが自己目的化した「仁」にしたがって行動しさえすれば、そのとき社
会は必然的に優雅で華麗で涼やかな、すなわち「礼」にかなった振る舞いの織り成
す美しい織物となるであろう。(略)さて、ここに至って、孔子が古代の伝統に対
して行った「合理化」=「社会化」の正体がはじめて明らかとなる。すなわち彼は
古代の宗教的慣習から(精神的な価値をも含む)あらゆる「有用」な利益=利害を
とり去って、交換やパラフレーズを受けつけない〈内容=本質〉だけを抽出しよう
と試み、それを具体的な喪礼を中心に集大成したのであった。「仁」的な行為は、
己以外に根拠も土台も持たぬ、まさに「仁」に向けられた、「仁」のための行いで
ある。彼の手がけた「合理化」「社会化」とは、畢竟、伝統の〈本質〉化=ゲーム
化=「空虚」化の謂にほかならない。しかし宗教的伝統から同じく〈本質〉のみを
繰り込むにしても、このプロセスを内面の問題として純化していった西欧のプロテ
スタントと異なり、あくまでも具体的な社会に開かれた世俗的・儀礼的なかたちで
〈本質〉を捉えたところに孔子の真骨頂がうかがえる。》(125頁)

 ──まことに奔放にして、自在な筆致だ。ここには、思想の即興演奏の醍醐味が
ある。

●578●檜垣立哉『ドゥルーズ 解けない問いを生きる』
           (シリーズ・哲学のエッセンス,NHK出版:2002.10.25)

 ドゥルーズの哲学は「根拠なき生成の論理」(24頁)を探る「生の唯物論」(10
9頁)である。

 ドゥルーズは世界を「卵(ラン)」=「潜在的な多様体」と捉えた。否定性に対
して多様性、可能性に対して潜在性を代置し、世界のリアルさ、すなわち「新たな
ものが現れつづけることにさらされる、剥きだしのなまのもの」を「俯瞰」的に記
述しようとした。それは「潜在性の存在論」(124頁)である。

 また、ドゥルーズは、潜在性から現実化へと向かう生成の過程のなかで、出来事
を現実化に導く、分化の途上にあるものとしての個体を重視した(72頁〜)。個体
は、現実化された諸区分(同一性)に収まらない、ひとつひとつが特異な存在であ
る。ドゥルーズの哲学は個体の存在論であり「個体のシステム論」(113頁)である。

《そして本当のことをいえば、われわれが生きる対象、われわれ自身、時間のなか
でありつづける存在は、すべて特異な仕方でシステムを表現する個体にほかならな
いのではないか。個体こそが、この世界の姿そのものではないか。》(77頁)

 個体をめぐるドゥルーズの議論には、倫理についてのメッセージがはらまれてい
る(92頁〜)。ドゥルーズのポジティブな生成のシステム論において、個体とは「
潜在的な多様体が、それを通じてしか表現されえない特異なもの」であった。それ
は〈私〉に依拠しないし、他者や死といった「否定的であることにより力を与えら
れる対象」が倫理の根拠におかれることもありえない。

《〈私〉ではない個体の倫理とは、人間の倫理というよりは、むしろ人間もそこに
根づいている〈生成の倫理〉を目指すだろう。それは、人間の観点からなされる倫
理のヴィジョンをひっくり返し、生命の唯物性や、その過酷さにすらしたがった言
葉を導くことになるだろう。「人間」のパラダイム以降を描く倫理とは、こうした
方向からしか生じないだろう。》(100頁)

 「人間」のパラダイム以降を描く倫理。──「生命や情報が緊急の主題になり、
生態系がクローズアップされ、国家を逸脱したグローバリティが問われる」時代、
つまり「ミクロな領域からマクロな領域まで、脳や遺伝子や免疫という生命の領域
から、広域のひとの経済社会的活動に到るまで、包括的なシステムとしての視界が
要請される」(107頁)時代における倫理を考えること。

 それは「単独でもあり群生でもあり、単性的でも有性的でもあり、植物でもあり
動物でもあり、自己でも他者でもあり、さまざまなポテンシャルを含みつつあるハ
イブリッドな(異質なものが内的に入り込んでいる)もの」(101頁)、たとえば
タマホコリカビの個体に即して、「生命のハイブリッドな転変にそのまま応じる動
的な視線をもちながら、倫理性について考えること」(105頁)である。

 ──ドゥルーズの思考を俯瞰しつついくつかの襞にわけいって、その「衝撃力」
を読者に実験させること。この小冊子を読み捨てて、ドゥルーズそのものへと向か
うとき、解けない問いであるこの世界のうちに新しいものが産出される。

 豊かな可能性、いや潜在性をはらんだ書物だ。生命系=ポジティヴィズム=ライ
プニッツ=ドゥルーズと情報系=ネガティヴィズム=ヘーゲル=デリダという「ヨ
ーロッパ的な思考の二つの究極的なモデル」(52頁、なお68頁参照)の提示は、示
唆に富む。

●579●郡司ペギオ‐幸夫『私の意識とは何か 生命理論U』
                (叢書=生命の哲学4,哲学書房:2003.1.10)

 前著『生成する生命 生命理論T』で著者と対談していた檜垣立哉氏の『ドゥル
ーズ』に目を通してから本書を読むと、まるで嘘のように見通しがよくなる(錯覚
かもしれないけれど)。

 たとえば著者は、「個物」とは「ことば」であり「クオリア」(主観的質感)で
あり「トークン」であると言う。ここで「トークン」(対象・痕跡・事例・外延・
図)は「タイプ」(型・性格・内包・地、またクオリア=トークンに対する内観)
と対になる概念であって、本書では、普遍的特性に対する個物化過程といったニュ
アンスでその叙述の基調をなしているのだが、それはともかく、個物の生成=存在
をめぐって、個物(トークン)と個物の作動領域(タイプ)の共立がはらむ潜在性
に焦点をあて、死を潜在させた個物の存在様態を論じる著者の方法論=存在論は、
まさしくドゥルーズの「個物の哲学」や「潜在性の存在論」とぴったりと重なりあ
っている。

 まあ、そんなことは私が指摘しなくても、著者自身がもっと正確に書いているの
だから、言わずもがなだ。著者は、哲学は世界や現象を記述し分析する装置ではな
く、「むしろ世界を立ち上げ、世界と共に生きる装置である」(253頁)と言う。
その世界は生命に満ちている。生命は生と死、つまり平板な論理の上で表現すると
XとXの否定の共在というパラドクスのうちにある。しかし生命は、Xの否定をX
の潜在性として構成するしなやかさをもっている。私はいずれ死ぬだろう。だが、
「私はわたしで生きている。ふざけんじゃない」(293頁)。

 また、世界は意識とともにあるが、「意識は、脳という計算機の機能なのではな
い」(271頁)。「わたし」は遍在している。それは決して統合されることなく、
その都度選択されるだけだ。《ゆえに一人の意識とは、その一個人に限定的に由来
する固有のものではない。意識もまた、遍在するわたしが「わたし」を認識するの
であって、統一した全体=一者としてのわたしは実在しない。》(285頁)《超越
論的主体の、或る局在、或る生成が、わたしである。したがってむしろ、問題は統
合ではなく、局在化である。そして局在化は、常に或る局在化としての計算に潜在
する形で発見=構成される。》(287頁)

 このいかにも哲学者然とした物言いの背後、というより本書ではむしろ前景化さ
れているのだが、そこで議論されている事柄を要約することなど私にはできない。
ただ、前代未聞の途方もない試みがひっそりと進行しているのではないかという、
戦慄めいた思いだけが残る。郡司ペギオ‐幸夫の議論を、まるで絵本を読むように
してたどることができる人間の割合が一定の値を超えたとき、きっと何かが「俯瞰
」される。

 ──ところで、本書の通奏低音、隠し味ともいうべき『天使の記号論』(本書第
T章の注にその名が出てくる)で、山内志朗氏が、ドゥンス・スコトゥスの個体化
の原理について「スコトゥスは、個体化とは濃度・「赤さ」のようなものだと考え
る」と書いているのは、本書の議論との関係で実に興味深い。

 これは余談だが、『天使の記号論』に揃い踏みでその名が出てくるドゥルーズ、
パース、ベンヤミンは、本書でつねにそれらの接合面が問題とされる三つの分野、
すなわち哲学(思惟)・科学(認識)・芸術(感覚)に対応している。ついでに書
いておくと、ネグリ/ハートの『〈帝国〉』で、ヨーロッパ近代のはじまりを告げ
る出来事がスコトゥスの「あらゆる存在体は特異な本質を有する」という言葉に託
して描かれている。《その出来事とは、この世界にみなぎる力を肯定すること、言
いかえれば、内在性の平面を発見することであった。》

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